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聖書について

目次▶︎1

DOCTRINA NOVAE HIEROSOLYMAE DE SCRIPTURA SACRAと題された本書は1763年(著者75五歳)にアムステルダムで出版されました。

著者七十歳のときに『天界と地獄』を含む「ロンドン五部作」出版の後、やや間を置いて、他書『主について』『生活の教え』『信仰について』とともに出版した「新しいエルサレムの教え四部作」の一つです。同年には引き続いて『神の愛と知恵』も出版しています。

本書の題名は『聖書について』となっていますが、目次を見れば、「みことば」について語っており、その「みことば」の中に霊的な意味があり、その土台・容器・支柱が文字どおりの意味であることがわかります。もともと目次はなく、本文の各章の見出しを目次としたものですが、その目次を眺めることで、本書の要旨がわかるようになっています。最初に目次をよく見て本文を読むなら、理解しやすくなるでしょう。

なお、本書のほとんどの内容が多少書き替えられてスヴェーデンボリ最後の大作『真のキリスト教』の第四章(DE SCRIPTURA SACRA SEU VERBO DOMINI)に再録されています。そのことを巻末の注釈の後に一覧表で示しておきます。〔★印は巻末に注釈があることを示します〕

  2012年12月  鈴木泰之

聖書について

まえがき◀︎目次▶︎2

(1)聖書すなわちみことばは神的真理そのものである

1 すべての者は、「みことばは神からであり、神的霊感を与えられたもの、ここから聖なるものである」と口にします。しかしそれでも、その中のどこに神的なものがあるのか、今まで知られていません——なぜなら、文字からは、みことばは奇妙な文体であり、崇高でも輝いてもいないで、外見上、現代に書かれたもののような普通の文書に見えるからです。
そのことから、神の代わりに自然を、または神よりも自然を崇拝し、ここから主により天界からではなく、自分自身から、自分のプロプリウム(固有のもの)から考える者は、みことばについて容易に誤りに、軽蔑に陥ってしまい、それを読むとき、「これは何なのか?それは何なのか?これが神的なものなのか?無限の知恵をもたれる神がこのように語るのか?宗教的なものから、ここからの信念からでないなら、その神聖さはどこにあり、どこからなのか?」とつぶやかざるをえません。

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1◀︎目次▶︎3

2 しかしこのように考える者は、みことばを「天と地の神であられるエホバご自身が、モーセと預言者を通してみことばを語られた。ここから、神的真理そのものでしかありえないものである」と見なしません。なぜなら、それをエホバご自身が語られるからです——「エホバと同一の方であられる主が、福音書で、みことばの多くのものをご自分の口から、また他のものを聖霊である自分の口の霊から語られたものである」とも見なしません——それゆえ、その方は「自分のことばの中にいのちがあり、照らす光であり、真理である」と言われたのです。

エホバご自身が預言者を通してみことばを語られたことは、『新しいエルサレムの教え 主について』の中に示されています(52, 53番)。
みことばがいのちであることは主ご自身が福音書で語られています。「ヨハネ福音書」に、

わたしがあなたがたに話すことばは、霊であり、またいのちです(6・63)。

同書に、

イエスはヤコブの泉で女に言われた、「もしあなたが神の賜物を知り、また『わたしに飲ませてくれ』とあなたに言う者がだれであるか知っているなら、あなたはその者から求め、また、その者はあなたに生きる水を与えたでしょう。……わたしが与える水から飲む者は、永遠に渇きません。しかし、わたしが与える水は、その人の中で水の泉となり、永遠のいのちの中にわき出ます」(4・6, 10, 14)。

ヤコブの泉」によって、また「申命記」33・28のように、みことばが意味されます。それゆえ、主もまたそこに座られ、女と話されました——「水」によって、みことばの真理が意味されます。 同書に、

イエスは言われた、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て、飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているように、生きる水の川がその人の腹から流れ出ます」(7・37, 38)。

同書に、

ペテロはイエスに言った、「あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます」(6・68)。

それゆえ、主は「マルコ福音書」で言われました、

天と地は過ぎ去ります……わたしのことばは過ぎ去りません(13・31)。

主のことばが、いのちであることは、「ヨハネ福音書」で教えられるように、主がいのちと真理であられるからです。

わたしは、道、真理、いのちです(14・6)。

また同書に、

初めに、ことばがあった。ことばは神のもとにあった。ことばは神であった。……この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった(1・1, 4)。

そこの「ことば」によって神的真理に関する主が意味され、その方の中にだけ、いのちがあり、光があります。
そのことから、みことばが主からであり、主であることが言われます、

生きた水の泉(エレミヤ2・13, 17・13, 31・9)。
救いの泉(イザヤ12・3)。
泉(ゼカリヤ13・1)。
いのちの水の川(黙示録22・1)。

また次のことが言われています、

王座の真ん中の小羊は、彼らを牧し、彼らを生きた水の泉へ導く(黙示録7・17)。

さらにまた他にも、みことばが、主が人間とともに住まわれる「聖所」や「幕屋」と呼ばれる箇所があります。

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2◀︎目次▶︎4

3  しかし自然的な人は、それでもそれらのものから、「みことばは神的真理そのものであり、その中に神的知恵と神的いのちがある」ことに納得することができません。というのは、それを文体から眺め、 その文体の中にあるものを見ないからです。
しかしみことばの文体は神的な文体そのものであり、他のすべての文体はどれほど高尚ですぐれて見えても、それは、光と比べて暗黒のようであって、比較されることができません。
みことばの文体は、すべての文の中に、すべての言葉の中に、それどころか、あるところでは文字そのものの中に、聖なるものがあるようなものです。ここから、みことばは人間を主と結合させ、天界を開きます。
[2] 主から発出する二つのもの神的愛と神的知恵があります。あるいは同じもの神的善と神的真理があります。なぜなら、神的善は主の神的愛に属し、神的真理は主の神的知恵に属すからです――みことばは、その本質ではこの両方のものです。またそれは、人間を主と結合させ、天界を開くので、言われたように、それゆえ、みことばは、それを自分自身だけから読むのではなく、主から読む者を、愛の善と知恵の真理で、彼の意志を愛の善で、彼の理解力を知恵の真理で満たします。ここから、みことばによって人間にいのちがあります。

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3◀︎目次▶︎5

4  みことばはそのようなものであって、このことを人間が疑わないように、私は主により、みことばの内意を啓示されました。その内意とは、本質では霊的なものであり、身体の中の霊魂のように、自然的である外的な意味に内在します。その意味は、文字を生かす霊です――それゆえ、その意味は、みことばの神性と神聖さについて証言することができ、自然的な人もまた、本人が確信したいなら、〔その意味を〕確信できます。

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4◀︎目次▶︎6

(2) みことばの中に今まで知られていない霊的な意味がある

次の事柄をその順に述べます――

(1) 霊的な意味とは何か。
(2) その意味は、みことばの中のすべてと個々のものの中にある。
(3) みことばが神的霊感を与えられ、すべての言葉の中に聖なるものがあるのは、その意味からである。
(4) その意味は、今まで知られていなかった。
(5) 今後、主からの本物の真理の中にいる者でないなら与えられない。

5 (1) 霊的な意味とは何か――

霊的な意味は、教会の何らかの教義を確認するために、だれかがみことばを調べ、説明する時、文字どおりの意味から明らかになるものではありません。このときの意味は、みことばの文字どおりの意味です。
しかし霊的な意味は文字どおりの意味に見られません。その中の内部にあって、身体の中の霊魂のように、目の中の思考また顔の中の情愛のように、それらは原因と結果のように、一つとして働きます。
特に、この意味は、人間のためにだけでなく、天使のためにも、みことばを霊的なものにしています。それゆえ、みことばはその意味によって天界と伝達しています。

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5◀︎目次▶︎7

6 主から、天的なもの霊的なもの自然的なものが、あるものの後ろにもう一つのものと発出しています。

主の神的愛から発出するものは天的なものと言われ、それは神的善です――主の神的知恵から発出するものは霊的なものと言われ、それは神的真理です――両方のものから発出するものが自然的なものであり、それは最後のものの中でそれらの複合体です。

第三の天界すなわち最高の天界を構成している主の天的な王国の天使は、天的と呼ばれる主から発出する神性の中にいます。なぜなら、主からの愛の善の中にいるからです――第二の天界すなわち中間の天界を構成している主の霊的な王国の天使は、霊的と呼ばれる主から発出する神性の中にいます。なぜなら、主からの知恵の真理の中にいるからです(*)――けれども、世の教会の人間は、自然的な神性の中にいます、その神性も主から発出しています。

これらから、主からご自分の最後のものまで発出している神性は、三つの段階を通って下り、それらは天的・霊的・自然的と名づけられていることがいえます。

主から人間にまで下る神性は、それらの三つの段階を通って下ります。下ったとき、それらの三つの段階を本質的に含んでいます――すべての神性はこのようなものです。それゆえ、その最後の段階の中にある時、それは満ちています。

みことばは、このようなものです。

これは、その最終的な意味では自然的であり、内的な意味では霊的であり、そして最内部の意味では天的であり、それぞれの意味に神的なものがあります。

みことばがこのようなものであることは、自然的なものであるその文字どおりの意味の中に見られません。その理由は、世の人間が天界についてこれまで何も知らず、ここから、何が霊的なものか、また何が天的なものか、したがってそれらのものと自然的なものの間の相違も知らなかったからです。

 

*脚注 一つは天的な王国と呼ばれ、もう一つは霊的な王国と呼ばれる二つの王国があり、それらから天界が構成されることは、著作『天界と地獄』20―28番を見てください。〔著者自身による脚注です〕

 

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6◀︎目次▶︎8

7 これらの段階の間の相違は、対応が知られないなら、知られることができません。なぜなら、これらの三つの段階は、目的・原因・結果のように、または前のもの・後のもの・最後のもののようにまったく分離しています、しかし、対応によって一つになっているからです。というのは、自然的なものは霊的なものに、また天的なものに対応するからです。

けれども、対応が何か、著作『天界と地獄』の中に見ることができ、そこに「人間のすべてのものと天界のすべてのものとの対応について」(87―102番)、「地のすべてのものと天界の対応について」(103―115番)が扱われています。さらに、後で、みことばから示される例を見てください。

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7◀︎目次▶︎9

8 みことばは内的に、霊的であり、天的であるので、それゆえ、対応そのものによって書かれています。対応そのものによって書かれているものは、預言者や福音書記者によるような最終的な意味での文体で書かれています。それは、たとえ普通のものに見えても、それでも神的な知恵とすべての天使の知恵を本質的に内蔵しています。

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8◀︎目次▶︎10

9  (2) 霊的な意味は、みことばの中のすべてと個々のものの中にある――このことは、次のいくつかの例からよくわかるでしょう。
ヨハネは「黙示録」の中で言っています、

私は開かれた天を見た。そのとき見よ、白い馬。その上に乗る方は忠実と真実と呼ばれ、公正のうちに裁き、戦われる。その目は……火の炎、そしてその頭の上に多くの王冠。その方以外にだれも知らない名前が書かれていた。血に染まった衣を着ていて、その方の名前は神のみことばと呼ばれる。天の中の軍隊が白い馬に乗り、白い清潔な亜麻布を着て、その方に従った。……衣の上に、ももの上に「王の王、主の主」の名前が書かれていた。さらに私は、ひとりの天使が太陽の中に立っているのを見た。その者は大きな声で叫んだ、「……来い、大きな晩餐会に、王の肉、千人隊長の肉、力ある者の肉、馬とその上に乗る者の肉、すべての自由人と奴隷の肉、小さい者と大きい者の肉を食べるために集まれ」(19・11―18)。

これらが何を意味するのか、みことばの霊的な意味からでないなら、だれも見ることができません。また対応の知識からでないなら、だれも霊的な意味を見ることができません。なぜなら、すべての言葉は対応しており、そこに空虚な言葉は何もないからです。
対応の知識により、「白い馬」が何を意味するのか、「その上に乗る方」、火の炎のような「目」、頭の上の「王冠」、「血に染まった衣」、天のその方の軍隊が着た「白い亜麻布」、「太陽の中に立つ天使」、来て、集まる「大きな晩餐会」、さらに食べる「王の肉」、「千人隊長の肉」や他の多くのものが何を意味するのか、教えられます。
けれども、個々のものが霊的な意味で何を意味するのか、小著『白い馬について』の中に見られ、そこに説明されています。それゆえ、それらをさらに説明することは、ここでは省きます。
その小著の中に、みことばに関する主が述べられており、そのことが示されています。火の炎のような「その方の目」によって、頭の上の「王冠」によって、その方以外にだれも知らないような「名前」によって、みことばの霊的な意味が意味され、主ご自身、それと主がそれを啓示することを欲せられる者以外に、だれもそれを知らないことが意味されます。なおまた「血に染まった衣」によって、みことばの文字どおりの意味である自然的な意味と、それに暴力が加えられたことが意味されます。このように述べられているものが、みことばであることは、はっきりと明らかです。なぜなら、「その名前は神のみことばと呼ばれる」と言われているからです。また、そこに主が意味されていることもはっきりと明らかです。なぜなら、馬の上に乗られる方の名前が「王の王、主の主」と書かれていたと言われているからです。
教会の終わりに、みことばの霊的な意味が開かれなくてならないことは、ここで言われている馬やその上に乗る方によってだけでなく、太陽の中に立つ天使によって、王・千人隊長・力ある者・馬の、その上に乗る者の、すべての自由人と奴隷の肉を食べに来るよう、すべての者が招待されている「大きな晩餐会」によっても意味されます。
すべてのこれらの表現は、身体の中の霊魂のように霊的なものがそれらの中に内在しないなら、空虚な言葉、いのちと霊のない言葉になります。

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9◀︎目次▶︎11

10 「黙示録」第21章に、「聖なるエルサレム」が次のように述べられています――

その中には水晶のように輝く、碧玉のような、最も貴重な石に似た光があった。十二の門を持つ大きな高い城壁があり、門の上に十二人の天使たちがいて、イスラエルの子らの十二部族の名前が書かれていた。城壁は百四十四ペーキュスであり、それは人間の尺度、すなわち、天使の尺度であった。城壁の構造は碧玉であり、その土台はすべての宝石から、碧玉、サファイア、玉髄、エメラルド(緑玉)、紅しまめのう、赤めのう、貴かんらん石、緑柱石、トパーズ、緑玉髄、ヒヤシンス石、紫水晶からできていた。十二の門は十二の真珠であった。都そのものは純粋なガラスに似た純金であり、四角であった。長さ、幅、高さは等しく、十二千スタディオンであった(11, 12, 16―21節)。他にも多くのこと。

これらすべてのものが霊的に理解されなければならないことは、『主についての教え』(62―65番)の中に示されているように、「聖なるエルサレム」によって、主により設立されなければならない新しい教会が意味されることから明らかにすることができます――また、そこに「エルサレム」によって教会が意味されるので、都として、その門・その城壁・城壁の土台、さらにその尺度について言われているすべてのものは、霊的な意味を含むことがいえます。なぜなら、教会に属すものは霊的なものであるからです。
けれども、個々のものが何を意味するかは、ロンドンで1758年に出版した『新しいエルサレムについて』の著作で説明されています(1番)。それゆえ、さらにそれらを説明することは省きます。
ここからは、霊魂が身体に内在するように、その記述の個々のものに霊的な意味が内在することを知れば十分です。また、その意味がなくて、そこに書かれているものの中に、教会のものは何も理解されません――例えば、都は純金からその門は真珠から城壁は碧玉から城壁の土台は貴重な石からできていたこと、城壁は百四十四キューピッド〔ペーキュス〕であり、それは人間の尺度、すなわち、天使の尺度であったこと、都そのものは長さ・幅・高さが十二千〔一万二千〕スタディオンであったこと、また多くのことです。
けれども、対応の知識から霊的な意味を知った者はそれらを理解します。例えば、「城壁」と「その土台」は、みことばの文字どおりの意味からの教えを意味すること、また数の「十二」、「百四十四」、「十二千」は似たものを、すなわち、統一体としての教会のすべての真理と善を意味することです。

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10◀︎目次▶︎12

11 「黙示録」第7章で言われています、

イスラエルのそれぞれの部族から十二千〔一万二千〕人、ユダの部族から、ルベンの部族から、ガド、アセル、ナフタリ、マナセ、シメオン、レビ、イッサカル、ゼブルン、ヨセフとベニヤミンの部族から、それだけの数の〔合計で〕百四十四千〔十四万四千〕人が封印された。

これらの霊的な意味は、主からの教会をもつすべての者が救われることです――というのは、霊的な意味で、「額の中に印を押されること」すなわち「封印されること」は、主により認められ、救われることを意味するからです。「イスラエルの十二部族」によって、その教会からのすべてのものが意味されます。「十二」、「十二千」、「百四十四千」によって、すべてのものが意味され、「イスラエル」によって、教会が、またそれぞれの「部族」によって教会の何らかの特殊なものが意味されます――それらのことばの霊的な意味を知らない者は、「これだけの数の者だけが救われ、救われるのはただイスラエルとユダの人々だけである」という見解をもってしまいます。

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11◀︎目次▶︎13

12 「黙示録」第6章で言われています、

小羊が書物の最初の封印を開いたとき、白い馬が出てきて、その上に乗る者は弓を持ち、その者に王冠が与えられた。第二の封印を開いたとき、赤い馬が出てきて、その上に乗る者に大きな剣が与えられた。第三の封印を開いたとき、黒い馬が出てきて、その上に乗る者は手に秤(はかり)を握っていた。第四の封印を開いたとき、青ざめた馬が出てきて、その上に乗る者に死があった。[(1―5, 7, 8節)]

これらが何を意味するかは、霊的な意味によってだけ説明されることができます。「封印を開くこと」が何を意味し、「」が何を、その他のものが何を意味するか知られる時、完全に説明されます。
それらによって、みことばの理解に関して、教会の継続的な状態が始めからその最後まで記述されています――「小羊が巻き物の封印を開くこと」によって、主により教会の状態が明らかにされることが意味されます。「」によって、みことばの理解が意味され、「白い馬」によって、教会の最初の状態の中での、みことばからの真理の理解が、その馬の上に乗る者の「弓」によって、虚偽に対して戦う仁愛と信仰の教えが、「王冠」によって、永遠のいのち、勝利の報酬が意味されます。
[2] 「赤い馬」によって、教会の第二の状態の中での善に関して失われたみことばの理解が意味され、「大きな剣」によって、真理に対して戦う虚偽が意味されます――「黒い馬」によって、教会の第三の状態の中での真理に関して失われたみことばの理解が意味され、「秤(はかり)」によって、ほとんど何ものでもないほどに少ない真理に対する評価が意味されます――「青ざめた馬」によって、第四の状態すなわち教会の最後の状態の中での、生活の悪とそこからの虚偽から無とされた、みことばの理解が意味され、「」によって永遠の断罪が意味されます。
霊的な意味では、それらによってこのようなものが意味されることは、文字どおりの意味ではすなわち自然的な意味では見られません。それゆえ、霊的な意味が一度でも開かれないなら、「黙示録」のこのことやまた他ものに関して、その中に神的な聖なるものが隠れていることをついに何も知らないほどに、閉ざされてしまったでしょう。
「ゼカリヤ書」(6・1―8)の「青銅の二つの山の間から出てきた四つの戦車」や「四つの馬」よって意味されることも同じです。

