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神の摂理 112

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112 さて、これらから、人間が悪の欲望から清められるために、悪は外なる人から完全に遠ざけられなくてはならないことを明らかにすることができます。というのは、最初に欲望に出口が与えられなければないからであり、出口が与えられないなら、欲望は内部にとどまり、快さはそれ自体から発散し、このように人間を一致へ、そのように行為へと駆り立てます。
欲望は思考の外なるものを通って身体に入ります。それゆえ、思考の外なるものの中に一致があるとき、直ちに身体の中にあり、感じる快さが、そこにあります。
心がどんなものであるかによって、身体が、人間全体がこのようであることは、著作『神の愛と知恵』に見られます(362-370番)。
このことはたとえによって、また例によっても説明されることができます。
[2]たとえによって――欲望はその快さとともに火にたとえられ、それは多くたきつけられればたきつけられるほど、ますます多く燃えます。その火が自由に侵入すればするほど、ますます広く、町の中でその家を、森の中でその木を焼き尽すまでも広がります。
さらにまた、悪の欲望はみことばの中で火に、そして悪はそこからの火災にたとえられます。
霊界の中でもまた悪の欲望はそれらの快さとともに、火のように見えます。地獄の火は他のものではありません。
堤防や防壁で遠ざけられている水による洪水と浸水に比較されることもできます。
身体に死を着せ、広がるような、または癒されないような壊疽(えそ)と膿瘍(しゅよう)に比較されることもできます。
[3]例によって――外なる人の中の悪が遠ざけられないなら、欲望はそれらの快さとともに増大し、多いことははっきりと明らかです。
泥棒は盗めば盗むほど、それだけ盗むことを、ついにやめることができないようにまでも熱望します――同様に、だます者もだますかぎり――憎しみと復讐・ぜいたくと不節制・淫行・冒涜の場合も同様です。
自己愛からの支配する愛は、その抑制がゆるめられればゆるめられるほど、ますます増すことはよく知られています。世の愛からの財産を所有しようとする愛も同じであり、それらに限界または終わりがないように見えます。
それらから、外なる人の中の愛が遠ざけられないなら、それだけそれらの欲望は多く、なおまた、悪に抑制がゆるめられればゆるめられるほど、それだけ欲望は増大することが明らかです。