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神の摂理 101

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101 しかし、多くの者は、特に、仁愛から分離した信仰を自分自身に確信した者は、悪の中にいるとき地獄の中にいることを知りません。確かに悪が何か知りません、その理由は、「律法のくびきの下にいない、このように律法は自分たちを断罪しない、なおまた、救いに何も寄与できないので、何らかの悪を自分自身から遠ざけることができない、それに加えて何らかの善を自分自身から行なうことができない」と言って、それらについて決して考えなかったからです。
これらの者が悪について考えることを放棄し、そのことを放棄するので引き続きそれらの中にいます。
『新しいエルサレムの教え 信仰ついて』の中に、その者たちが主により、「マタイ福音書」(25:32, 33, 41-46)の雄ヤギによって意味されているのが見られ(61-68番)、その者について言われています、

わたしから去れ、呪われた者ども、悪魔とその使いたちに用意された永遠の火の中へ(41節)。

[2]なぜなら、自分自身のもとの悪について何も考えない者は、すなわち、自分自身を調べ、その後、それらをやめない者は、悪が何か知らず、その時、そのことをその快さから愛することしかできないからです。なぜなら、そのことを知らない者は、それを愛し、またそのことについて考えることを放棄する者は、継続してその中にいるからです。その者は盲目の者のように見ません。なぜなら、思考は目が美しいものと醜いものを見るように善と悪を見るからです。そして、それを考え、欲する者も、悪が神の前に見られないと信じる者も、そしてもし見られても許されると信じる者は悪の中にいます。このように、〔自分に〕悪はないと考えるからです。
もし悪を行なうことをやめるにしても、神の前に罪であるからやめるのではなく、法律と名声を恐れるからです。しかし、それでもそれらを自分の霊の中で行ないます、なぜなら、考え、欲するのは人間の霊であるからです。それゆえ、人間が世の中で自分の霊の中で考えたことを、世から去った後、霊になるとき、行ないます。
[3]すべての人間は死後にやって来る霊界の中で、「あなたの信仰はどんなものでしたか、あなたの教えはどんなものですか」とは尋ねられません、「あなたの生活はどんなものでしたか」と尋ねられます。「このようなものか、またはこのようなものか」と尋ねられます――というのは、だれかの生活がどんなものかによって、彼の信仰が、それどころか教えがどのようなものであるか知られるから。というのは、生活が、自分自身に教えを、信仰をつくるからです。