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12◀︎目次▶︎14

13「黙示録」第9章にあります、

第五の天使がラッパを吹いた。すると、私は天から星が地上に落ちるのを見た。その星に深淵の穴のかぎが与えられた。深淵の穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が上がった。太陽と空気は穴の煙から暗くなった。また、煙から地上に、いなごが出てきた。彼らに地のさそりの持つような力が与えられた。……いなごの形は戦いに備えた馬に似ていた。彼らの頭の上に金に似た王冠のようなものがあり、彼らの顔は人間の顔のようであった。また女の髪のような髪を持ち、歯はししの歯のようであった。また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その羽の音は多くの……戦いに馳せつける戦車の音のようであった――また、さそりのような尾を持ち、尾に針があり、その尾には人間を五カ月間害う力があった。自分たちに王を、深淵の御使いを持ち、その名前はへブル語でアバドン、ギリシア語でアポリュオンの名前であった(1―3, 7―11節)。

これらも、霊的な意味が啓示されていないなら、何も理解されません。なぜなら、そこに何も無意味に言われていないで、すべてのものは、個々のものに関して意味をもっているからです。
そこには、みことばからの真理のすべての認識が失われ、ここから感覚的になった人間が、自分自身に虚偽が真理であると説きつけている時の教会について扱われています。
[2] 「天から落ちた星」によって、失われた真理の認識が意味されます。「暗くなった太陽と空気」によって、暗黒となった真理の光が意味されます。その穴の煙から出てきた「いなご」によって、感覚的になり、すべてのものを〔感覚の〕欺きから見て、判断する者たちにあるような最外部の中の虚偽が意味されます。「さそり」によって、彼らの間違った信念が意味されます――いなごが「戦いに備えた馬のように」見られたことは、真理を理解しているかのような彼らの誤った推論を意味します――いなごに「頭の上に金に似た王冠」があったこと、また「彼らの顔は人間の顔のようであった」ことは、自分自身が勝利者と知恵ある者に見えたことを意味します。彼らの「女の髪のような髪」は、自分自身には真理の情愛の中にいるかのように見えたことを意味します。彼らの「ししのような歯」は、人間の自然的な最外部のものである感覚的なものが、彼らにはすべてにまさった力であるように見えたことを意味します――
[3] 彼らの「鉄の胸当てのような胸当て」は、〔感覚の〕欺きからの論証を意味し、それによって戦い、力があるのです――彼らの「戦いに馳せつける戦車の音のような羽の音」は、みことばからの教えの真理からかのような誤った推論を意味し、それの推論から真理と戦おうとします。彼らの「さそりのような尾」は、信念を意味します。彼らの「尾の中の針」は、それによって欺く策略を意味します――その針の「人間を五カ月間害う力」は、真理の理解力と善の知覚の中にいる者を何らかの麻痺の中に導くことを意味します――自分たちの上に「アバドンまたはアポリュオンの名前の王、深淵の御使い」を持っていたことは、彼らの虚偽は地獄からであったことを意味し、そこには単なる自然的な者、また自己知性の中にいる者がいます。
[4] これが、それらのことばの霊的な意味であり、そこからは文字どおりの意味の中に何も現われていません。
「黙示録」の中のどこでも同様です。
霊的な意味の中では、すべてのものは連続する結びつきの中で密接に関連しており、その意味を構成するために、文字どおりの意味すなわち自然的な意味の中のそれぞれの言葉が貢献していることを知らなくてはなりません――それゆえ、小辞〔であっても、それ〕が取り去られるなら、結びつきは破られ、関係は失われます。それで、そのことが行なわれないように、この預言書の終わりに加えられています、

ことばは取り除かれてはならない(黙示録22・19)。

旧約聖書の預言者たちの書物も同様です。そこから何かが取り去られないように、主の神的摂理から、それらの中の個々のものが文字の数までも数えられ、このことはマソラ学者により行なわれました。

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13◀︎目次▶︎15

14 主は、教会の最後の時である時代の完成(世代の完了)について、ご自分の弟子たちの前で話され、そのところで、継続する状態についての予言の終わりに言われました、

それらの日々の苦難の後、すぐに太陽は暗くされ、月はその光を与えず、星は天から落ち、天の力は揺り動かされます。その時、天に人の子のしるしが現われ、その時、地のすべての種族は嘆き、人の子が多くの力と栄光とともに天の雲の中にやって来るのを見ます。また、ラッパと大きな音とともに天使たちを送り出し、天の端からその端まで、四方から、その選ばれた者を集めます(マタイ24・29―31)。

[2] これらによって霊的な意味では、太陽と月が暗くされ、星が天から落ち、天に主のしるしが現われること、雲の中にその方を見ること、同じくラッパをもった天使たちを見ることは意味されません。しかしそこの言葉の個々のものによって、教会に属す霊的なものが意味され、その終わりの状態について、それらのことが言われたのです。
というのは、霊的な意味では、暗くされる「太陽」によって愛に関する主が意味され、光を与えない「」によって信仰に関する主、天から落ちる「」によって失われてしまう善と真理の認識、「天の中の人の子のしるし」によって神的真理の出現、嘆く「地の種族」によって信仰のものであるすべての真理の欠如と愛のものである善の欠如、「天の雲の中に、力と栄光とともに人の子が到来すること」によって、みことばの中に主が現在されることと啓示、「」によって、みことばの文字どおりの意味、「栄光」によってみことばの霊的な意味、「大きな音のラッパをもった天使」によって神的真理がやって来る天が意味され、「天の端からその端まで、四方から、選ばれた者を集めること」によって愛と信仰に関する新しい教会が意味されるからです。
[3] 太陽と月の暗いことが、また地上への星の落下が意味されないことは、主が世に来られる時の教会の状態について同様のことが言われている預言者の書物からはっきりと明らかです。
例えば、「イザヤ書」に、

見よ。エホバの残酷な日が、憤りと怒りの日が来る。……天の星は、その星座は、その光を光らせない、太陽はその上る中で暗くされ、月はその光を輝かせない。わたしは地上の悪を罰する(13・9―11、また24・21, 23も見よ)。

「ヨエル書」に、

エホバの日、暗やみと暗黒の日が来る。
太陽と月は暗くなる。星はその輝きを引き込ませる(2・1, 2, 10, 3・15)。

「エゼキエル書」に

わたしは天をおおい、星を暗くする、太陽を雲でおおい、月に光を輝かせない。すべての光の光る物をわたしは暗くし、わたしは地の上に暗やみを与える(32・7, 8)。

エホバの日」によって、主の来臨が意味されます。それは、もはや教会の中に何らかの善と真理が、また何らかの主についての認識が残らない時でした。

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14◀︎目次▶︎16

15 霊的な意味なしに旧約聖書のみことばの預言の多くの箇所は理解されないことが知られるために、ほんのいくつかだけを示します。
例えば、「イザヤ書」の次のものです、

その時、エホバはオレブの岩でミデアンを打ったように、アッシリヤに対してむちを振り上げる。その杖を海の上に、エジプトの道の中で持ち上げる。その日になると、彼の重荷はあなたの肩の上から、くびきはあなたの首から去る。彼はアヤテにやって来て、ミグロンを通り過ぎ、ミクマスに対して自分の腕を与える。メバラを通り過ぎ、ギベアは私たちの宿泊所となり、ラマは身震いし、サウルのギブアは逃げる。ガリムの娘よ、声をあげて泣きわめけ。ラユシャよ、聞け。哀れなアナトテ。マデメナはさまよう。ゲビムの住民は集まる。今後の日々、ノブの中に存続するのか?シオンの娘の山、エルサレムの丘は、自分の手を動かす。……エホバは森の茂みを鉄器で切り落とし、レバノンは壮大なものによって倒れる(10・24―34)。

ここには名前だけが出てきて、それらからは霊的な意味の助けがなければ、そのみことばの中のすべての名前が意味している天界と教会の事柄を何も汲み取ることができません。その意味から、すべての真理を歪曲することと虚偽を確認する記憶知によって、教会全体が破壊されたことが推理されます。
[2] 同じ預言書の他のところに――

その日……エフライムのねたみは去り、ユダの敵は断ち切られる。エフライムはユダをねたまず、ユダはエフライムを苦しめない。しかし彼らは、海の方、ぺリシテ人の肩に飛びかかり、一緒に東の息子から略奪する。エドムとモアブに彼らは手を伸ばす……。エホバはエジプトの海の舌に対して呪い、ご自分の霊の激しさをもって、ご自分の手を川の上に揺り動かし、それを七つの流れの中に、くつで〔踏んで〕道をつくるように打たれる。その時、ご自分の民の残りの者に、アッシリヤからの残された街道がある(11・13―16)。

ここもまた、個々の名前によってそこに何が意味されているか知らないなら、だれも、何らかの神的なものを見ません。そのときそれでも、そこの1節から10節までに、はっきりと明らかであるように、そこに主の来臨について、またその時に何が起こるか扱われています。
そこで、霊的な意味の助けがなくて、それらによって、無知からの虚偽の中にいて、悪により惑わされることを許さなかった者たちが主へ近づくこと、その時、教会はみことばを理解し、またその時、彼らはもはや虚偽により害されないことが順序正しく意味されていることを、だれが見るようになるでしょうか?
[3] 名前がない箇所も同様です。例えば「エゼキエル書」に――

このように主エホビは言われた。人の子よ、すべての翼の鳥に、野のすべての獣に言え。あなたがたは集まり、来たれ。あなたがたは、まわりから、わたしのいけにえに集まれ。イスラエルの山の上の大いなるいけにえ、それをわたしはあなたがたにいけにえとする。あなたがたが肉を食べ、血を飲まなくてはならないためである。あなたがたは力ある者の肉を食べ、地の君主たちの血を飲まなくてはならない。……わたしがあなたがたにいけにえとするわたしのいけにえから、あなたがたは脂肪を飽きるまでも食べ、血を酔うまでも飲まなくてはならない。あなたがたはわたしの食卓の上で、馬と戦車で、力ある者で、すべての戦士〔の肉〕で食べ飽きなければならない。……このようにして、わたしはわたしの栄光を国民の間に与える(39・17―21)。

霊的な意味から、「いけにえ」によって何が意味されるか、「」と「」によって何が、また「」、「戦車」、「力ある者」また「戦士」によって何が意味されるか知らない者は、このようなものを食べ、飲まなくてはならないことしかわからないでしょう。しかし霊的な意味によって、主エホビがイスラエルの山の上で与えたいけにえから「肉を食べ、血を飲むこと」によって、みことばからの神的善と神的真理を自分ものとすることが意味されることを教えられます――というのは、そこにはすべての者を主の王国へ招くことについて、また特に、主により国民のもとに教会が設立されることについて扱われているからです。
そこの「血を酔うまでも飲む」こと、また「馬、戦車、力ある者、すべての戦士に食べ飽きる」ことのように、「」によって肉でなく、「」によって血でないものが意味されていることを、だれが見ることができないでしょうか?
預言書の他の何千もの箇所でも同様です。

聖書について

15◀︎目次▶︎17

16 霊的な意味がなくては、預言者エレミヤが命じられたこと、

自分自身に帯を買い、腰の上に置き、それを水に浸さず、ユーフラテス川の近くに岩の穴の中に隠すように(エレミヤ13・1―7)

預言者イザヤが命じられたこと、

腰から麻布を解き、自分の足から履き物を脱ぎ、裸とはだしで三年間、行く(イザヤ20・2, 3)

預言者エゼキエルが命じられたこと、

かみそりを自分の頭に、自分のあごひげにあて、その後、それらを分け、三分の一の部分を都の真ん中で焼き、三分の一を剣で打ち、三分の一を風の中に散らし、それらから少しのものをすそに結びつけ、最後に、火の真ん中に投げ込め(エゼキエル5・1―4)

同じ預言者が命じられたこと、

自分の脇腹の左を下にして三百九十日、右を下にして四十日横たわり、自分自身にパン菓子を小麦、大麦、キビ、裸麦から、牛の糞とともに作り、それを食べ、そしてその間、エルサレムに対して塁ととりでを置き、それを包囲せよ(エゼキエル4・1―15)

預言者ホセアが二度命じられたこと、

淫婦を妻として受け入れるように(ホセア1・2―9, 3・2, 3)

また多くの同様のことがなぜなのか、だれもわかりません。
さらに、霊的な意味がなくて、幕屋のすべてのものによって、例えば、「」「あがないのふた」「ケルビム」「燭台」「香の祭壇」、机の上の「供えのパン」によって、また「」やその「垂れ幕」によって何が意味されるか、だれがわかるでしょうか?
霊的な意味がなくて、「アロンの聖なる装束」、その「下着」「長い上着」「エポデ」「ウリムとトンミム」「」、またその多くのものによって何が意味されるのか、だれがわかるでしょうか?
霊的な意味がなくて、全焼のいけにえ・いけにえ・穀物のささげ物と注ぎのささげ物について命じられたそれらすべてのものによって、さらに安息日と祭りについて、何が意味されるか、だれがわかるでしょうか?
これらについて、主と天界と教会の何らかのものを意味しない最小のものもないことが真理です。
これらのわずかなものから、みことばのすべてと個々のものの中に霊的な意味があることを明らかに見ることができます。

聖書について

16◀︎目次▶︎18

17 主は世におられたとき、対応によって、したがって自然的にとともに霊的に話されたことは、個々のことばの中に霊的な意味が内在するその方のたとえから明らかにすることができます。
その例として、十人の娘のたとえで言われています、
天の王国は、自分のともしびを取って、花婿を出迎えに出た十人の娘たちに似ています。

彼女たちの五人は賢かった、けれども五人は愚かであった。愚かであった者は、自分のともしびを取って、油を受けなかった、けれども賢い者は自分のともしびの中に油を受けた。けれども花婿が遅れて、すべての者がうとうととし、眠り込んだ。けれども、真夜中に、叫び声が起った。「見よ、花婿が来る、彼を出迎えに行け」。その時、そのすべての娘たちが目を覚まし、自分のともしびを整えた。けれども、愚かな者は賢明な者に言った。「私たちにあなたがたの油をください、私たちのともしびは消えてしまいます」。けれども、賢明な者は答えて、言った。「ことによると私たちにまたあなたがたに十分でないかもしれません。むしろ、売る者のところに出かけ、あなた自身で買いなさい」。しかし、彼女たちが買いに出かけているとき、花婿が来て、用意のできた者はその方とともに婚礼へ入り、入り口は閉ざされた。また最後に、残りの娘たちがやって来て、言った、「主よ、主よ、私たちに開けてください」。けれども彼は答えて、言った。「まことに私はあなたがたに言う。私はあなたがたを知らない」(マタイ25・1―12)。

[2] 霊的な意味があり、それがどんなものかを知る者でないなら、これらの個々のものの中に霊的な意味があり、ここから神的な聖なるものがあることを見ません。
霊的な意味で、「神の王国」によって天界と教会が、「花婿」によって主が、「婚礼」によって愛と信仰の善によって天界と教会との主の結合が意味されます。「娘たち」によって教会の者が、「十人」によってそのすべての者が、「五人」によってそのうちのある者が、「ともしび」によって信仰の真理が、「」によって愛の善が、「眠ること」と「目覚めること」によって世の中の人間の自然的な生活と死後の霊的な生活が意味され、「買うこと」によって自分自身に得ることが、「売る者のところに行くことと油を買うこと」によって、死後、他の者から自分自身に愛の善を得ることが意味されます。その時、もはや得られないので、それゆえ、たとえ油を買って、ともしびとともに、婚礼のある入り口へ来たとはいえ、それでも彼女たちに花婿から、「私はあなたがたを知らない」と言われたのです――その理由は、人間は世での生活の後、世で生きたようにとどまることです。
[3] これらから、主は対応そのものによって話されたこと、また神的なものがその方の中にあり、その方のものであったので、神的なものから話されたことが明らかです。
花婿」は主を、「天の王国」は教会を意味し、また「婚礼」は愛と信仰の善による教会との主の結合を意味し、「」は教会の者、「十人」はそのすべての者、「五人」はそのうちのある者、「眠ること」は自然的な状態、「買うこと」は自分自身に得ること、「入り口」は天界へ入ること、そして「知らないこと」は、主から言われるとき、その方の愛の中にいないことを、同様なことを意味する預言者のみことばの中の多くの箇所から明らかにすることができます。
娘(処女)」が教会に属す者を意味するので、それゆえ、これほどにもしばしば預言者のみことばの中に、シオン・エルサレム・イスラエルの娘と処女とが言われています。また「」は愛の善を意味したので、それゆえ、イスラエル教会のすべての聖なるものは油を注がれました。
主が話され、また「福音書」に書かれた他のたとえの中で、またすべてのことばの中でも同様です。ここから、主はそのことを言われています、

わたしのことばは霊であり、またいのちです(ヨハネ6・63)。

[4] 主のすべての奇跡も同様です。それらは、主により設立されるべきものであった教会の者のもとのいろいろな状態を意味したので、神的です――例えば、「盲(めしい)が視力を受ける」ことは、真理への無知の中にいた者が知性を得ることを意味しました。「耳しいが聴力を受ける」ことは、主とみことばについて以前に何も聞かなかった者が聞き、従うことを意味しました。「死んだ者が生き返った」ことは、そうでなければ霊的に滅んだであろう者が生きるようになったことを意味します。等々。
このことが、主が「やって来るべき者」であるかどうかたずねられて、ヨハネの弟子たちに答えたことよって意味されます――

あなたがたが聞き、見ていることをヨハネに報告しなさい。盲(めしい)が見、足なえが歩き、らい病人が清められ、耳しいが聞き、死者が生き返り、貧しい者が福音を聞いています(マタイ11・3―5)。

さらに、みことばの中に記されたすべての奇跡が、それ自体の中に主のもの・天界のもの・教会のものであるようなものを含みます。そのことによって、それらは神的な奇跡であり、神的でない奇跡から区別されます。
これらは、霊的な意味とは何か、また、それがみことばのすべてと個々のものの中にあることのわずかな実例です。

