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神の摂理 33

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33 人間は、どのように近くさらにまた近く主に結合されるか、またその後、どのようにその結合はさらに近く見えるか、手短に述べます。
人間は、どのように近くさらにまた近く主に結合されるか
このことは知識だけによっても、知性だけによっても、それどころか、知恵だけによっても生じません、しかし、それらに結合した生活(いのち)よって生じます。
人間の生活(いのち)は彼の愛であり、愛は多種多様です。
全般的に悪の愛と善の愛があります。悪の愛は、姦淫し、復讐し、だまし、冒涜し、他の者からその財産を奪う愛です。それらが考えられ、行なわれる中で、悪の愛は、心地よさと快さを感じます。
この愛の情愛のものである派生物は、悪があるのと同じ数だけ多くあり、それへそれ自体を向けています。そして、その愛の知覚と思考は、虚偽があるのと同じ数だけ多くあり、それらの虚偽はそれらの悪に賛同し、それらを強めています。
理解力が善と一つとなっているように、これらの虚偽は悪と一つとなっていて、互いに分離されません、一つはもう一つのもののものであるからです。
[2]そこで、主はそれぞれの生活(いのち)の愛の中に、彼の情愛を通って知覚と思考の中に流入され、前に言われたように、逆ではないので、悪の愛を欲望であるその情愛とともに、遠ざけるのでないなら、さらに近くその方に結合されることはできないことがいえます。
これらの欲望は自然的な人間の中に住み、人間は何でも自然的な人間から行ない、自分自身から行なうように感じるので、それゆえ、人間は自分自身からかのようにそれらの愛の悪を遠ざけなくてはなりません。それでその時、それらを遠ざければ遠ざけるほど、それだけ主はさらに近く近づき、ご自分を彼に結合されます。
欲望はそれらの快さとともに主に対して扉をふさぎ、閉め、人間自身が扉を閉ざして保ち、外から開かないように押し、抵抗する間は、主により追い出されることができないことをだれもが理性から見ることができます。
人間自身が開けなくてはならないことは、「黙示録」の中の、主のことばから明らかです、

見よ、わたしは戸に立ち、たたく。だれかがわたしの声を聞いて、戸を開けるなら、わたしは彼のところに入り、わたしは彼とともに、彼もわたしとともに食事をする(3:20)。

[3]ここから、だれかが悪を悪魔のもののように、主が入られるときの障害物のように避ければ避けるほど、それだけ近くさらにまた近く主に結合されること、また、それらの悪をそれだけ多くの燃えている黒ずんだ悪魔のように避ける者は最も近くに結合されることが明らかです。なぜなら、悪と悪魔は一つであり、そして悪の虚偽とサタンは一つであるからです――それゆえ、主は善の愛とその情愛の中へ、それらを通って知覚と思考の中へ流入し、真理であるすべてのものを善から得て、人間はその中にいます。そのように、地獄のものである悪魔は、悪の愛と欲望であるその情愛の中へ、それらを通して知覚と思考の中へ流入し、虚偽であるそれらすべてのものを悪から得て、人間はその中にいます。
[4]その結合はどのようにさらに近く見えるか
自然的な人間の中の悪から、それらを避け、嫌悪することによって、遠ざかれば遠ざかるほど、ますます人間は主とさらに近く結合されます。主そのものである愛と知恵は、空間の中にないので――というのは愛のものである情愛と知恵のものである思考は、空間と共通なものを何も持たないから、それゆえ、主は愛と知恵による結合にしたがってさらに近く見え、逆に、愛と知恵を拒絶するにしたがって、さらに遠く見えます。
霊界の中に空間は存在しません、しかし、そこの距離と臨在は、情愛が似ていることと似ていないことにしたがった外観です。なぜなら、言われたように、愛のものである情愛と知恵のものである思考は、本質的に霊的なものであって空間の中にないからです。それらの事柄については著作『神の愛と知恵』の中に示されています(7-10番)。
[5]悪が遠ざけられた人間と主の結合は、主の次のことばによって意味されます――

心のきれいな者は神を見ます(マタイ5:8)。

またこれらによって、

わたしの戒めを持ち、またそれを行なう者に、わたしは住まいをつくります(ヨハネ14:21, 23)。

戒めを持つことは知ること、戒めを行なうことは愛することです、なぜなら、そこにはまた、「 わたしの戒めを行なう者は、わたしを愛する者である」と言われているからです。