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聖書について26

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26 (5)みことばの霊的な意味は、今後、主からの本物の真理の中にいる者でないなら与えられない――

この理由は、主だけからでないなら、またその方からの本物の真理の中にいないなら、だれも霊的な意味を見ることができないことです。というのは、みことばの霊的な意味は、主について、その方の王国についてだけ扱っており、天界のその方の天使はその意味の中にいます、そこにその方の神的真理であるからです。対応の知識の中にいるなら、またその知識よって、みことばの霊的な意味をプロプリウム(自己固有のもの)の知性から探し出そうとするなら、人間はこれを害することができます。なぜなら、自分の知っている対応の何らかのものから、その意味を曲解することができ、確信するまでにも虚偽を引き出すことができ、このことは神的真理を、また天界を害することになるからです――それゆえ、だれかが、主からでなく、自分自身から、その意味を明らかにしようとするなら、〔その者に〕天界は閉ざされます。それが閉ざされるとき、その人間は何も見ないか、または霊的に狂います。
[2] さらにまた理由があって、それは、主は直接に新しい真理を注ぎ込まれるのではなく、それぞれの者を、みことばによって、また彼のもとにある真理から教えられることです。それゆえ、人間が神的真理の中にいないなら、または、ただわずかな真理の中に、同時に虚偽の中にいるなら、これらから真理を虚偽化することができます。よく知られているように、みことばの文字どおりの意味に関して、このことは、異端者によってもなされています。
それで、だれかが、みことばの霊的な意味の中に、またはその意味のものである本物の真理に入り込んで、曲解しないように、主により、みことばの「ケルビム」によって意味される見張り番が置かれました。
[3] 見張り番が置かれたことは私に次のように表象されました――

袋のように見える大きな財布を見ることが与えられた。その中には多くの銀貨がたくわえられていた。また開いていたので、だれもが、そこにたくわえられていた銀貨を取り出すこと、というよりは、奪うことができるように思えた――しかしその財布の近くに、見張り番のふたりの天使たちが座っていた。
たくわえられていた場所は、馬小屋の飼い葉桶のように見えた――すぐ近くの部屋に慎み深い娘たちが、貞潔な妻とともに見られた。またその部屋の近くにふたりの幼児たちが立っていて、彼らは「子どもっぽくではなく、賢く遊ばなくてはならない」と言われた――その後、娼婦が見られ、さらに死んで横たわっている馬が見られた。
[4] それらを見たとき、私は、それらによって、みことばの文字どおりの意味が表象され、その意味の中に霊的な意味があることを教えられた。
 銀貨で満ちた大きなその財布は、豊富な真理の認識を意味した。
開かれていたこと、またそれでも天使たちにより守られていたことは、だれでもここから真理の認識を取り出すことができることを、しかしその中に純粋な真理がある霊的な意味を、だれかが虚偽化しないように、警戒されていることを意味した。
財布が横たわっていた馬小屋の飼い葉桶は、理解力のための霊的な教育を意味した。このことを飼い葉桶が意味するのは、ここから食べる馬が理解力を意味するからである。
すぐ近くの部屋の中に見られた慎み深い娘たちは、真理の情愛を、また貞潔な妻は善と真理の結合を意味した。
幼児たちはその中にある知恵の無垢を意味した。彼らは第三の天界からの天使たちであり、そのすべての者は幼児のように見える。
死んだ馬とともに娼婦は、今日の多くの者によるみことばの虚偽化を意味した、その虚偽化によってすべての真理の理解力は滅んだのである。娼婦は虚偽化を、そして死んだ馬は真理の理解力が何もないことを意味した。