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17◀︎目次▶︎19

18 (3) みことばが神的な霊感を与えられ、すべての言葉の中に聖なるものがあるのは霊的な意味からである――

教会の中では、みことばは聖なるものであると言われています、しかし、このことは神エホバがそれを言われたからです。それでもその聖なるものは文字だけからでは見られないので、それゆえ、そのためにその聖なるものについてひとたび疑った者は、その後、みことばを読むとき、そこの多くのものによって〔その疑いを〕確信します。というのは、その時、「これは聖なるものなのか?これは神的なものなのか?」と考えるからです。
そこで、このような考えが多くの者のもとに流入し、その後、強くなり、そのことによって、みことばがある教会と主の結合が滅びないように、その聖なるものが、みことばの中のどこに隠れているか知られるために、霊的な意味を啓示することを、今や、主は喜ばれました。
しかしこのこともまた例によって説明します。
[2] みことばの中に、時にはエジプトについて扱われ、時にはアッシリアについて、時にはエドム・モアブ・アンモンの子孫・ツロとシドン・ゴグについて扱われています――それらの名前によって天界と教会の事柄が意味されることを知らない者は、みことばは国民と民族について多くのものを扱い、天界と教会についてはわずかなものしか、このように地のものについては多くのものを、天界のものについてはわずかなものしか扱っていないという誤りの中に連れ去られてしまいます――しかし彼が、それらによってあるいはそれらの名前によって何が意味されるか知るとき、誤りから真理の中にやって来ることができます。
[3] みことばの中に、そこにしばしば庭園・木立ち・森がでてくるのを見る時も同様です、なおまたそれらの木の名前が挙げられており、例えば、オリーブの木・ぶどうの木・杉・ポプラの木・柏の木、また、しばしば子羊・羊・雄山羊・子牛・牛、そしてまた、山・丘・谷、またそこに泉・川・水、また多くの同様のものがでてきます――みことばの霊的な意味について何も知らない者は、意味されているものはこれらのものであるとしか信じることができません。というのは、「庭園」・「木立ち」・「森」によって知恵・知性・知識が意味されること、「オリーブの木」・「ぶどうの木」・「杉」・「ポプラの木」・「柏の木」によって、教会の、天的・霊的・理性的・自然的・感覚的な善と真理が意味されること、「子羊」・「羊」・「雄山羊」・「子牛」・「牛」によって、無垢・仁愛・自然的な情愛が意味されること、「山」・「丘」・「谷」によって、教会の高いもの・低いもの・最も低いものが意味されること、なおまた、「エジプト」によって知識、「アッシリア」によって理性、「エドム」によって自然的なもの、「モアブ」によって善の不純化、「アンモンの子孫」によって真理の不純化、「ツロとシドン」によって善と真理の認識、「ゴグ」によって内なるもののない外なる礼拝が意味されることを知らないからです――けれども、これらのことを知る時、みことばは天界のものについてしか扱っていないこと、また地のものはその中に天界のものがある単なる対象であることを考えることができます。
[4] しかしこのこともまた、みことばからの例により説明します。
「ダビデの詩篇」にあります、

 エホバの声は水の上にあり、栄光の神は雷鳴を響かせる。エホバは大水の上におられる。……エホバの声は杉を砕き……エホバはレバノンの杉を粉砕される。それらを子牛のように跳ねさせる、レバノンとシルヨンを一角獣の子のように。エホバの声は火の炎のように打つ。エホバの声は荒野を震えさせ、カデシュの荒野を震えさせる。エホバの声は雌鹿に産みの苦しみをさせ、森を裸にする。しかしその方の神殿の中で、それぞれの者が栄光と言う(詩篇29・3―9)。

そこの個々のものは、どの言葉に関しても神的な聖なるものであることを知らない者は、もし単に自然的である者なら、「これは何なのか」とつぶやくことができます――エホバが水の上に座ること、自分の声によって杉を砕くこと、それらを子牛のように跳ねさせ、またレバノンを一角獣の子のように跳ねさせること、雌鹿に産みの苦しみをさせること、また多くのものについてです――というのは、霊的な意味では、それらによって神的真理の力すなわちみことばの力が述べられていることを知らないからです。
なぜなら、その意味では、そこの雷鳴である「エホバの声」によって、力の中にある神的真理すなわちみことばが意味されるからです。エホバが座られる「大水」によってその真理が意味されます。砕き、粉砕する「」や「レバノン」によって理性的な人の虚偽、「子牛」と「一角獣の子」によって自然的なまた感覚的な人の虚偽、「火の炎」によって虚偽の情愛、「荒野」と「カデシュの荒野」によって何らかの真理も善もない教会が意味されます。エホバの声が産みの苦しみをさせる「雌鹿」によって自然的な善の中にいる国民が意味されます。また「」によって、みことばによって彼らに開かれる知識と認識が意味されます――それゆえ、「その方の神殿の中で、それぞれの者が栄光と言う」のであって、そのことによって、みことばの個々のものの中に神的真理があることが意味されます。というのは、「神殿」は主を意味し、ここからみことばを、さらに天界と教会を意味するからです。「栄光」は神的真理を意味します。
これらから、そこの言葉に、自然的な人のもとのすべての種類の虚偽に対抗する、みことばの神的力を、そして国民を改心させる神的力を述べていないものは何もないことが明らかです。

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18◀︎目次▶︎20

19 みことばの中に天界的な意味と呼ばれるさらに内的な意味があり、そのことについていくらかのものが前に言われました(6番)。しかしこの意味はほとんど解き明かされることができません、というのは、意志の情愛の中に〔落ち込むものであって〕そのように理解力の思考の中に落ち込まないからです。
天界的な意味と呼ばれるさらに内なる意味が、みことばの中に内在することは、主から神的善と神的真理が、その方の神的愛から神的善が、またその方の神的知恵から神的真理が発出するからです。両方ともみことばの中にあります、なぜなら、みことばは発出している神性であるからです――また両方のものであるので、それゆえ、みことばは、これを敬意をもって読む者に生気を与えます。
しかしこの事柄については、みことばの個々のものの中に主と教会の結婚が、またここから善と真理の結婚があることが示される章の中で言われます〔8090番〕。

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19◀︎目次▶︎21

20(4) 霊的な意味は、今まで知られていなかった――

自然の中にあるすべてと個々のものが、同様に、人間の身体の中のすべてと個々のものが、霊的なものに対応することは、著作『天界と地獄』(87―105番)の中で示されています――しかし対応とは何か、今まで知られていません。けれども、最古代では、最もよく知られていました。というのは、当時、生きていた者に、対応の知識は知識の中の知識であり、彼らのすべての書物が対応によって書かれていたように、普遍的なものであったからです。
古代の書物である「ヨブ記」は対応で満ちています。
[2] エジプトの象形文字は、また最も古い神話も、〔対応以外の〕他のものではありませんでした。
すべての古代の教会は天界を表象する教会でした。それらの儀式や法令もまた対応そのものから成り立ち、その法令にしたがってそれらの礼拝は制定されました。
ヤコブの子孫のもとのすべての教会も同様です。
全焼のいけにえやいけにえは、その個々のものとともに、対応するものでした。幕屋も、その中のすべてのものとともに、さらに種なしパンの祭り、仮庵の祭り、初穂の祭りのような祭りもまた、アロンとレビ人の祭司職も、またアロンと彼の息子たちの聖なる装束も、またさらに彼らの礼拝と生活に関係したすべての法令と判決も同様です――
[3] 神性は世にそれ自体を示すので、それゆえ、みことばは対応そのものによって書かれました。主はご自分の神性から語られたので、それゆえ対応によって語られました。なぜなら、神性からであるものは、神性に対応するような自然の中のものに落ち込み、それはその時、天的なものと霊的なものと呼ばれる神的なものを、その内部にたくわえるからです。

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20◀︎目次▶︎22

21  私は、「洪水前にあった最古代教会の人間は、天界の天使と話し、天使と対応によって話すことができたほどに天的な性質であった」と教えられました。ここから、彼らの知恵の状態は、地上で見るどんなものでも、それらについて自然的に考えるだけでなく、しかしまた同時に霊的に考えるように、このように天使と結合しているようなものでした。
加えて、私は、「エノクは(彼については「創世記」第5章21―24節に記録されています)、自分の仲間とともに彼らの口から対応するものを集め、それらの知識を子孫へ広めた」と教えられました。そのことから、対応の知識がアジアの多くの王国の中にあっただけでなく、特に、カナンの地・エジプト・アッシリア・カルデア・シリア・アラビア、〔都では〕ツロ・シドン・ニネベでもまた発達しました。またここから、海辺の地方からギリシアに移りました。しかしそこで書かれた最も古いものから明らかにすることができるように、そこの神話に変わりました。

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21◀︎目次▶︎23

22  しかし対応するものであった教会の表象するものが、時の経過につれて、偶像崇拝的なものに、また魔法にも変わった時、主の神的摂理からその知識は次第に消し去られ、イスラエルとユダヤの国民のもとではまったく失われ、消滅しました。
確かに、これらの国民の礼拝は、対応そのものから成り立ち、ここからそれは天界的なものを表象するものでした。しかしそれでも、彼らは、何が何を意味するか知りませんでした――というのは、まったく自然的な人であったからです。ここから、霊的なものについて何らかのものを知ることを欲せず、それゆえ、対応について何らかのものを知ることもできませんでした。

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22◀︎目次▶︎24

23 古代の国民が偶像崇拝の起源を対応の知識から得たことは、地上に見られるすべてのものは、このように木だけでなく、すべての種類の小家畜や鳥、さらに魚や他のものもまた対応することが理由でした。
対応の知識の中にいた古代人は、天界のものに対応した像を自分たちに造り、それらが天界に、またここから教会に属すようなものを意味したので、それらを喜び、それゆえ、それらを自分たちの神殿の中だけでなく、自分たちの家の中にも置きました、その理由は崇拝するためではなく、それらが意味する天界的な事柄を思い出すためでした。
 ここからエジプトに、また他のところに、子牛・牛・ヘビ、さらに、少年・老人・娘の像がありました。「子牛」と「」は自然的な人の情愛と力、「ヘビ」は感覚的な人の思慮分別、「少年」は無垢と仁愛、「老人」は知恵、「」は真理への情愛を意味したからであり、その他のものも同様です。
 対応の知識が消し去られた時、その子孫は、古代人により神殿の中にまたその近くにあった像と似たものを、聖なるものとして、ついには神として礼拝し始めました。
[2] 他の国民のもとでも、アシュドデのぺリシテ人のもとにあった上部が人間で下部が魚のようであったダゴン〔像〕も同様でした(それについては「サムエル記Ⅰ」5・1―終わり)。その像は、「人間」が知性を、「」が知恵を、それらが一つとなることを意味するので考え出されました。

 ここからまた、古代人は木の種類にしたがって庭園の中や杜の中で礼拝し、なおまた山の上や丘で礼拝しました。というのは、「庭園」と「」は知恵と知性、それぞれの木は、「オリーブの木」は愛の善、「ぶどうの木」はその善からの真理、「」は理性的な善と真理を意味するように、それらの何らかのものを意味し、「」は最も高い天界を、「」はその下の天界を意味したからです。
[3] 対応の知識が主の来臨まで東洋の多くの者のもとに残存したことは、主が生まれたときにやって来た東方からの賢人たちから明らかにすることができます。星が彼らの前を行き、彼らが「金・乳香・没薬」の贈り物を持ってきたのは(マタイ2・1,2,9―11)、前を行った「」は天界からの認識を意味し、「」は天的な善、「乳香」は霊的な善、「没薬」は自然的な善を意味し、それらの三つからすべての礼拝があるからです。
[4] 対応の知識は、イスラエル人とユダヤ人のもとで、まったくなくなりましたが、それでも、彼らのすべての礼拝は、モーセによって彼らに与えられたすべての判決と法令は、またみことばのすべてのものは対応そのものでした。
その理由は、彼らが心では偶像崇拝者であり、彼らの礼拝の何らかのものが天的なものと霊的なものを意味するものであったことを決して知ろうとはしないような者であったからです――というのは、それらすべてのものが、それ自体から、また彼らにとって、聖なるものであるように欲したからです。それゆえ、彼らに天的なものと霊的なものが明らかにされたなら、それらを拒絶するだけでなく、冒涜もしたでしょう。それゆえ、天界は彼らに、永遠のいのちが存在することをほとんど知らないほどにも閉ざされました。
このようであったことは、聖書全体が主について預言し、主を予言していたのに、彼らが主を認めなかったことから、はっきりと明らかです――自分たちに、地の王国についてではなく、天界の王国について伝えたという理由だけで主を拒絶しました。というのは、自分たちを全世界のすべての国民の上に高めるメシアを欲し、自分たちの永遠の救いを思いやる他のメシアを欲しなかったからです。
さらに、彼らは、みことばにはそれ自体の中に神秘的なものと呼ばれる多くの秘義が含まれていることを主張します、しかしその秘義が主についてであることを知ろうとはしません。しかし、それらは金についてである、と言われるとき、知ろうとしました。

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23◀︎目次▶︎25

24 みことばの霊的な意味を与える対応の知識は、その時代の後、明かされませんでした。その理由は、原始教会のキリスト教徒が、彼らに明かすことができないほど、きわめて単純であったことです。なぜなら、たとえ明かされたとしても、彼らに何の役にも立たなかったであろうし、理解もされなかったであろうからです。
彼らの時代の後、教皇の支配から、キリスト教界全体の上に暗やみが生じました。その支配下にいて、その虚偽を自分自身に確信した者は、何らかの霊的なものを、したがって、みことばの中の霊的なものと自然的なものとの対応が何かを把握することができず、把握することも欲しませんでした。というのは、このようにしてペテロが「」によって意味されず、岩としての主が意味されることを納得するであろうからです。そしてまた、みことばはその最内部のものまでも神的であって、それと比べて教皇の教令は無そのものであることを納得するであろうからです。
けれども、宗教改革の後、信仰と仁愛の間を切り離し、神を三つの位格のもとに、このように三つの神を礼拝しながらも、それを一つの神と考えることが始まったので、その時、天界の真理は彼らから隠されました。そして、もし明かされたなら、それらを虚偽化し、それらを信仰のみへ導き、それらの何ものも仁愛と愛へ導かなったでしょう。このように、自分自身にもまた天界を閉ざしたでしょう。

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24◀︎目次▶︎26

25 今日、みことばの霊的な意味が主により明かされたのは、今や、真理の本物の教えが啓示されたからです――この教えは、みことばの霊的な意味と一致し、他の教えでは一致しません。
この霊的な意味もまた、主が「栄光と力とともに、天の雲の中に」出現されること(マタイ24・30,31)によって意味されます。その章の中に教会の最後の時を意味する世代の完了が扱われています。
みことばを霊的な意味に関して啓示することもまた「黙示録」の中に約束されています――そのことは、そこの「白い馬」によって、またすべての者が招かれている「大いなる晩餐」によって意味されます(19・11―18)。
長い間、霊的な意味が認められなかったのは、教えの虚偽の中に、特に、主について教えの虚偽の中にいて、それゆえ、真理を許容しない者がいたからです。彼らは、「黙示録」の中の白い馬の上に座られる方と戦う「」と「地の王たち」によって意味されます(19・19)。「」によってローマカトリック教徒が意味され(そこの第17章3節のように)、また「地の王たち」によって改革派教会の者が意味されます。

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25◀︎目次▶︎27

26 (5)みことばの霊的な意味は、今後、主からの本物の真理の中にいる者でないなら与えられない――

この理由は、主だけからでないなら、またその方からの本物の真理の中にいないなら、だれも霊的な意味を見ることができないことです。というのは、みことばの霊的な意味は、主について、その方の王国についてだけ扱っており、天界のその方の天使はその意味の中にいます、そこにその方の神的真理であるからです。対応の知識の中にいるなら、またその知識よって、みことばの霊的な意味をプロプリウム(自己固有のもの)の知性から探し出そうとするなら、人間はこれを害することができます。なぜなら、自分の知っている対応の何らかのものから、その意味を曲解することができ、確信するまでにも虚偽を引き出すことができ、このことは神的真理を、また天界を害することになるからです――それゆえ、だれかが、主からでなく、自分自身から、その意味を明らかにしようとするなら、〔その者に〕天界は閉ざされます。それが閉ざされるとき、その人間は何も見ないか、または霊的に狂います。
[2] さらにまた理由があって、それは、主は直接に新しい真理を注ぎ込まれるのではなく、それぞれの者を、みことばによって、また彼のもとにある真理から教えられることです。それゆえ、人間が神的真理の中にいないなら、または、ただわずかな真理の中に、同時に虚偽の中にいるなら、これらから真理を虚偽化することができます。よく知られているように、みことばの文字どおりの意味に関して、このことは、異端者によってもなされています。
それで、だれかが、みことばの霊的な意味の中に、またはその意味のものである本物の真理に入り込んで、曲解しないように、主により、みことばの「ケルビム」によって意味される見張り番が置かれました。
[3] 見張り番が置かれたことは私に次のように表象されました――

袋のように見える大きな財布を見ることが与えられた。その中には多くの銀貨がたくわえられていた。また開いていたので、だれもが、そこにたくわえられていた銀貨を取り出すこと、というよりは、奪うことができるように思えた――しかしその財布の近くに、見張り番のふたりの天使たちが座っていた。
たくわえられていた場所は、馬小屋の飼い葉桶のように見えた――すぐ近くの部屋に慎み深い娘たちが、貞潔な妻とともに見られた。またその部屋の近くにふたりの幼児たちが立っていて、彼らは「子どもっぽくではなく、賢く遊ばなくてはならない」と言われた――その後、娼婦が見られ、さらに死んで横たわっている馬が見られた。
[4] それらを見たとき、私は、それらによって、みことばの文字どおりの意味が表象され、その意味の中に霊的な意味があることを教えられた。
 銀貨で満ちた大きなその財布は、豊富な真理の認識を意味した。
開かれていたこと、またそれでも天使たちにより守られていたことは、だれでもここから真理の認識を取り出すことができることを、しかしその中に純粋な真理がある霊的な意味を、だれかが虚偽化しないように、警戒されていることを意味した。
財布が横たわっていた馬小屋の飼い葉桶は、理解力のための霊的な教育を意味した。このことを飼い葉桶が意味するのは、ここから食べる馬が理解力を意味するからである。
すぐ近くの部屋の中に見られた慎み深い娘たちは、真理の情愛を、また貞潔な妻は善と真理の結合を意味した。
幼児たちはその中にある知恵の無垢を意味した。彼らは第三の天界からの天使たちであり、そのすべての者は幼児のように見える。
死んだ馬とともに娼婦は、今日の多くの者によるみことばの虚偽化を意味した、その虚偽化によってすべての真理の理解力は滅んだのである。娼婦は虚偽化を、そして死んだ馬は真理の理解力が何もないことを意味した。

 

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26◀︎目次▶︎28

(3)みことばの文字どおりの意味は、その霊的な意味と天的な意味の土台・容器・支柱である

27 すべての神的働きの中に、最初のもの・中間のもの・最後のものがあります。そして最初のものは中間のものを通って最後のものへと進み、このように存在するようになり、存続します。ここから、最後のものは土台です。
なおまた、最初のものは、中間のものの中にあり、中間のものを通って、最後のものの中にあります。そのように、最後のものは容器です。
また、最後のものは容器と土台であるので、支柱でもあります。

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27◀︎目次▶︎29

28 教養のある者なら、それら三つのものは目的・原因・結果、さらに存在・生成・実存と呼ばれることができ、目的は存在であり、原因は生成であり、結果は実存であることを理解します。したがって、完成されたすべてのものの中に、最初のもの・中間のもの・最後のもの、さらに目的・原因・結果、そしてまた存在・生成・実存と呼ばれる三重の実在があります。
これらが理解されるとき、さらにまた、すべての神的働きは、最後のものの中で完成し、完全であり、そしてまた最後のものの中に、同時に最初のものがあるので、すべてのものがあり、その最後のものは三重の実在であることを理解します。

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28◀︎目次▶︎30

29 このことから、みことばの中の「」によって、霊的な意味で、完成したものや完全なものが、なおまた同時に〔存在する〕すべてのものが意味されます――これらのことがその数によって意味されるので、それゆえ、みことばの中でこのようなものが定められるたびごとに、しばしば用られています。
例えば次のものです――

 イザヤは三年間、裸とはだしで行った(イザヤ20・3)。
エホバはサムエルを三度、呼び、サムエルは三度、エリへ走った。エリは三度目に理解した(サムエル記Ⅰ3・1―8)。
 ヨナタンはダビデに、三日間、自分自身を野に隠すよう言い、ヨナタンはその後、石の脇へ三本の矢を放った。その後、ダビデはヨナタンの前に三度、お辞儀をした(サムエル記Ⅰ20・5、12―41)。
 エリヤは三度、自分自身をやもめの息子の上に伸ばした(列王記Ⅰ17・21)。
 エリヤは、全焼のいけにえの上に三度、水を注ぐよう命令した(列王記Ⅰ18・34)。
 「天の王国は、女が取って三サトン〔の粉〕の中に隠すと、全体が発酵するまでになるパン種に似ている」とイエスは言われた(マタイ13・33)。
 イエスはペテロに、「わたしを三度、否定します」と言われた(マタイ26・34)。
 主はペテロに三度、「わたしを愛しますか?」と言われた(ヨハネ21・15―17)。
 ヨナは海の怪獣の腹の中に、三日と三晩の間、いた(ヨナ1・17)。
 イエスは、「神殿を壊しなさい、わたしはそれを三日のうちに建築します」と言われた([ヨハネ2・19、]マタイ26・61)。
 イエスはゲツセマネで三度、祈られた(マタイ26・39―44)。
 イエスは三日目によみがえられた(マタイ28・1)。

他にも多く箇所に「」が名前を挙げられています。終結や完成の働きについて扱われているところに、三の数によってそのことが意味されるので、その数字が挙げられています。

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29◀︎目次▶︎31

30 これらは、このあとに続くものが理解力を用いて把握されるための前置きです。それでここでは、みことばの文字どおりの意味である自然的な意味が、その霊的な意味と天的な意味の土台・容器・支柱であることが把握されるためのものです。

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30◀︎目次▶︎32

31 みことばの中に三つの意味があること、さらに天的な意味はその最初のもの、霊的な意味はその中間のもの、自然的な意味はその最終的なものであることは前に述べました(619番)。
ここから理性的な人は、みことばの天的なものである最初のものは、霊的なものであるその中間のものを通って、自然的なものであるその最終的なものへ進むこと、このようにその最後のものは土台であること――なおまた天的なものであるその最初のものは、霊的なものであるその中間のものの中にあり、これを通って自然的なものであるその最終的なものの中にあり――ここから、自然的なものであるその最終的なものはみことばの文字どおりの意味であり、容器であること――容器であり、土台であるので、さらにまた支柱であることを結論することができます。

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31◀︎目次▶︎33

32 しかしどのようにこれらのことが生じるか、簡潔に述べることはできません。
さらにまた、天界の天使が理解している秘義であって、それらは『主についての教え』の「序文」の中に記されている天使的な知恵からの『神的摂理、全能、遍在、全知』について、『神的愛』について、『神的知恵』について、さらに『生活』についての小論が出版されれば、そこで説明します。
今は、前述のことから、みことばは、人類の救いのための神的著作そのものであること、自然的なものであり、文字どおりの意味と呼ばれるその最終的な意味に関して、それは二つの内的な意味の土台・容器・支柱である、と結論することができれば十分です。

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32◀︎目次▶︎34

33 これらから、みことばは、その文字どおりの意味がなければ、基礎のない、そのように空中にあって、地上にない宮殿のようなもの、単なる影のようなものになり、消えてしまうことになります。
なおまた、みことばは、その文字どおりの意味がなければ、容器である屋根と壁のない神殿のようになります。その中には多くの聖なるものがあり、その真ん中に至聖所があります。それらの屋根と壁がないか、あるいは取り去られるなら、その聖なるものは泥棒により盗まれるか、あるいは地の獣、また空の鳥により踏みにじられ、こうして消散してしまいます。
幕屋も同様に幕とヴェールであった最外部のものがないようなものになります(その最内部には契約の箱、そしてその中間に金の燭台、香の置かれる金の祭壇、さらに供えのパンが置かれる机があり、それらはその聖なるものでした)。
それどころか、みことばは、文字どおりの意味がなければ、皮膚と呼ばれる外被のない人間、骨と呼ばれる支えのない人間の身体のようになります。それらのものがなければ、その内側のすべてのものは散らばってしまいます。
そして、胸郭の中の胸膜と呼ばれる外被と肋骨と呼ばれる支えのない心臓と肺のようになります。
または、容器や支柱である硬膜と呼ばれる外被と頭蓋骨と呼ばれる全般的な被覆のない脳のようになります。
みことばも文字どおりの意味がなければ同様になります。それゆえ、「イザヤ書」に言われています、

エホバはすべての栄光の上におおいを創造される(4・5)。

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33◀︎目次▶︎35

34 天使がいる天界も、人間がいる世がなければ同様になるでしょう――人類は、天使の土台・容器・支柱であり、みことばは人間のもとに、また人間の中にあります。
というのは、すべての天界は天的な王国と霊的な王国と呼ばれる二つの王国に分かれていて、これら二つの王国は自然的な王国の上に基づいているからです――そこで、人間のもとに、また人間の中にあるみことばも同様です。(天使の天界が天的と霊的の二つの王国に分かれていることは、著作『天界と地獄』20―28番を見てください)。

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34◀︎目次▶︎36

35 旧約の預言者たちは、みことばに関する主を表象し、そのことによって、みことばからの教会の教えを意味し、ここから「人の子」と呼ばれたことは、『主についての教え』の中に示されています(28番)。そのことから、預言者たちが被り、耐えたいろいろなものによって、ユダヤ人がみことばの文字どおりの意味へ加えた暴力が表象されたことがいえます。
例えば、

 預言者イザヤは、自分の腰から麻布を解き、自分の足から履き物を脱いで、裸とはだしで三年間、行った(イザヤ20・2, 3)。

同様に、

 預言者エゼキエルは、床屋のかみそりを頭とあごひげにあて〔……〕、三分の一を都の真ん中で燃やし、三分の一を剣で打ち、三分の一を風の中に散らした。またそれらからのわずかなものをすそに結びつけ、最後に火の真ん中に投げ込み、燃やした(エゼキエル5・1―4)。

[2] 前に言われたように、預言者はみことばを表象し、ここからみことばからの教会の教えを意味し、また「」によって、みことばからの知恵が意味されるので、ここから「頭髪」と「あごひげ」によって真理の最終的なものが意味されます。
このことがそれらによって意味されたので、それゆえ、自分をはげ頭とすること、そしてまたはげが見られることは、大いなる嘆きのしるし、そしてまた大きな恥辱のしるしでした。
預言者が自分の頭の髪を、あごひげを剃ったのは、そのことによってみことばに関するユダヤ教会の状態を表象するためであり、他の理由ではありませんでした。

 エリシャをはげ頭と呼んだ四十二人の少年は二頭の雌熊によって引き裂かれた(列王記Ⅱ2・23, 24)。

なぜなら、前に言われたように、預言者はみことばを表象し、「はげ頭」は、最終的な意味をもたないみことばを意味したからです。
[3] ナジル人が、みことばに関して、その最終的なものの中での主を表象したことは、続く章の中に見られます(49番)。それゆえ、彼らに対して、頭髪を伸ばし、その何も剃ってはならない、という法令がありました――さらにまた「ナジル人」はへブル語で頭髪を意味しました。

さらにまた、大祭司に対して、頭を剃ってはならない、という法令があった(レビ記21・10)。
同様に、家長に対して(レビ記21・5)。

[4] ここから、はげ頭は彼らに大いなる恥辱でした。例えば、次のものから明らかにすることができます――

 すべての頭ははげ、すべてのあごひげは剃られた(イザヤ15・2。エレミヤ48・37)。
 すべての顔に恥、すべての頭に……はげ(エゼキエル7・18)。
 すべての頭ははげにされ、すべての肩は毛を取り除かれた(エゼキエル29・18)。
 わたしはすべての腰に麻布をまとわせ、すべての頭をはげとする(アモス8・10)。
 はげ頭となれ、あなたの頭を剃れ、あなたの楽しみの子たちのために。はげ頭を広げよ……彼らはあなたから移ったから(ミカ1・16)。

ここの「はげ頭を引き起こすことと広げること」によって、みことば真理がその最終的なものの中で虚偽化されることが意味されます。それらが虚偽化されるとき、ユダヤ人によりなされたように、みことば全体が破壊されます――なぜなら、みことばの最終的なものはその支柱と支えであるからです。それどころか、それぞれの言葉は、その天的な真理と霊的な真理の支柱と支えです。
頭髪」は最終的なものの中のみことばを意味するので、それゆえ、霊界では、みことばを軽蔑するすべての者は、またその文字どおりの意味を虚偽化するすべての者は、はげ頭であるのが見られます。しかし、それを尊び、愛する者は、整った頭髪で見られます。
この事柄について、さらにまた後で見られます(49番)。

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35◀︎目次▶︎37

36 文字どおりの意味である最終的な意味または自然的な意味におけるみことばは、碧玉の造りであった「聖なるエルサレムの城壁」によっても、宝石であった「城壁の土台」によっても、なおまた真珠であった「門」によっても意味されます(黙示録21・18―19)。なぜなら、「エルサレム」によって、教えに関する教会が意味されるからです――しかしこれら多くのものについては、続く章の中で述べます。
今や、引用されたものから、自然的なものであるみことばの文字どおりの意味が霊的な意味と天的な意味であるその内的な意味の土台・容器・支柱であることを明らかにすることができます。

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36◀︎目次▶︎38

(4)みことばの文字どおりの意味の中の神的真理は、その満ちたものの中に、その聖なるものの中に、その力の中にある

37 みことばが、その文字どおりの意味の中で、霊的な意味と天的な意味と呼ばれるその満ちたものの中に、その聖なるものの中に、その力の中にあるのは、前に言われたように(31番)、前のものまたは内的なものである二つの意味が、文字どおりの意味である自然的な意味の中に同時にあるからです。しかしどのように同時に存在するか、今から、簡潔に述べます。

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37◀︎目次▶︎39

38 天界と世に連続的な秩序と同時的な秩序が存在します。
連続的な秩序では、最も高いものから最も低いものまで、一つのものの後ろにもう一つのものが続き、従います。けれども、同時的な秩序では、最内部から最外部まで、一つのものがもう一つのもののすぐ近くにあります。
連続的な秩序は、最も高いものから最も低いものまで段のある柱のようです。しかし、同時的な秩序は、中心から表面へと周縁部とともに密接に結合した作品のようです。
そこで、どのように連続的な秩序が最後のものの中で同時的な秩序になるか述べます。
このようにしてなります――連続的な秩序で最も高いものは、同時的な秩序の最内部になり、そして連続的な秩序で最も低いものは同時的な秩序の最外部になります。これはあたかも段のある柱が沈んでできるような、平面の中で密接に結合した物体にたとえられます。
[2] 自然界のすべてと個々のものの中で、また霊界のすべてと個々のものの中で、このように同時的なものは連続的なものから形作られます。なぜなら、どこにでも最初のもの・中間のもの・最後のものがあり、そして最初のものは中間のものを通してその最後のものへ向かい、進むからです。
さて、みことばでは――主から連続的な秩序の中で発出する天的なもの・霊的なもの・自然的なものは、同時的な秩序の中で最後のものの中にあります。そこで、このように、みことばの天的な意味と霊的な意味は、その自然的な意味の中に同時に存在します。
このことが理解される時、文字どおりの意味であるみことばの自然的な意味が、どのように、その霊的な意味と天的な意味の土台・容器・支柱であるか、なおまた、どのように、みことばの文字どおりの意味の中の神的善と神的真理が、その満ちたものの中に、その聖なるものの中に、その力の中にあるか、知ることができます。

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38◀︎目次▶︎40

39 これらから、みことばはその文字どおりの意味の中で、みことばそのものであることを明らかにすることができます、この意味の中に霊といのちが内在するからです。霊的な意味がその霊であり、天的な意味がそのいのちです。
このことが、主の言われていることです、

 わたしがあなたがたに話すことばは、霊であり、またいのちです(ヨハネ6・63)

主は、ご自分のことばを世の前で、自然的な意味で話されました。
文字どおりの意味である自然的な意味なしに霊的な意味と天的な意味は、みことばではありません、身体のない霊といのちのようなものであるからです。また(前の33番に言われたように)、土台が欠けている宮殿のようなものであるからです。

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39◀︎目次▶︎41

40 みことばの文字どおりの意味の真理は、一部に関してありのままの真理ではなく、真理の外観であり、そして自然の中にあるものようなものから取られた類似とたとえのようなものであり、したがってそれらは単純な者と幼児に理解されることに適し、ふさわしいものです。
しかし対応するものなので、本物の真理の容器と住まいです。食べられる食物を含む銀の皿のように、上等なぶどう酒を入れている水晶の杯のように、それらを含み、入れている器のようです。またそれらは幼児に着せるむつき、乙女に着せる美しい衣装のようです――さらにまた、霊的な人の真理の知覚と情愛を中に包含する自然的な人の記憶知のようです。
含まれ、入れられ、着せられ、包含されているありのままの真理そのものは、みことばの霊的な意味の中にあり、ありのままの善は、その天的な意味の中にあります。
[2] しかしこのことを、みことばから説明します。
イエスは言われました、

 あなたがたにわざわい〔あれ〕、律法学者とパリサイ人たち。あなたがたは杯や皿の外側を清める、けれども、内側は強奪と不節制でいっぱいであるからです。盲目のパリサイ人、まず杯や皿の内側を清めなさい、外側もまた清潔であるために(マタイ23・25, 26)。

ここで主は対応である最後のものによって語られ、それで「杯や皿」と言われました。「」によってぶどう酒が、そして「ぶどう酒」によって、みことばの真理が意味されます。「」によって食物が、そして「食物」によって、みことばの善が意味されます――「杯や皿の内側を清めること」によって、みことばによって、意志と思考に属すもの、したがって愛と信仰に属す内的なものを清めることが意味されます。「このように外側が清潔になる」ことによって、このように働きと話すことである外的なものが清められることが意味されます、なぜなら、前者から後者はその本質を得るからです。
[3] さらに、イエスは言われました、

 紫色の服と亜麻布の服を着て、日々、ぜいたくに楽しんでいた、ある富んだ人がいた。その〔富んだ者の〕門前に投げ出されて、できものでいっぱいのラザロという名前の、ある貧しい者がいた(ルカ16・19, 20)。

ここでもまた主は対応するものであり、霊的なものを含んでいる自然的なものによって語られました。「富んだ人」によってユダヤ国民が意味されます。みことばを持っていた彼らは「富んだ者」と呼ばれます、その中に霊的な富があるからです。着ていた「紫色の服と亜麻布の服」によって、みことばの善と真理が、「紫色の服」によってその善が、「亜麻布の服」によってその真理が意味されます。「日々、ぜいたくに楽しむこと」によって、それを持ち、読む満足感が意味されます。「貧しい者のラザロ」によって、みことばを持たない異教徒が意味されます。彼らがユダヤ人から軽蔑され、退けられたことは、「ラザロが富んだ者の門前に投げ出されて、できものでいっぱいであった」ことによって意味されます。
[4] 「ラザロ」によって異教徒が意味されるのは、〔次のラザロのように〕異教徒は主により愛されたからです、

  主により愛されたラザロは死からよみがえった(ヨハネ11・3, 5, 36)。
  主は友と呼ばれた(ヨハネ11・11)。
  主とともに食卓に着いた(ヨハネ12・2)。

それらの二つの箇所から、みことばの文字どおりの意味の真理と善は、ありのままの真理と善の器のようであること、また衣服のようであること、ありのままの真理と善は、みことばの霊的なまた天的な意味の中に隠れていることが明らかです。

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40◀︎目次▶︎42

41 みことばは、文字どおりの意味でこのようなものであるので、神的真理の中にいる者は、また、みことばは内部に、そのふところに聖なる神性があるという信仰の中にいる者は、さらにまた、みことばはその霊的な意味と天的な意味からそのようなものであるという信仰の中にいる者は、みことばを主からの照らしの中で読む時、神的真理を自然的な光の中で見る、といえます。なぜなら、みことばの霊的な意味は天界の光の中に、みことばの自然的な意味は自然的な光の中にあって、その天界の光が自然的な光の中に流入し、そして理性的なものと呼ばれる人間の知性を照らし、神的真理がそこに現われるように、またそこに隠れていることを見て、認めるようにするからです――これらの真理は天界の光とともに、ある者のもとに、さらにまた時々、知らないうちに、流入します。

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41◀︎目次▶︎43

42 私たちのみことばは、そのふところの最内部で、天的な意味から、燃える炎のようであり、そのふところの真ん中で、霊的な意味から、照らす光のようであり、ここからみことばは、そのふところの最後のもので、自然的な意味から、その意味の中に二つの内的な意味があって、ルビーとダイヤモンドのようです。天的な炎からルビー、霊的な光からダイヤモンドのようです。
みことばは、その文字どおりの意味では透明性からこのようなものであるので、それゆえ、みことばのこの意味は次のものによって意味されます、

〔1〕エルサレムの城壁の土台によって。
〔2〕アロンのエポデの中のウリムとトンミムによって。
〔3〕 ツロの王がいたエデンの園によって。
〔4〕 さらにまた幕屋の幕とヴェールによって。
〔5〕 またエルサレムの神殿の外のものによって。
〔6〕 しかし、変容されたときの栄光そのものの中の主によって。

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42◀︎目次▶︎44

43 〔1〕みことばの文字どおりの意味の真理は、新しいエルサレムの城壁の土台によって意味される(「黙示録」第21章)――
このことは(『主についての教え』62、63番で示されたように)「新しいエルサレム」によって教えに関する新しい教会が意味されることから結果として生じます。それゆえ、その「城壁」と「城壁の土台」によって、みことばの文字どおりの意味であるその外なるもの以外に何らかのものが意味されることはできません。なぜなら、それらから教えがあり、また教えによって教会があり、それらは都を囲み、守る土台とともに城壁のようであるからです。
新しいエルサレムの城壁とその土台について、「黙示録」に次のものがあります――

 天使がエルサレムの都の「城壁を測る」と、「百四十四ペーキュスあり、それは人間の尺度、すなわち、天使の尺度であった」。……また城壁には十二の土台があり、「すべての宝石で飾られた。第一の土台は碧玉、第二はサファイア、第三は玉髄、第四はエメラルド、第五は紅しまめのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十は緑玉髄、第十一はヒヤシンス石、第十二は紫水晶」(21・〔14〕17―21)。

数「百四十四」によって、みことばの文字どおりの意味からの教えによる教会のすべての真理と善が意味され、同様に「十二」よって意味されます。「人間」によって知性が意味され、「天使」によって知性のもととなる神的真理、「寸法」によってそれらの性質、「城壁」によってまた「土台」によって、みことばのその文字どおりの意味が、また「宝石」によって、みことばの真理と善が適切な順序で意味され、それらから教えがあり、教えによって教会があります。

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43◀︎目次▶︎45

44 〔2〕みことばの文字どおりの意味の真理と善は、ウリムとトンミムによって意味される――
ウリムとトンミムはアロンのエポデの上にあって、その祭司職によって神的善に関する主が、また救いの働きに関する主が表象されました。
祭司の衣服、すなわち、聖なる装束によって、神的善からの神的真理が表象されました――エポデによって、最終的なものの中での神的真理が、このように文字どおりの意味の中での、みことばが表象されました、なぜなら、前に言われたように、これはその最終的なものの中の神的真理であるからです。ここから、十二の宝石によって、ウリムとトンミムの上にあったイスラエルの十二部族の名前とともに、全統一体として、神的善からの神的真理が表象されました。
[2] これらについて「モーセ書」に、次のようにあります――

 彼らは、金色、青色や紫色、二度染めの緋色の糸、また織り込んだ木綿で、エポデを作らなければならない。……その後、あなたはさばきの胸当てを作る……エポデの作品にしたがって……あなたはそれに石のはめ込みものを、四列の石で、はめ込む。第一列は、赤めのう、トパーズ、エメラルド。第二列は、緑玉髄、サファイア、ダイヤモンド。第三列は、ヒヤシンス石、めのう、紫水晶。第四列は、緑柱石、赤しまめのう、碧玉。……これらの石は、イスラエルの子らの名前にしたがわなくてはならない。……十二部族のために、その名前にしたがって、それぞれに刻まれなければならない。……またアロンは、エホバの前に入るとき、さばきの胸当ての上にウリムとトンミムを身に付けなければならないアロンの心臓の上になくてはならない(出エジプト記28・6, 15―21, [29, ]30)。

[3] アロンの衣服によって、そのエポデ・外衣・下着・冠・帯によって何が表象されるかは『天界の秘義』の中に、その章で説明されています。そこに示されていることは、エポデによって最終的なものの中での神的真理が表象され、そこの宝石によって善から透明となった真理が、十二の宝石によって愛の善から透明となった最終的なものの中で順序正しく、すべての真理が、イスラエルの十二部族によって教会のすべてのものが、胸当てによって神的善からの神的真理が、ウリムとトンミムによって最終的なものの中での神的善からの神的真理の輝きが表象されることです。なぜなら、ウリムは輝く火であり、またトンミムは天使の言葉で輝きであり、へブル語で完全である〔を意味する〕からです。なおまた応答が多彩な光によって、また同時に、静かな知覚によって、あるいは生きた声によって与えられたこと、さらに多くのことが示されています。
[4] それらから、これらの宝石によっても、みことばの最終的な意味の中の善からの真理が意味されること、またその意味の中に発出する神性が満ちているので、他のものによって天界からの応答が与えられないことを明らかにすることができます。
宝石」や「王冠」によって、みことばの文字どおりの意味であるその最終的なものの中での神的真理が意味されることが、霊界の中の宝石や王冠から私に明らかにされました。私はそこの天使と霊たちがそれらを身に付けているのを、そしてまた彼らの宝石箱の中に見ました。また、それらが最終的なものの中での真理に対応すること、それどころかさらにまたそこから存在し、見られることを知ることが与えられました。
これらのことが「王冠」や「宝石」によって意味されるので、それゆえ、それらはヨハネにもまた見られました。

竜の頭の上に(黙示録12・3)。
獣の角の上に(黙示録13・1)。
宝石が緋色の獣の上に座っている淫婦の上に(黙示録17・4)。

それらの上に見られたのは、それらによってキリスト教界の中で、みことばをもつ者が意味されたからです。

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44◀︎目次▶︎46

45 〔3〕みことばの文字どおりの意味の真理は、「エゼキエル書」に、ツロの王がいたと言われるエデンの園の中の宝石によって意味される――
「エゼキエル書」に、

 ツロの王よ、「あなたはあなたの定められたものを封じており、知恵に富み、美で完全である。神のエデンの園の中にいた。すべての宝石は、あなたのおおいであった。ルビー、トパーズ、ダイヤモンド。緑柱石、赤しまめのう、碧玉。サファイア、緑玉髄、エメラルド。それと金」(28・12, 13)。

みことばの中の「ツロ」によって、真理と善の認識が意味され、「」によって、教会の真理が意味され、「エデンの園」によって、みことばからの知恵と知性が意味され、「宝石」によって、みことばの文字どおりの意味の中にあるようなものである善から透明となった真理が意味されます。またこれらがそれらの「」によって意味されるので、それゆえ「彼のおおい」と呼ばれます。
文字どおりの意味が、みことばの内的なものをおおうことは、これまでの章を見てください。

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45◀︎目次▶︎47

46 〔4〕みことばの文字どおりの意味は、幕屋の幕とヴェールによって意味される
幕屋によって天界と教会が表象され、それゆえ、その形はエホバによりシナイ山の上で示されました。
ここから、幕屋の中にあった燭台、香のための金の祭壇、供えのパンが置かれた机、それらはすべてのものによって、天界と教会の聖なるものが表象され、ここから意味されました。そして契約の箱があった至聖所によって、天界と教会の最内部のものが表象され、ここから意味されました。二つの石の板に刻み込まれ、箱に入れられた律法そのものによって、みことばに関する主が意味されました。
さて、外なるものはその本質を内なるものから得ているので、またその二つのものは律法があった最内部のものから本質を得ているので、それゆえ、みことばの聖なるものは、幕屋のすべてのものによってもまた表象され、意味されました。
ここから、幕とヴェールである幕屋の最外部のものによって、そのようにおおいと含むものによって、みことばの最終的なものであるその文字どおりの意味を、真理と善を意味することがいえます。
それらが意味されたので、それゆえ

 ケルビムとともに、すべての幕とヴェールは、織り込んだ木綿、青色や紫色の材料、二度染めの緋色の材料から作られた(出エジプト記26・1, 31, 36)。

幕屋によって、またその中にあったすべてのものによって、何が一般的にまた特定的に、表象され、意味されるかは、『天界の秘義』の「出エジプト記」のその章で説明されています。そこに、幕とヴェールによって天界と教会の外なるものが、そのようにまた、みことばの外なるものが表象されています。なおまた、「木綿」または「亜麻布」によって霊的な起源からの真理が意味され、「青色の材料」によって天的な起源からの真理、「紫色の材料」によって天的な善、「二度染めの緋色の材料」によって霊的な善、「ケルビム」によって、みことばの内的なものの保護が意味されます。

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46◀︎目次▶︎48

47 〔5〕エルサレムの神殿の外のものによって、みことばの外なるものが、その文字どおりの意味が表象される――
このことは、幕屋によって表象されるものと同様のものが、すなわち、天界と教会が、またここから、みことばも、神殿によって表象されたからです。
「エルサレムの神殿」によって、主の神的人間性が意味されることは、主が「ヨハネ福音書」に教えられています、

 この神殿を壊しなさい、わたしは三日のうちにそれを起こします。……その方はご自分のからだの神殿について話されたのである(2・19, 21)

主が意味されているところでは、主は、みことばであるので、みことばもまた意味されます。
さて、神殿の内部のものによって天界と教会の内部のものが、したがって、みことばの内なるものも表象されたので、それゆえ、その外部のものによって天界と教会の外のもの、したがって、みことばの文字どおりの意味であるその外なるものも意味されました。
神殿の外部のものについて書かれています、

 切られていない完全な石から、また内部は杉から建てられた。その内部のすべての壁はケルビム、しゅろの木と開いた花が刻まれ、床は金がかぶせられた(列王記Ⅰ6・7, 29, 30)。

それらのすべてのものによってもまた、みことばの文字どおりの意味の聖なるものであるその外なるものが意味されています。

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47◀︎目次▶︎49

48 〔6〕みことばは、変容されたときのご自分の栄光の中の主によって表象された――
ペテロ・ヤコブ・ヨハネの前で変容された主について述べられています、

 御顔は太陽のように輝き、御衣は光のようになった。その方と話しているモーセとエリヤが見られた。輝く雲が弟子たちをおおった。雲から「これはわたしの愛する子である……彼に聞け」と言う声が聞こえた(マタイ17・1―5)。

私は、「その時、主はみことばを表象された」と教えられました――太陽のように輝いた「」によってその方の神的善、光のようになった「」によってその方の神的真理、「モーセとエリヤ」によって歴史的なまた預言的なみことば、「モーセ」によって彼によって書かれたみことば、一般的に歴史的なみことば、「エリヤ」によって預言のみことば、弟子たちをおおった「輝く雲」によって文字どおりの意味の中のみことばが表象されました。それゆえ、この雲から声が聞こえ、「これはわたしの愛する子である……彼に聞け」と言われたのです。というのは、天界からのすべての発言や応答は、みことばの文字どおりの意味の中にあるような最終的なものによらないなら決して行なわれないからです――主から満ちたものになっているからです。

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48◀︎目次▶︎50

49 これまでに、文字どおりの意味である自然的な意味の中のみことばは、その聖なるものの中に、またその完全なものの中にあることが示されました。そこで、みことばはその意味の中で、その力の中にもあることが言われます。
天界の中で、また地上でも神的真理の力がどれほど大きく、またどんなものであるかは、著作『天界と地獄』の中で、天界の天使たちの力について(228―233番)言われていることから明らかにすることができます。
神的真理の力は、特に虚偽と悪に対するものは、そのように地獄に対するものであり、これらに対して、みことばの文字どおりの意味によって戦わなくてはなりません――さらにまた人間のもとの真理によって、主に人間を救う力があります、なぜなら、人間は、みことばの文字どおりの意味からの真理によって改心され、再生され、その時、地獄から連れ出され、天界に導き入れられるからです。この力を主は、みことばのすべてのものを、その最終的なものまでも満たした後に、ご自分の神的人間性に関してもまとわれました。
[2] それゆえ、主は、十字架の受難によって残りものが満たされる時、祭司長に言われました、

 今からのち、あなたがたは、人の子が力ある方の右に座って、天の雲の中にやって来るのを見ることになります(マタイ26・64、マルコ14・62)。

人の子」は、みことばに関する主です。「天の雲」は、文字どおりの意味の中のみことばです。「神の右に座ること」は、みことばによる全能です(例えばマルコ16・19も)。真理の最終的なものからの主の力は、ユダヤ教会の中でナジル人によって表象されました。サムソンによっても表象され、彼については、母の胎からナジル人であった、彼の力は彼の髪の中にあった、と言われています。
[3] ナジル人とナジル人であることによっても髪が意味されます。
彼の力が髪の中にあったことは、彼自身が明らかにして、言っています、

 カミソリが私の頭の当てられたことはない……私は母の胎からナジル人であるから。もし、私が剃られるなら、その時、私から私の力強さは去り、私は弱くされ、私はそれぞれの人間のようになる(士師記16・17)

みことばの中の「」によって何が意味されるか知らないなら、なぜナジル人であることが――そのことよって髪が意味されます――制定されたか、またサムソンの髪の毛の力強さがどこからであるか、だれも知ることができません。
」によって、主から神的真理を通して天使と人間たちにある天界の知恵が意味されます。ここから、「頭の髪」によって最後のものの中の天界の知恵が、また最終的なものの中の神的真理も意味されます。
[4] これが天界との対応から「」によって意味されたので、それゆえ、ナジル人に対して法令がありました、

 自分の頭の頭髪を剃ってはならない、それは彼の頭の上の神のナジル人であるからである(民数記6・1―21)。

そしてまた、それゆえ、制定されました、

 大祭司と彼の息子たちは自分の頭を剃ってはならない、死なないように、またイスラエルの全家に怒りが下ることがないように(レビ記10・6)。

[5] 対応からのその意味のために、頭髪は、これほどに聖なるものでした、それゆえ、みことばに関する主である人の子は、頭髪に関してもまた述べられています、

 あたかも羊毛のように、あたかも雪のように白光りしたこと(黙示録1・14)。
 「日の老いた者」も同様です(ダニエル7・9)。

この事柄について、何らかのものが前に見られます(35番)。
要するに、神的真理すなわちみことばの力が、文字どおりの意味の中にあることは、みことばはそこで満ちたものになっているからです。その中に主の両方の王国の天使と人間が同時にいるからです。

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(5)教会の教えは、みことばの文字どおりの意味から汲み取られ、
  それによって確信されなければならない

50 前章で、文字どおりの意味の中のみことばはその満ちたものの中に、その聖なるものの中に、その力の中にあることが示されました。主は、みことばであられるので、というのは、主は、みことばのすべてのものであられるからであり、このことから、主はその意味の中に最も現在され、その意味から人間を教え、照らされることがいえます。
しかしこのことを次の順序で論証します――

(1) みことばは、教えなしに理解されない。
(2) 教えは、みことばの文字どおりの意味から汲み取られなければならない。
(3) しかし、教えに属すべき神的真理は、主から照らされている者にしか見られない。

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51 (1)みことばは、教えなしに理解されない

このことは、文字どおりの意味の中にあるみことばが、霊的なものと天的なものが同時に存在し、そしてそれらのそれぞれの言葉が容器と支えであるように、その目的のために、対応そのものから構成されるからです。それゆえ、ある箇所で文字どおりの意味の中の真理はむき出しではなく、真理の外観と呼ばれるものを着せられています。多くの真理は、思考を目の前に見るようなものよりも上に高揚させない単純な者の理解力に適当なものとなっています。またあるものは矛盾のように見えますが、そのときそれでも、みことばの中に、それ自体の光の中で見られるとき、何も矛盾はありません――預言書のある箇所にもまた、前に引用されたもののように(15番)、場所と人物の名前が集められているだけで、それらから何らかの意味が導き出されることはできません。
そこで、みことばが文字どおりの意味の中でこのようなものであるとき、教えがなくては理解できないことが明らかです。
[2] しかしこのことを例で説明します。

エホバは悔いられる(出エジプト記32・12、14。ヨナ3・9、4・2)。

と言われています。さらにまた、

エホバは悔いられない(民数記23・19。サムエル記Ⅰ15・29)。

と言われています。これらは教えがなくては調和しません。

エホバは父の不法を息子たちの上に三、四代にわたって罰する(民数記14・18)。

と言われています。しかし、

父が息子のために、息子も父のために死ぬことはなく、だれも自分の罪のうちに死ぬ(申命記24・16)。

と言われています。これらは一致しないのではなく、教えによって一致します。
[3] イエスは言われました、

求めなさい、すると与えられます、探しなさい、すると見つかります、たたきなさい、すると開けられます。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、たたく者は開けられます(マタイ7・7, 8, 21・21, 22)。

教えがないなら、だれもが求めるものを受ける、と信じてしまうでしょう。しかし教えから、人間が求めるどんなものでも自分自身から受けないで、主から、これが与えられることが信じられます――というのは、主は次のことも教えられているからです、

もし、あなたがわたしの中にとどまり、わたしのことばがあなたがたの中にとどまるなら、あなたがたが欲するものは何でも求めなさい、あなたがたに行なわれます(ヨハネ15・7)。

[4] 主は言われました、

貧しい者は幸いです、神の国はあなたがたのものであるから(ルカ6・20)。

教えがないなら、天界は貧しい者のものであり、富んだ者のものではない、と考えてしまいます。しかし教えからは、霊で貧しい者が意味されることが教えられます。なぜなら、主は言われたからです、

霊で貧しい者は幸いです、天の王国は彼らのものであるから(マタイ5・3)。

[5] 主は言われました、

さばいてはなりません、さばかれないためです。……あなたがたがさばくそのさばきで、あなたがたがさばかれます(マタイ7・1, 2, ルカ6・37)。

このことは教えがないなら、悪について悪であることを言ってはならないために、したがって、悪い者を悪い者であるとさばいてはならないことを確認するために示すことができます。けれども教えからさばくこと、しかし、正しくさばくことは許されています。というのは、主は言われたからです、

正しいさばきを、さばきなさい(ヨハネ7・24)。

[6] 主は言われました、

あなたがたは先生と呼ばれてはなりません、あなたがたの先生はひとり、キリストであるから……。あなたがたは地上で、あなたがたの父を呼んでもなりません、なぜなら、あなたがたの父は天にひとりおられるから……。あなたがたは教師と呼ばれてもなりません、あなたがたの教師はひとり、キリストであるから(マタイ23・8―10)。

教えがないなら、だれかを先生・父・教師と呼ぶことは許されないことになってしまいます。けれども教えからは、自然的な意味では許されます、しかし、霊的な意味では許されないことが知られます。
[7] イエスは弟子たちに言われました、

人の子が自分の栄光の王座の上に座る時、あなたがたもまた十二の王座の上に座って、イスラエルの十二部族をさばきます(マタイ19・28)。

これらのことばから、主の弟子たちもまたさばくであろう、と結論することができます、そのときそれでも、だれもさばくことはできません。そこで、全知であられ、すべての心を知られる主おひとりが、さばくことになり、またさばくことがおできになるという教えによって、この秘義が啓示されなければなりません。また、その方の「十二弟子」によって、すべての真理と善に関する教会が意味され、それらの真理と善が教会に主からみことばを通してあります――そのことから、教えにより、「ヨハネ福音書」の主のことばにしたがって(3・17, 18, 12・47、48)、それがそれぞれの者をさばくことが結論されます。
[8] 教えなしに、みことばを読む者は、ユダヤ国民についてとエルサレムについて預言書に、その国民のもとの教会は、またその都の中のその場所は、永遠に続く、と言われていることが、どのように首尾一貫するのかわかりません。例えば、次のものの中に――

エホバはご自分の群れを、ユダの家を訪れ、それを戦いの中の栄光のようにされる。それから隅石が、それから釘が、それから戦いの弓が出る(ゼカリヤ10・3, 4, 6, 7)。
見よ、わたしは、あなたの真ん中に住むために来る。エホバはユダを相続とする……エルサレムを再び選ぶ(ゼカリヤ2・10, 12)。
その日に、山々は新しいぶどう酒をしたたらせ、丘々は乳を流す。……エホバは永遠に、エルサレムは代々に存在する(ヨエル3・18―20)。
見よ、その日が来て……その日に、わたしはイスラエルの家とユダの家に人間の種を蒔く。……その日に、わたしはイスラエルの家とユダの家に新しい契約を結ぶ。……この契約は……わたしはわたしの律法を彼らの真ん中に与え、彼らの心の上にそれを書く。わたしは彼らの神となり、彼らは私の民となる(エレミヤ31・27, 31, 33)。
その日に、すべての言語の国民から十人の男が、ユダヤ人の男のすそをつかまえ、私たちは神があなたがたとともにおられると聞いたので私たちはあなたがたと行く、と言う(ゼカリヤ8・23)。

他の箇所も同様です(例えばイザヤ44・24, 26, 49・22、23、65・9, 66・20, 22。エレミヤ3・18, 23・5, 50・19, 20。ナホム1・15。マラキ3・4)。

それらの箇所で、主の来臨について、またその時にこのことが生じることが扱われています。
[9] しかしながら、反対のことが他の多くの箇所で言われており、それらから次のものだけを示します、

わたしは、わたしの顔を彼らから隠す。わたしは、彼らのその後がどうなるか見る、彼らはゆがんだ世代であり、忠実さのない子孫であるから。……わたしは言った、わたしは最外部の隅に彼らを投げ出し、人間から彼らの記憶を終わりにする。……なぜなら、彼らは思慮を失った国民であり、彼らに知性がないから。……彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から、ゴモラの畑からである。そのぶどうは胆汁のぶどう。ぶどうの房は彼らに苦い。彼らのぶどう酒は竜の毒、残酷なコブラの胆汁。それはわたしのもとに隠され、わたしの宝庫に封印されていないか?わたしには復讐と報いがある(申命記32・20―35)。

これらはその国民について言われています。
他の箇所も同様です
(例えばイザヤ3・1, 2, 8, 5・3―6。申命記9・5, 6。マタイ12・39, 23・27, 28。ヨハネ8・44。またエレミヤ書とエゼキエル書のどこでも)。

しかし対立するものに見えるこれらは、教えから調和が明らかとなります。それは、みことばの中の「イスラエル」と「ユダヤ」によって、イスラエルとユダヤが意味されないで、両方の意味での教会が意味されることを教えています。一つの意味は、教会が荒廃されたこと、もう一つの意味は、主により教会が設立されることです。
みことばの中には他にもこれらと同様のものがあり、それらから、みことばは教えなしに理解されないことがはっきりと明らかです。

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52 これらから、みことばを教えなしに読む者は、または、みことばから教えを自分に得ない者は、すべての真理についてあいまいさの中にいること、また彼らの心は定まらず、不確かであり、間違えやすく、好意または権威が求めるなら、名声が危険にさらされないなら、容易に異端へ傾き、それらの異端もまた抱くことを明らかにすることができます――というのは、みことばは彼らにとって光のない燭台のようであり、陰の中にいわば多くのものを見ても、ほとんど何も見ないから、なぜなら、教えだけが光であるからです。
私は天使により調べられたこのような者を見ました。彼らは、欲するどんなものでも、みことばから確信することができること、また自己愛に属すものを、自分たちに好意を持つ者の愛に属すものを確信することがわかりました。私は衣服を脱がされた者を見ましたが、それは、真理がないしるしでした――衣服はそこの真理です。

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53 (2) 教えは、みことばの文字どおりの意味から汲み取られ、確信されなければならない
 このことは、主が他でもなく文字どおりの意味の中に、人間のもとに現在され、人間に教会の真理を照らし、教えられるからです。主は満ちたものの中でないなら決して何も働きかけられません、そして前に示されたように、みことばは文字どおりの意味の中に満ちています――ここから、教えは文字どおりの意味から汲み取られなければなりません。

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53◀︎目次▶︎55

54 みことばは教えによって理解されるだけでなく、あたかも輝くようであることは、前に示されたように、みことばは教えがないなら理解されず、光(明かり)のない燭台のようであるからです。それゆえ、みことばは教えによって理解されるとき、光(明かり)がともされたときの燭台のようです。
その時、人間は前に見たものよりも多くのものを見、そしてまた前に理解しなかったものを理解します。暗いものや不一致なものは、見ないか、見過ごし、あるいは見ても、教えと一致するように解釈します。
みことばは教えから見られ、そしてまた教えにしたがって解釈されることは、キリスト教界の中の経験から証明されます。
というのは、改革派のすべての者は、みことばを自分たちの教えから見て、みことばを教えにしたがって解釈するからです。同様に、ローマカトリックの教徒も、自分たちの教えから見て、それにしたがっており、それどころか、ユダヤ人も、自分たちの教えから見て、それにしたがって解釈しています。したがって、虚偽の教えからは虚偽を、真理の教えからは真理を見ています。
ここから、真理の教えは、暗やみの中のランプのようなもの、道の標識のようなものであることが明らかです。
しかし、教えは、みことばの文字どおりの意味から汲み取らなくてはならないだけでなく、それによって確認されなければなりません――なぜなら、教えによって確認されないなら、その教えの真理は、人間の知性だけがその中にあり、主の神的知恵はないように見えます。このようにその教えは、空中にあって、地上になく、このように基礎のない家のようになるからです。

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54◀︎目次▶︎56

55 本物の真理の教えもまた、みことばの文字どおりの意味から十分に汲み取られることができます。なぜなら、その意味の中で、みことばは、いわば衣服を着た人間であるからです、〔それでも〕その顔はむき出し、手もまたむき出しです。
人間のいのちに、したがって彼の救いに関係があるすべてのものは、そこにむき出しとなっています、けれども、他のものは衣服を着ています。また、衣服を着ている多くの箇所の中では、顔が薄い絹を通して見られるように、透かして見られます。
さらにまた、みことばの真理は、真理への愛から増し加えられるほど、またこの愛によって秩序づけられるほど、明るくさらに明るく、衣服を通して輝いて見られます。
しかしこのこともまた教えによっています。

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55◀︎目次▶︎57

56 みことばの霊的な意味によって、本物の真理の教えを得ることができると信じることができ、その意味は対応の知識を通して与えられます。しかし、教えはその意味によって得られず、単に説明され、強くされるだけです。なぜなら(前の26番に言われたように)、前もって教えから本物の真理の中にいないなら、対応によって、だれも、みことばの霊的な意味の中にやって来ないからです――前もって本物の真理の中にいないなら、人間は、対応から知られたいくつかのものによって、みことばを虚偽化することができ、獲得した原理から心にこびりついているものを、その対応から知られたものを結合させ、説明します。
さらに、霊的な意味は、主だけからでないならある者に与えられず、主により天界が守られているように、守られています。なぜなら、天界はその意味の中にあるからです。
そこで、人間は、みことばを文字どおりの意味に専念するほうがまさります。教えは、その意味だけから与えられます。

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56◀︎目次▶︎58

57 (3) 教えに属すべき本物の真理は、主から照らされている者にしか、みことばの文字どおりの意味の中に見られない――
照らしは、主だけからであり、真理を真理であるから愛する者、またそれを生活に役立てる者のもとにあります。他の者のもとに、みことばの中に照らしは与えられません。
照らしが主だけからであるのは、主はみことばのすべてのものの中におられるからです。
真理を真理であるから愛し、それを生活の役立ちとする者のもとに照らしがあるのは、彼らは主の中にいて、主は彼らの中におられるからです。
というのは、主はご自分の神的真理であられるからです。神的真理であるからと、みことばが愛され、これが愛されて役立ちとなる時、主は人間のもとで、みことば中におられます。
これらのこともまた、主は「ヨハネ福音書」で教えられています、

 その日に、あなたがたは、あなたがたがわたしの中に、わたしがあなたがたの中にいることを知ります……わたしの戒めを持ち、それを行なう者は……わたしを愛し……わたしは彼を愛し、彼にわたし自身を現わします。わたしは彼のところに来て、彼に住まいをつくります(14・20, 21, 23)。

また「マタイ福音書」に、

 心のきれいな者は幸いです、この者は神を見るからです(5・8)。

みことばを読むとき、照らしの中にいる者は、この者であり、彼らのもとで、みことばは輝き、光り貫いています。

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57◀︎目次▶︎59

58 みことばが彼らのもとで輝き、光り貫くのは、みことばの個々のものに霊的な意味と天的な意味が内在するからです。それゆえ、主は、それらの意味を通して、またそれらの光によって、人間のもとの自然的な意味の中に、またこの光の中に流入されます。
ここから、人間は内的な知覚から真理を認め、またその後、それを自分の思考の中で見ます、このことは真理のために真理の情愛の中にいるたびごとにです。情愛から知覚が起こり、知覚から思考が起こり、こうして信仰と呼ばれる承認が生じるからです。
しかしこの事柄について多くのことは、次章の「みことばによる人間との主の結合」で述べます。

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58◀︎目次▶︎60

59 これらの者のもとで、最初に、みことばの文字どおりの意味から自分自身に教えを得ます――そのようにさらなる前進のために、自分自身にランプをともします。
けれども、教えが得られ、こうしてランプがともされた後、その教えから、みことばを見ます。けれども、最初に、自分自身に教えを得ない者は、他の者から与えられたかまたは一般の集団に受け入れられた教えが、みことばと一致するかどうか、調べます。一致するものに同意し、一致しないものに反対します。
そのように自分の教えとなり、教えを通して自分の信仰となります。
しかしこのことは世のわずらわしさから引き離されて見ることができる者のもとにだけ生じます。これらの者は、真理を真理であるので愛し、それを生活に役立てるなら、主からの照らしの中にいます。
他の者は、真理にしたがった何らかの生活の中にいる者から学ぶことができます。

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59◀︎目次▶︎61

60 偽りの宗教から、みことばを読む者に、さらに、みことばからその教えを確信する者に、またその時、自分の称賛または世の富みを眺める者に、正反対のことが生じます。
これらの者のもとで、みことばの真理は夜のやみの中のようであり、虚偽は日の光の中のようです。真理を読みます、しかしそれを見ません。そのやみを見るなら、それを虚偽化します。
これらの者について、主は言われました、

 彼らは目を持っているが見ない、耳を持っているが理解しない(マタイ13・14, 15)。

なぜなら、人間を盲目にするものは、彼のプロプリウム以外の、また虚偽の確信以外の何ものでもないからです。人間のプロプロウムは自己愛であり、ここから自己知性の高慢です。そして、虚偽の確信とは光を偽わる暗黒です。
これらの者の光は単なる自然的なものであり、彼らの視覚はやみの中に幽霊を見るようなものです。

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60◀︎目次▶︎62

61 私は死後の多くの者と話すことを与えられました。その者は自分が天界の中で星のように輝くと信じました。なぜなら、彼らが言ったように、彼らは聖なるものをみことばに抱き、それをしばしば読み通し、ここから多くのものを集めて、それらによって自分たちの信仰の教義を確信し、そのことによって世で学識ある者のように称賛され、そのことから彼らは自分たちがミカエルやラファエルになると信じたからです。
[2] しかし彼らの多くの者が、みことばを学んだ愛がどこからなのか調べられました。そして、ある者は、世で偉大な者に見られたい、また教会の高位聖職者のように尊重されたいという自己愛からであったこと、けれども、ある者は、富みを得たいための世俗愛からであったことが見つかりました。
これらの者が、みことばから何を知っているか調べられた時、ここから本物の真理は何も知らないこと、しかし単に虚偽化された真理と呼ばれるものを、それは本質的に虚偽であるようなものを知っていることがわかりました。彼らに、「これがあなたがたにあった理由は、自分自身と世が目的であった、すなわち同じことですが、あなたがたの愛であったからです。その愛は主と天界が目的ではありません」と言われました――自分自身と世が目的であるとき、その時、みことばを読んでも、その心は本質的に自分自身と世にしがみついており、ここから常に自分のプロプリウムから考えます。そのプロプリウムは天界のものであるすべてのものに関して暗黒の中にあります。その状態の中で、人間は主によりプロプリウムから遠ざけられることはできず、そのように天界の光の中に上げられることも、それゆえ、天界を通して主からの何らかの流入を受けることもできません。
[3] さらにまた私はこれらの者が天界に入れられるのを見ました。しかし、そこでは、真理がなかったことが見つけられ、投げ落とされました。しかしそれでも、彼らのもとに自分は天界に値するという高慢が残りました。
真理を真理であるので知ろうとする情愛から、また単に自分の生活の役立ちだけでなく隣人の生活の役立ちにも仕えるからと、みことばを学んだ者は異なります。
私は、彼らが天界に上げられ、このようにそこの神的真理である光の中に上げられ、同時に、天使の知恵へ高められ、永遠のいのちであるその幸福へ入れられるのを見ました。

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61◀︎目次▶︎63

(6)みことばの文字どおりの意味によって、主との結合と天使との交わりがある

62 みことばによって主との結合があることは、『主についての教え』の中で示されているように、みことばがその方だけについて扱っているからです、そのことによって主はそのすべてのすべてであり、みことばと呼ばれます。
文字どおりの意味の中に結合があることは、前章で示されたように、その意味の中のみことばはその満ちたものの中に、その聖なるものの中に、その力の中にあるからです。
結合は人間に見られません。しかし真理への情愛の中に、その真理の知覚の中にあります。そのように、彼のもとの神的真理への愛と信仰の中にあります。

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62◀︎目次▶︎64

63 文字どおりの意味によって天界の天使との交わりがあることは、その意味に霊的な意味と天的な意味が内在し、これらの意味の中に天使がいるからです。霊的な王国の天使はみことばの霊的な意味の中に、天的な王国の天使はその天的な意味の中にいます。
これらの意味は、みことばの文字どおりの意味である自然的な意味から、真の人間がその中にいる時、開かれます。
開くことは即座のものであり、それゆえまた、交わりも即座のものです。

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63◀︎目次▶︎65

64 霊的な天使は、みことばの霊的な意味の中にいること、天的な天使は、その天的な意味の中にいることが、私に多くの経験によって示されました。
私がみことばをその文字どおりの意味の中で読んだとき、時にはあの社会、時にはこの社会と天界との伝達が生じたこと、また、私が自然的な意味を理解したことを、霊的な天使は霊的な意味にしたがって、天的な天使は天的な意味にしたがって理解したこと、またこのことが瞬く間であったことを知覚することが与えられました。
この伝達は何千回もの出来事によって知覚されたので、それについて私に一つの疑いも残されていません。
さらにまた天界の下に、この伝達を悪用する霊たちがいます。というのは、彼らは、みことばの文字どおりの意味から言われたいくつかのことを暗誦すると、直ちに、伝達が生じたその社会を認め、注目するからです――このこともまた、しばしば私は見、聞きました。
これらの生きた経験から、みことばは、その文字どおりの意味に関して主との結合のまた天界との結合の神的手段であることを知ることが与えられました。
みことばによるこの結合については、著作『天界と地獄』(303―310番)の中で示されたものにも見られます。

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64◀︎目次▶︎66

65 しかしどのようにそれらの意味が開かれることが生じるかも簡単に述べます。
それでも理解されるために、前に連続的な秩序と同時的な秩序について言われたことを思い出されなければなりません(6, 38番)。すなわち、あるものの後ろへもう一つのもの、天界の中にある最高のものから世の中にある最後のものへ、天的なもの・霊的なもの・自然的なものへと連続的な秩序で続くことです。また、同じものは自然的なものである最後のものの中で、あるものの次にもう一つのもの、最内部から最外部まで、同時的な秩序の中にあること――みことばの連続的な意味も同様であり、天的な意味と霊的な意味が、一緒に自然的な意味の中にあることです。
これらが把握されるとき、人間がみことばを読む時、霊的と天的の両方の意味が、どのように自然的な意味から開かれるか、理解に向けていくらか説明されることができます。というのは、その時、霊的な天使は霊的なものを呼び起こし、天的な天使は天的なものを呼び起こすから。またこれと異なることはできません、というのは、同質であって彼らの性質と本質に一致しているからです。

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65◀︎目次▶︎67

66 しかしこのことを、最初に動物界・植物界・鉱物界と呼ばれる自然の三界からの比較によって説明します。
動物界から――
乳糜となった食物から、血管はその血液を、神経線維はその液体を、繊維の起源である実体(物質)は、その霊魂精気を汲み、呼び出します。
植物界から――
幹・枝・葉・果実とともに木は、その根の上に立ち、土から根を通して、幹・枝・葉のために粗野な液体を、果肉のために純粋な液体を、また果実の中の種のために最も純粋な液体を汲み、呼び出します。
鉱物界から――
地の内奥のある場所に、金・銀・鉄を含んだ鉱石があり、地の中に隠されている発散物から、金・銀・鉄はそれぞれその要素を得ています。

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66◀︎目次▶︎68

67 人間のもとにあるみことばの自然的な意味から、どのように霊的な天使は自分の意味を、また天的な天使は自分の意味を引き出すか、ここで例によって説明します。
十戒の五つの戒めを例とします。
戒め「あなたと父とあなたの母を敬わなければならない」――
人間は「」と「」によって、地上の父と母を、また父と母に代わるようなすべての者を理解し、「敬うこと」によって、敬意を払い、その者に従うことを理解します。
しかし、霊的な天使は「」によって主を、「」によって教会を理解し、「敬うこと」によって、愛することを理解します。
けれども、天的な天使は「」によって主の神的愛を、「」によってその方の神的知恵を、「敬うこと」によって、その方から善を行なうことを理解します。
[2] 戒め「盗んではならない」――
人間は「盗むこと」によって盗むこと、だまし取ること、何らかの姿の下に隣人からその財産を取り去ることを理解します。
霊的な天使は「盗むこと」によって、他の者から虚偽と悪によってその信仰の真理と仁愛の善を奪うことを理解します。
けれども、天的な天使は「盗むこと」によって、主にあるものを自分自身に帰することを、そしてその方の義と功績を自分自身に要求することを理解します。
[3] 戒め「姦淫してはならない」――
人間は「姦淫すること」によって姦淫を犯すこと、淫行すること、わいせつなことを行なうこと、みだらなことを話すこと、不潔なことを考えることを理解します。
霊的な天使は「姦淫を犯すこと」によって、みことばの善を不純化すること、その真理を虚偽化することを理解します。
けれども、天的な天使は「姦淫を犯すこと」によって、主の神性を否定すること、みことばを冒涜することを理解します。
[4] 戒め「殺してはならない」――
人間は「殺すこと」によって、憎しみを抱くことを、殺人までも望む復讐を理解します。
霊的な天使は「殺すこと」の代わりに、悪魔を演じること、人間の魂を殺すことを理解します。
けれども、天的な天使は「殺すこと」の代わりに、主に、また主のものであるものに憎しみを抱くことを理解します。
[5] 戒め「偽りの証言をしてはならない」――
人間は「偽りの証言をすること」によって、偽ることと中傷することを理解します。
霊的な天使は「偽りの証言をすること」の代わりに、虚偽が真理であること、そして悪が善であること、またその逆のことを言うことと説きつけることを理解します。
けれども、天的な天使は「偽りの証言をすること」の代わりに、主とみことばを冒涜することを理解します。
[6] これらから、みことばの自然的な意味から、それに内在する霊的なものと天的なものがどのように開かれるか、また引き出されるか、見られることができます。また、驚くべきことですが、天使は、人間が何を考えているか知ることは別にして、自分のものを引き出します。しかし、それでも天使と人間の思考は対応によって、目的・原因・結果のように一つになっています。
さらにまた実際に、目的は天的な王国の中に、原因は霊的な王国の中に、結果は自然界の中にあります。
結合そのものは、対応によって創造からこのようなものです。
そこで、ここから、みことばによって、天使との交わりがあります。

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67◀︎目次▶︎69

68 みことばの自然的な意味すなわち文字どおりの意味によって天使たちと人間の交わりがあることは、それぞれの人間の中に創造から天的・霊的・自然的な三つのいのちの段階があるからでもあります。しかし人間は世の中にいるかぎり自然的な段階の中にいます、その時、本物の真理の中にいればいるほど、それだけ霊的な段階の中にいます、またその真理にしたがった生活の中にいればいるほど、それだけ天的な段階の中にいます。しかし、それでも死後でないなら、霊的な段階と天的な段階そのものの中にやって来ません。
けれどもこの事柄については多くのことを他の箇所で述べます。

 

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68◀︎目次▶︎70

69 これらから、主との結合が、また天使との交わりが、みことばによってあることから、主が教えられるように、みことばの中にだけ霊といのちがあることを明らかにすることができます――

 わたしがあなたがたに話すことばは、霊であり、またいのちです(ヨハネ6・63)。
 わたしが与える水は……永遠のいのちの中にわき出る水の泉となります(ヨハネ4・14)。
 人間はパンだけからでは生きません、しかし神の口から出るすべてのことばによります(マタイ4・4)。
 あなたがたは永遠のいのちへ続く食物のために働きなさい……それを人の子はあなたがたに与えます(ヨハネ6・27)。

 

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69◀︎目次▶︎71

(7)みことばはすべての天界にある、ここから天使の知恵がある

70 みことばが天界にあることは、今までよく知られていませんでした。また、天使と霊たちは世の人間と同じような人間であること、彼らにすべての事柄で人間にあるのと同じようなのものがあること、ただ霊的なものである相違があるだけであり、彼らのもとにあるそれらすべてのものは霊的な起源からのものであること、世の人間は自然的であり、彼らのもとのすべてのものは自然的な起源からのものであることが、教会で知られないかぎり、よく知られることもできません――このことが隠れているかぎり、みことばが天界にもあり、そこに天使により読まれていること、天界の下にいる霊たちによって読まれていることも知られることができません。
しかしこのことが永遠に隠れていないように、私に、天使や霊たちと交わりの中にいること、彼らと話すこと、彼らのもとにあるものを見ること、またその後、私が見て聞いた多くのものを物語ることが与えられました。
このことを著作『天界と地獄』(1758年ロンドンで出版)で行ないました――その著作から、天使と霊たちが人間であること、世の人間のもとにあるすべてのものが彼らのもとに豊かにあることを知ることができます。
その著作に、天使と霊たちが人間であること(73―77番と435―456番)、世の人間のもとにあるのと同じようなものが彼らのもとにもあること(170―190番)、さらにまた、神礼拝があり、彼らのもとの神殿に説教があること(221―227番)、文書それとまた本もあること(258―264番)、みことばがあること(259番)が見られます。

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70◀︎目次▶︎72

71 天界の中のみことばについては、これは自然的な文体からまったく異なっている霊的な文体で書かれています。霊的な文体は文字そのものから成り立ち、文字のそれぞれが意味を含み、文字の上部に符号がついていて、それが意味を高めています。

霊的な王国の天使のもとの文字は、私たちの世の印刷の文字と似ています。天的な王国の天使のもとの文字は、文字のそれぞれもまた完全な意味を含み、古代へブル文字と似ていて、上部や内部のしるしとともに、いろいろなふうに曲がっています。
[2] 彼らの文書はこのようであるので、それゆえ、彼らのみことばの中には私たちのみことばの中にある人物や場所の名前はなく、名前の代わりに、それらを意味する事柄があります――モーセの代わりに歴史的なみことば、エリヤの代わりに預言のみことばが意味されます。アブラハム・イサク・ヤコブの代わりに神性と神的人間性に関する主、アロンの代わりに祭司職、ダビデの代わりに王権が意味され、両方とも主のものです。ヤコブの十二の息子たちすなわちイスラエルの部族の名前の代わりに天界と教会のいろいろなもの、主の十二の弟子たちの名前の代わりに同様のものが意味されます。シオンとエルサレムの代わりにみことばとみことばからの教えに関する教会、カナンの地の代わりに教会そのものが意味されます。ヨルダン川のこちら側と越えた側のそこの両方の都の代わりに教会とその教えに属すいろいろなものが意味され、他のものも同様です。
数も同様です。数は、天界のみことばの中にありません。しかしそれらの事柄の代わりに私たちのみことばの中にある数に対応するものがあります。
これらから、天界の中のみことばは私たちのみことばに対応しているみことばであること、したがって、一つであることを明らかにすることができます。なぜなら、対応は一つのものをつくるからです。

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71◀︎目次▶︎73

72 天界の中のみことばが、単純な者はそれを単純に、そして賢明な者は賢明に理解するように書かれていることは驚くべきことです。というのは、多くのしるしや記号が文字の上部にあり、すでに言われたように、意味を高めるからです。単純な者はそれらに注意しません、それらを知りもしません。しかし、賢明な者は、それぞれの者が自分の知恵にしたがって、最高の知恵にまでも注意します。
主から霊感を受けた天使により書かれたみことばの写しが、天界の大きなそれぞれの社会に、それが何らかの点に関して、他の所で改悪されないように、その聖具室の中にしまわれています。
私たちのみことばは、それを単純な者が単純に、賢明な者が賢明に理解することで、天界の中のみことばと実によく似ています。しかしこの(理解する)ことは別の方法で行なわれます。

 

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72◀︎目次▶︎74

73 みことばを通して天使にすべての知恵があることは、天使自身がこのことを認めています。なぜなら、みことばを理解していればいるほど、それだけ光の中にいるからです。
天界の光は神的な知恵であり、それは彼らの目の前の光です。
みことばの写しがしまわれている聖具室の中に、炎のような輝く光があり、それは天界の外にあるすべての段階の光にまさっています。
その理由は前に言われたのと同じであり、主がみことばであられることです。

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73◀︎目次▶︎75

74 霊的な天使の知恵が人間の知恵にまさるように、ほとんどそのように天的な天使の知恵は霊的な天使の知恵にまさっています。このことの理由は、天的な天使は主からの愛の善の中にいて、霊的な天使は主からの知恵の真理の中にいるからです。また愛の善があるところに、同時にそこに知恵が住みます、しかし、知恵があるところに、同時にそこに愛の善があるよりも多くの知恵は住まないからです。
これらが、霊的な王国の中のみことばと比べて、天的な王国の中のみことばが異なって書かれている理由です。なぜなら、天的な王国のみことばの中に愛の善が表現されており、記号は情愛を示します、しかし、霊的な王国のみことばの中に知恵の真理が表現されており、記号は知覚を示すからです。

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74◀︎目次▶︎76

75 これらから、世にあるみことばの中にどんな知恵がたくわえられて隠されているか、結論することができます。というのは、この中に言語に絶する天使の知恵のすべてが隠されていて、その容器であるからです。主により、みことばを通して天使になる人間は、死後、その知恵の中にやって来ます。

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75◀︎目次▶︎77

(8)みことばから教会があり、みことばがどのように理解されるかによって、教会はそのようなものである

76 教会はみことばからであること、このことに疑いは起こりません。なぜなら、みことばは神的真理そのものであり(1―4番)、みことばから教会の教えがあり(50―61番)、みことばによって主との結合があるからです(62―69番)。
しかしみことばの理解が教会をつくること、このことは疑いが起こりえます。「みことばを持っている、それを読むかあるいは説教者から聞いている、その文字どおりの意味から何らかのものを知っている」ので、教会に属していると信じる者がいるからです――しかしみことばの中のあれこれをどのように理解しなければならないかを知りません、ある者はそれほど評価しません。
それゆえ、みことばが教会をつくらないで、その理解がつくること、教会の中にいる者のもとで、みことばの理解がどのようであるかによって、教会もそのようであることが証明されなければなりません。
このことは次のことから証明されます。

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76◀︎目次▶︎78

77 みことばは、人間のもとでその理解にしたがって、すなわち、理解されるがままに、そのような、みことばとなっています。
理解されないなら、みことばは確かにみことばと呼ばれます、しかし人間のもとにありません。
みことばは、その理解にしたがって真理です、なぜなら、みことばは虚偽化されることができ、真理でないことができるからです。
みことばは、その理解にしたがって霊といのちです、なぜなら、その理解なしに文字は死んでいるからです。
人間に、みことばの理解にしたがって真理といのち(生活)があるので、それにしたがって彼に信仰と愛があります。なぜなら、真理は信仰のものであり、愛はいのち(生活)のものであるからです。
さて、信仰と愛によって、またそれらにしたがって、教会があるので、みことばの理解によって、またそれにしたがって、教会は教会であることがいえます。教会は本物の真理の中にあるなら高貴です、本物の真理の中にないなら卑しいです。真理が虚偽化されるなら教会は破壊されます。

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77◀︎目次▶︎79

78 さらに、主はみことばであられ、その中であたかも人間と話されるかのようであるので、主は人間のもとに現在され、みことばによって人間との結合があります。なおまた、主は神的真理そのものであられるので、みことばもまた神的真理です。
このことから、みことばの理解にしたがって、主は人間のもとに現在され、同時に人間との結合があることが明らかです。なぜなら、それにしたがって人間に真理とそこからの信仰があり、さらに愛とそこからのいのちもまたあるからです。
みことばを読むことによって、主は人間のもとに現在されます、しかし、人間との結合は、みことばからの真理の理解によって、またそれにしたがっています。主が人間に結合されればされるほど、それだけ人間の中に教会があります。
教会は人間の中にあります。人間の外にある教会は、中に教会をもつ多くの者のもとにある教会です。
このことが神の国がいつやって来るか尋ねたパリサイ人への主のことばによって意味されます、

神の国はあなたがたの中にあります(ルカ17・21)。

そこの「神の国」によって、主が意味され、主からの教会が意味されています。

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78◀︎目次▶︎80

79 預言書に教会について扱われている多くの箇所の中に、みことばの理解について扱われており、みことばが正しく理解されているところ以外の他のところに教会はないこと、その教会の中の者のもとのみことばの理解がどのようであるかによって、その教会もそのようなものであることが教えられています。
預言書の多くの箇所にもまた、イスラエルとユダヤ国民のもとの教会が、みことばの意味または理解を虚偽化したことによって完全に破壊され、無とされたことが記述されています、なぜなら、他のものは教会を破壊しないからです。
[2] みことばの理解は、真理も虚偽も、エフライムによって、預言書に、特に「ホセア書」に記述されています。なぜなら、みことばの中の「エフライム」によって、教会の中のみことばの理解が意味されるからです――また、みことばの理解が教会をつくるので、それゆえ、エフライムは〔次のように〕呼ばれています、

 貴重な息子、うれしい子(エレミヤ31・20)。
 長子(エレミヤ31・9)。
 エホバの頭の力強さ(詩篇60・7、108・8)。
 力ある者(ゼカリヤ10・7)。
 弓で満ちている(ゼカリヤ9・13)。

また、エフライムの息子たちは〔次のように〕呼ばれています、

 武装した者、弓を射る者(詩篇78・9)。

」によって、虚偽に対して戦うみことばからの教えが意味されます。それゆえ、さらにまた、

 エフライムはイスラエルの右手に移され、祝福された。さらに、ルベンの代わりに受け入れられた(創世記48・5, 11以降)。

また、それゆえ、

 エフライムはその兄弟マナセと一緒に、モーセにより、彼らの父ヨセフの名前の下に、イスラエルの子たちの祝福として、すべての者よりも高められた(申命記33・13―17)。

[3] けれども、みことばの理解が破壊された時、教会がどのようであるかもまた、エフライムによって預言者に、特に、「ホセア書」に記述されています。例えば、これらから明らかです――

 イスラエルとエフライムは倒れる。……エフライムは孤独になる。……エフライムはさばきに圧迫され、揺すぶられる。……わたしはエフライムには獅子のようになる……わたしは襲う、行く。わたしは取り除く、救い出す者はいない(ホセア5・5, 9, 11―14)。
 エフライムよ、わたしはあなたに何をなそうか?……あなたの敬虔さは、夜明けの雲のようであり、朝に滴って消え去る露のようであるからである(ホセア6・4)。
 彼らはエホバの地に住まない……エフライムはエジプトに戻り、アッシリヤで不潔なものを食べる(ホセア9・3)。

[4] 「エホバの地」は教会です。「エジプト」は人間の自然的な記憶知であり、「アッシリヤ」はそこからの推論であり、それらから、みことばはその理解に関して虚偽化されます。それゆえ、「エフライムはエジプトに戻る、アッシリアで不潔なものを食べる」と言われています。

[5] エフライムは風を食う、東風を追う。すべての日に、うそと荒廃を増す。アッシリヤと契約を結び、油をエジプトに運ぶ(ホセア12・1)。

風を食う」、「東風を追う」、そして「うそと荒廃を増す」は、真理を虚偽化すること、こうして教会を破壊することです。
[6] さらにまた同様のことが、次のものの中の「エフライムの淫行」によって意味されます(なぜなら、「淫行」は、みことばの理解を、すなわち、その本物の真理の理解を虚偽化することを意味するからです)――

 わたしは知っている……エフライムにすべての淫行があり……イスラエルが汚れたこと(ホセア5・3)。
 イスラエルの家の中に、わたしは不潔な事柄を見た。そこに、エフライムは淫行をなし、イスラエルは汚れている(ホセア6・10)。

イスラエル」は、教会そのものであり、「エフライム」は、みことばの理解であり、それから、またそれにしたがって教会があります。それゆえ、「エフライムは淫行をなし、イスラエルは汚れている」と言われています。
[7] ユダヤ人のもとの教会は、みことばの虚偽化によって完全に破壊されたので、それゆえ、エフライムについて次のように言われています、

 エフライムよ、わたしはあなたを与える。イスラエルよ、わたしはあなたを、アデマのように引き渡す。わたしはあなたをツェボイムのようにする(ホセア11・8)。

それで、預言書「ホセア書」に、最初の章からそこの最後の章まで、みことばの虚偽化について、またそれによって教会の破壊について扱われ、「淫行」によってそこに真理の虚偽化が意味されるので、それゆえ、その預言者に、その教会の状態を表象するために、淫婦を自分に女として受け入れ、彼女から息子を産むこと(第一章)、そして再び、姦淫の女を受け入れること(第三章)が命じられました。
[8] 教会の中で、みことばがどのように理解されるかによって、その教会がそのようなものになるかが、みことばから知られ、確信されるように、これらを引用しました。もしその理解がみことばからの本物の真理からのものであるなら、〔教会は〕すぐれた、貴重なものです。しかし、もし虚偽化されたものからなら、〔教会は〕破壊されたもの、それどころか不潔なものです。
エフライム」によって、みことばの理解、またその対立する意味で虚偽化、また、ここから教会の破壊が意味されることを確信するために、エフライムについて扱われている他の箇所を比較することができます――

例えば、ホセア書4・17, 18, 7・1, 11  8・9, 11, 9・11―13, 16, 10・11, 11・3, 12・1, 8, 14, 13・1, 12。イザヤ書17・3, 28・1。エレミヤ書4・15, 31・6, 18, 50・19。エゼキエル書37・16, 48・5。オバデヤ書第19節。ゼカリヤ書9・10。

 

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79◀︎目次▶︎81

(9)みことばの個々のものの中に主と教会の結婚があり、ここから善と真理の結婚がある

80 みことばの霊的な意味が以前に明かされなかったので、みことばの個々のものの中に主と教会の結婚があり、ここから善と真理の結婚があることは、今まで見られず、見られることもできませんでした、そのことはその霊的な意味によってでないなら見られることができないからです。というのは、みことばの文字どおりの意味の中に、霊的なものと天的なものである二つの意味が隠れているからです。
みことばの中にあるものは、霊的な意味では、おもに教会に関係し、天的な意味ではおもに主に関係します――なおまた、それらは、霊的な意味では神的真理に関係し、天的な意味では、神的善に関係します。
ここから、みことばの文字どおりの意味の中にその結婚があります。
しかしこのことは、みことばの霊的なまた天的な意味から言葉と名前の意味するものを知る者でないなら見られません。なぜなら、言葉と名前のあるものは善について、あるものは真理について述べられ、あるものは両方のものを含むからです。それゆえ、その知識なしに、みことばの個々のものの中のその結婚は見られることができません。
これが、この秘義が以前に明かされなかったことの理由です。

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80◀︎目次▶︎82

81 このような結婚が、みことばの個々のものの中にあるので、それゆえ、しばしば、みことばの中に二つの表現があり、それらは同じ事柄の繰り返しのように見えます。しかしそれでも、繰り返しではなく、一つは善に、もう一つは真理に関係し、また両方のものはひとまとめにされて、それらの結合を、したがって一つの事柄をつくっています。
ここからもまた、みことばの神性、その神聖さがあります。なぜなら、神的なすべての働きの中に真理と結合した善が、善と結合した真理があるからです。

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81◀︎目次▶︎83

82 みことばの個々のものの中に主と教会の結婚があり、ここから善と真理の結婚があると言われるのは、主と教会の結婚があるところに、そこに善と真理の結婚もまたあるからです。というのは、前者の結婚から後者の結婚があるから――なぜなら、教会すなわち教会の人間が真理の中にいるとき、その時、主はその真理の中へ善とともに流入し、その真理を生きいきとさせられるからです。あるいは同じことですが、教会すなわち教会の人間が真理を通して知性の中にいるとき、その時、主は愛と仁愛の善を通してその知性の中に流入し、こうして彼にいのちを注がれるからです。

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82◀︎目次▶︎84

83 それぞれの人間のもとに、理解力と意志と呼ばれる、いのちの二つの能力があります。
理解力は真理の容器またここから知恵の容器であり、意志は善の容器またここから愛の容器です。
これらは、人間が教会の人間であるために一つとなるべきです。そして、人間の理解力が本物の真理でつくられる時、また彼の意志が愛の善で満たされる時、一つとなり、このことは外観に関して彼からのように生じますが、このことは主から生じています。
ここから、人間に真理のいのち(生活)と善のいのち(生活)があります。意志から理解力の中に真理のいのち(生活)が、理解力を通して意志の中に善のいのち(生活)があります。
このことが人間のもとの真理と善の結婚であり、さらに彼のもとの主と教会の結婚です。
しかしここに結婚と呼ばれているこの相互の結合については、天使の知恵による『神の摂理』、『神の愛と知恵』、『生活について』を見てください。

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83◀︎目次▶︎85

84 みことばの中に、同じことの繰り返しのように見られる二つの表現があることは、それに注意して読む者たちにより、見ることができます。例えば、兄弟と仲間・貧しいと乏しい・荒廃と荒野・空っぽと虚しさ・敵と敵対者・罪と不正・怒りと憤り・国民と人民・楽しさと喜び・嘆きと泣くこと・義と審判などです。これらは同義語のように見えますが、それでもやはり同義語ではありません。なぜなら、兄弟・貧しい・荒廃・空っぽ・敵・罪・怒り・国民・楽しさ・嘆き・義は善について、また正反対の意味で悪について述べられます、しかし、仲間・乏しい・荒野・虚しさ・敵対者・不正・憤り・人民・喜び・泣くこと・審判は真理について、また正反対の意味で虚偽について述べられるからです――それでもこの秘義を知らないで読む者には、貧しいと乏しい・荒廃と荒野・空っぽと虚しさ・敵と敵対者は一つの事柄であるものに見られ、罪と不正・怒りと憤り・国民と人民・楽しさと喜び・嘆きと泣くこと・義と審判も同様です。それでも一つの事柄でありません、しかし結合によって一つの事柄となっています。
さらにまた、みことば中に多くのものが結合されています。例えば、火と炎・金と銀・銅と鉄・木と石・パンと水・パンとぶどう酒・紫色(の服)と亜麻布(の服)などです。またこのことは、火・金・銅・木・パン・紫色(の服)が善を意味し、そして炎・銀・鉄・石・水・ぶどう酒・亜麻布(の服)が真理を意味するからです――同様に、「すべての心から、またすべての霊魂から」神を愛さなければならないこと、さらに神は人間の中に「新しい心と新しい霊」を創造されたことが言われています。というのは、心は愛の善について、霊魂はその善からの真理について述べられるからです。
さらにまた、他のものとの連結なしに単独で言われる言葉もあります、善と同じく真理の両方のものについて関係するからです。しかしこれらは、また他の多くのものは、天使の前でないなら、また自然的な意味の中にいる時、霊的な意味の中にもまたいる者たちの前でないなら、現われません。

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84◀︎目次▶︎86

85 みことばの中に同じ事柄の繰り返しのように見えるこのような二つの表現があることを、みことばから示すことは長くてうんざりするものになるでしょう、なぜなら、紙面を満たすからです。
しかし疑いが取り除かれるために、私は、そこに「審判と義(公正)」が、さらにそこに「国民と人民」が、そのようにまた、そこに「楽しさと喜び」が一緒に言われている箇所を示します。
そこに「審判」と一緒に「」が挙げられている箇所は次のものです――

 都は……審判で満ち、公正が夜を過ごした(イザヤ1・21)。
 シオンは公正として、その帰ってくる者は審判として、あがなわれる(イザヤ1・27)。
 万軍のエホバは審判として高められ、聖なる神は義としてきよめられる(イザヤ5・16)。
 ダビデの王座の上に、その王国の上に座る。それを……審判と義として確立するために(イザヤ9・7)。
 エホバは高められる、高いところに住まわれるから。地を審判と義で満たされた(イザヤ33・5)。
 エホバは言われた、審判を守れ、義を行なえ。わたしの救いが近いから……わたしの義が現われるように(イザヤ56・1)。

 義を行ない、自分の神の審判を見捨てなかった国民のように、彼らは……義の審判を求める(イザヤ58・2)。
 生きるエホバによって審判と義として……誓え(エレミヤ4・2)。
 誇る者はこのことについて誇れ……エホバは地に……審判と義を行なわれたこと(エレミヤ9・24)。
 審判と義を行なえ。……わざわいだ、義なしに自分の家を建て、審判なしに自分の高殿を建てる者。……あなたの父は……審判と義を行なわなかったか?その時、彼らはよくなかったか(エレミヤ22・3, 13, 15)。
 わたしはダビデに正しい若枝を起こす。彼は王となって支配し……地に審判と義を行なう(エレミヤ23・5, 33・15)。
 もし男が正しいなら、その者は審判と義を行なう(エゼキエル18・5)。
 不信心な者でも「引き返すなら、審判と義を行なうなら、彼に対して記憶はない、審判と義を行なうなら、生きに生きる」(エゼキエル33・14, 16, 19)。
 わたしはわたしをあなたと永遠に婚約させる……義としてまた審判として、慈悲としてまた哀れみとして(ホセア2・19)。
 審判を水のように、義を泉の流れのように流れさせよ(アモス5・24)。
 あなたがたは審判を胆汁に、義の実をニガヨモギに変えてしまった(アモス6・12)。
 エホバは「私の争いを争われ、私に審判を行なわれ、私を光の中に連れ出される」。私はその方の義を見る(ミカ7・9)。
 エホバよ、あなたの義は神の山のようであり、あなたの審判は大きな深淵のようです(詩篇36・6)。
 エホバは「あなたの義を光のように、あなたの審判を真昼のように現わされる」(詩篇37・6)。
 エホバが「ご自分の民を義として、ご自分の哀れな者たちを審判としてさばきますように」(詩篇72・2)。
 義と審判はあなたの王座の支え(詩篇89・14)。
 私があなたの義の審判を学ぶとき……私は日に七度、あなたを、あなたの義の審判をほめたたえます(詩篇119・7, 164)。
 ガドは「主の義とその方の審判をイスラエルに行なう」(申命記33・21)。
 真理の霊は「世に……義について、審判について非難する」(ヨハネ16・8, 10)。(また他の箇所)。

審判と義(公正)がこれほど何度も言われていることは、審判は真理について、義は善について言われるからです。それゆえ、「審判と義を行なうこと」によってもまた真理と善から行なうことが意味されます。
審判が真理について、義(公正)が善について言われるのは、霊的な王国の中の主の統治は審判と呼ばれ、天的な王国の中の主の統治は義と呼ばれるからです(そのことについて著作『天界と地獄』214, 215番を見てください)。
審判は真理について言われるので、それゆえ、ある箇所では、「真理と公正」と言われています(例えば、イザヤ11・5、詩篇85・11、また他の箇所に)。

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85◀︎目次▶︎87

86 同じ事柄のような繰り返しが、善と真理の結婚ために、みことばの中にあることは、「国民(国)と人民(民)」が言われている箇所から明らかに見ることができます。
例えば、これらの中に――

 わざわいだ、罪を犯す国、不法の重い民(イザヤ1・4)。
 暗やみの中を歩いている民は大きな光を見た……あなたは国民を増やされた(イザヤ9・2, 3)。
 アッシリヤ、わたしの怒りの杖。……わたしはこれを偽善の国民に送る、わたしの激しい憤りの民に対してわたしはそれを与える(イザヤ10・5, 6)。
 その日に生じる。エッサイの根は、民の旗として立ち……国民は求める(イザヤ11・10)。
 エホバは「民を……癒されることのできない災害で打ち、怒りとともに国民を支配される(イザヤ14・6)。
 その日に、万軍の主に贈り物が、散らされたまた剃髪にされた民、……測られて、踏みにじられた国民からもたらされる(イザヤ18・7)。
 力強い民はあなたを尊ぶ、力のある国民の都はあなたを恐れる(イザヤ25・3)。
 エホバは「……すべての民の上の包みを……すべての国民の上のおおいを、のみ込まれる」(イザヤ25・7)。
 国民よ、近づけ……民よ、聞け(イザヤ34・1)。
 わたしはあなたを呼んだ……民を契約の中に、国民を光の中に(イザヤ42・6)。
 すべての国民は一つに集められ、民は集まる(イザヤ43・9)。
 見よ、わたしは国民に向かってわたしの手を、民に向けて……わたしの旗を上げる(イザヤ49・22)。
 わたしはその方を証人として民に、指導者と立法者として国民に与えた(イザヤ55・4, 5)。
 見よ、民が北の地から来る。大きな国民が……地の果てから(エレミヤ6・22)。
 わたしはあなたに国民の中傷をもはや聞かせない、民のそしりをもはやあなたは受けない(エゼキエル36・15)。
 すべての民と国民がその方を礼拝する(ダニエル7・14)。
 国民について物笑いにしないように、民の中で「彼らの神はどこに?」と言わないように(ヨエル2・17)。
 わたしの民の残りの者がそれらを略奪する、わたしの国民の残余が彼らを相続する(ゼパニヤ2・9)。
 多くの民がやって来る、多数の国民がエルサレムで万軍のエホバを求めるために(ゼカリヤ8・22)。
 私の目はあなたの救いを見ます、それはすべての民の顔の前に備えられたもの、国民(異邦人)の啓示の光です(ルカ2・30―32)。
 あなたは……私たちをあなたの血で、すべての……民族と国民から、あがなわれた(黙示録5・9)。
 あなたは再び民族と国民について預言しなければならない(黙示録10・11)。
 あなたは私を国民の頭に置く。私の知らない民が私に仕える(詩篇18・43)。
 エホバは国民の計画をむだに戻し、民の考えをひっくり返される(詩篇33・10)。
 あなたは私たちを国民の中で物笑いに、民の間で頭の揺れ動く者にされる(詩篇44・14)。
 エホバは「民を私たちの下に、国民を私たちの足の下に従わせられる。……エホバは国民の上に支配された。……民の有志たちは集められた」(詩篇47・3, 8, 9)。
 あなたを民は称賛する。国民は喜び、歓呼する。あなたが民を正直にさばき、国民を地で導かれることから(詩篇67・3, 4)。
 私を覚えてください、エホバ、あなたの民をお気に入りとして。……私があなたの国民の楽しさとして喜ぶように(詩篇106・4, 5)。 (その他の箇所に)。

国民とまた同時に人民が言われているのは、「国民」によって善の中にいる者が、また正反対の意味で悪の中にいる者が意味されるからです。また「人民」によって真理の中にいる者が、また正反対の意味で虚偽の中にいる者が意味されるからです――それゆえ、主の霊的な王国の中にいる者は人民と呼ばれ、主の天的な王国の中にいる者は国民と呼ばれます。なぜなら、霊的な王国の中にいるすべての者は真理の中に、またここから知恵の中にいます、けれども、天的な王国の中にいるすべての者は善の中に、またここから愛の中にいるからです。

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86◀︎目次▶︎88

87 「楽しさ」が言われているところに「喜び」もまた言われているように、他のものも同様です。
例えば、これらの中に――
 見よ、楽しみと喜び、牛を殺すこと(イザヤ22・13)。
 楽しみと喜びが追いつき……悲しみと嘆きは逃げ去る(イザヤ35・10, 51・11)。
 私たちの神の宮から喜びと楽しみは絶たれた(ヨエル1・16)。
 終わらされる……楽しみの声と喜びの声(エレミヤ7・34、25・10)。
 第十の月の断食はユダの家で楽しみと喜びとなる(ゼカリヤ8・19)。
 私たちのすべての日々で私たちが楽しむように、私たちを喜ばせてください(詩篇90・14, 15)。
 エルサレムの中で喜べ……その中で楽しめ(イザヤ66・10)。
 楽しみ喜べ、エドムの娘よ(哀歌4・21)。
 天は喜び、地は楽しむ(詩篇96・11)。
 私に楽しみと喜びを聞かせてください(詩篇51・8)。
 シオンに……楽しみと喜びが見られ、告白と歌声がある(イザヤ51・3)。
 喜びとなり、多くの者がその方の誕生を楽しむ(ルカ1・14)。
 わたしは……楽しみの声と喜びの声を、花嫁の声と花婿の声を終わりにする(エレミヤ7・34、16・9, 25・10)。
 今後、この場所で聞かれる……楽しみの声と喜びの声、また花嫁の声と花婿の声(エレミヤ33・10, 11)。
 (また他の箇所に)。

[2] 楽しさと同じく喜びの両方が言われているのは、楽しさは善のものであり、喜びは真理のもの、または、楽しさは愛のものであり、喜びは知恵のものであるからです。というのは、楽しさは心のものであり、喜びは霊魂のもの、または、楽しさは意志のものであり、喜びは知恵のものであるからです。
これらの中に主と教会の結婚もまた含まれることは、次に言われていることから明らかです、

 楽しみの声と喜びの声、花婿と声と花嫁の声(エレミヤ7・34、16・9、25・10、33・10, 11)。

主は花婿であられ、教会は花嫁です。

主が花婿であられることは、マタイ9・15、マルコ2・19、20、ルカ5・[34、]35に、教会が花嫁であることは、黙示録21・2、9、22・17に見られます。

それゆえ、バプテスマのヨハネはイエスについて言いました、

 花嫁を持つ者は花婿です(ヨハネ3・29)。

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87◀︎目次▶︎89

88 教会との主の結婚ゆえに、すなわち同じことですが、神的善と神的真理の結婚ゆえに、みことばの個々のものの中に、非常に多くの箇所に、エホバと神そしてエホバとイスラエルの聖なる者が二つのものであるかのように言われていますが、それでも、そのとき一つです。というのは、「エホバ」によって神的善に関する主が、「」〔と「イスラエルの聖なる者」〕によって、神的真理に関する主が意味されるからです。
エホバと神さらにエホバとイスラエルの聖なる者が、みことばの中の非常に多くの箇所に言われ、それでも主である一つのものが意味されていることは、『主についての教え』(343846番)を見てください。

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88◀︎目次▶︎90

89 『主についての教え』の中で示すことが始められたように(1―7番)、みことばのすべてと個々のものの中に主と教会の結婚があるので、みことばのすべてと個々のものは主について扱っていることを明らかにすることができます。
教会についても扱われていますが、教会もまた主です。なぜなら、主は、「教会の人間は自分の中にいる、自分もその者の中にいる」と教えられているからです(ヨハネ6・56、14・20、21、15・5、7)。

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89◀︎目次▶︎91

90 みことばの神性と神聖さについてここに扱われているので、何らかの注目すべきものをこれまで言われたことに付加することが許されています。
 かつて私に天界からへブル文字でいっぱいの紙切れが送られてきました、しかし古代人のもとのように書かれていて、今日ではある部分に関して直線になっているそれらの文字は、彼らのもとで、それらは上方に向かう小さな角とともに曲がっていました。また私のもとにいた天使は、「文字そのものから完全な意味を知っている。またそれらを特に文字の屈曲と点、線の屈曲と点から知っている」と言いました。また、「アブラムとサライの名前に加えられたHは無限と永遠を意味する」と言って、別々のとき何を意味し、結合したとき何を意味するか説明しました。
 さらにまた、私の前で、詩篇32第2節の、みことばの意味を、文字または音節だけから説明しました。それらの意味は、要するに、主は悪いことをする者にも哀れみをもたれることです。
[2] 彼らは私に〔次のことを〕教えました。第三の天界の文書は、屈曲し、いろいろに曲げられた文字から構成され、それらのそれぞれが意味を持っていること、そこの母音は情愛に対応する音声のためであったこと、その天界の中で母音「イ(i)」と「エ(e)」は発声することができないで、それらの代わりに「イウ(y)」と「エウ(eu)」を発音すること、母音「ア(a)」「オ(o)」「ウ(u)」は十分な音を与えるので彼らが用いたことです。
なおまた、いくつかの子音の文字を荒々しく表現しないで、柔らかく表現すること、またここから、「文字の中の硬さは霊的な天界の中でも用いられる」と言って、あるへブル文字の内部には柔らかく発声しない〔この「ない」は原文にありません〕しるしとして点があることです。霊的な天界では真理の中にいる、また真理は荒さを許すという理由からです。けれども、善は許さず、その善の中に天的な王国すなわち第三の天界の天使がいます。
さらにまた、彼らは、「自分たちのもとに意味のある小さな突起や小点を伴った曲がった文字で書かれたみことば持っている」と言いました。
そのことから、主の次のものが何を意味するか明らかです、

すべてが成就するまでは、律法から一点と一画は過ぎ去らない(マタイ5・18)。

なおまた、

律法の一つの小点が落ちることよりも、天地が過ぎ去ることは容易である(ルカ16・17)。

 

 

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90◀︎目次▶︎92

(10)異端は、みことばの文字どおりの意味からつくり上げることができる、しかしそれらを確信することは有害である

91 みことばは教えなしに理解されることができないこと、教えは本物の真理を見るためのランプのようであることは前に示しました。このことの理由は、みことばが対応そのものによって書かれているからです。
ここから、そこの多くのものは真理の外観であり、ありのままの真理ではありません。多くのものが、自然的な人に、それどころか感覚的な人に把握されるために書かれました、しかしそれでも、それは単純な者には単純に、知的な者には知的に、そして賢い者には賢明に理解されることができるように書かれました。
そこで、みことばはこのようなものであるので、真理の衣服である真理の外観は、ありのまま(裸)の真理として把握されることができます。その外観が確信される時、虚偽になります。
しかしこのことは他の者よりも自分のほうが賢明であると信じる者により生じます、そのときそれでも賢明ではありません。なぜなら、賢明であることは確信する前に真理であるかどうかを見ることであり、好むものならどんなものでも確信することではないからです。〔好むものを〕確認する性質を賦与されている者、また自己知性を誇る者がこのことを行ないます。けれども、そのこと〔確信する前に真理であるかどうかを見ること〕は、真理であるからと真理を愛し、真理に情愛を感じ、それらを生活に役立てる者が行ないます。というのは、前者は自分自身から照らされ、それらの光から虚偽を見ます、しかし、後者は主から照らされ、そしてそれらの光から真理を見るからです。

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91◀︎目次▶︎93

92 真理の衣服である真理の外観が、みことばからのありのまま(裸)の真理の代わりに把握されることができ、それが確信される時、虚偽となることは、〔これまで〕キリスト教界の中にあり、また今でもあるような多くの異端から明らかにすることができます。
異端そのものは人間を地獄へ落としません、しかし悪の生活が地獄へ落とします。なおまた異端の中にある虚偽を、みことばから、また自然的な人からの推論によって確信することは、地獄へ落とします。
というのは、だれもが自分の両親の宗教の中に生まれていて、幼児期からその中に導かれ、その後、それを保持し、世の仕事のために、その虚偽から自分自身そのものを連れ出すことができないからです――しかし悪く生きること、本物の真理の破壊にまでも虚偽を確信すること、このことが地獄へ落とします。
なぜなら、自分の宗教の中にとどまり、神を信じ、そしてキリスト教界の中で主を信じ、みことばを聖なるものと見なし、宗教からの十戒の戒めにしたがって生きる者は、虚偽に誓いを立てないからです。それゆえ、真理を聞き、自分なりにそれを受け入れる時、それを抱き、このように虚偽から連れ出されることがことができます――けれども自分の宗教の虚偽を確信した者はできません、なぜなら、確信された虚偽はとどまり、根絶されることができないからです。というのは、確信した後の虚偽は、だれかがその虚偽に誓いを立てるようなもの、もし自己固有の愛に、ここから知恵の高慢に結合しているなら、特にそのようなものであるからです。

 

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92◀︎目次▶︎94

93 私は霊界で、何世紀も前に生き、自分の宗教の虚偽を確信した者と話しました。また、同じ虚偽の中に今なお変わらずにとどまっていることがわかりました――また私は、同じ宗教で、彼らのように考え、しかし自分たちのもとのその虚偽を確信しなかった者とも話しました。彼らは天使に教えられて、虚偽を退け、真理を教えられたことがわかりました。前者は救われませんでしたが、後者は救われました。
だれでも人間は、死後、天使により教えられ、真理を見る者、真理から虚偽を見る者は受け入れられます。なぜなら、死後、だれもが真理を霊的に見るようになるからです。虚偽を確信しなかった者は真理を見ます。しかし確信した者は、真理を見ることを欲しません。また見ても、後ろに向きを変え、その時、それを嘲笑するかあるいは虚偽化します。

 

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93◀︎目次▶︎95

94 しかしこのことを例によって説明します。
みことばの多くの箇所で、怒り・憤り・復讐、また、罰する・地獄に投げ込む・試みる、また多くの同様のことが主に帰せられています。
このことを単純に信じ、このために神を恐れ、その方に対して罪を犯すことを用心する者は、その単純な信仰のために断罪されません。しかし怒り・憤り・復讐、またこのように悪であるようなものが主のもとにあること、また、主は怒り・憤り・復讐から、人間を罰し、地獄に投げ込まれる、と信じるほどまでにこのことを、自分自身のもとに確信する者は断罪されます。主は愛そのもの・慈悲そのもの・善そのものであられ、怒ること・憤ること・復讐することがおできにならない方であるという本物の真理を破壊したからです。
それらが主に帰せられていることは外観からです。他の多くのものも同様です。

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94◀︎目次▶︎96

95 文字どおりの意味の中の多くのものは、それらの中に本物の真理が隠れている真理の外観であること、また〔このような〕真理にしたがって考えることと話すことは断罪されないこと、しかし内部に隠れている本物の真理を破壊するまでもそれらを確信することは断罪されることは、自然の中の例によってもまた説明されることができます。自然的なものは霊的なものよりもはっきりと教え、説きつけるので、それらを示します。
[2] 目の前に、太陽は日ごとに、また毎年一回、地球の周りを動き回るように見えます。ここから、みことばの中で、太陽が昇り、沈むこと、そして朝・昼・夕・夜を、春・夏・秋・冬の期間を、このように日々と年々をつくることが言われています。そのとき、それでも太陽は不動のままです、というのは、火の大海であり、地球は毎日、自転し、毎年、公転するからです。
単純さと無知から、回転する、すなわち、地球は毎日、軸のまわりを回転し、毎年、黄道にしたがって運ばれると考える人間は、自然的な真理を破壊しません。
しかし、みことばによってまた自然的な人からの推論によって、太陽の運動と進路の外観を確信する者は、真理を弱め、破壊もします。
[3] 太陽が動くことは外観上の真理であり、動かないことは本物の真理です。
だれもが外観的な真理にしたがって話すことができ、話してもいます。しかし確信からそれにしたがって考えることは、理性的な理解力を鈍くし、暗くします。
星空の星も同様です――それらもまた毎日一回、太陽のように回転することは外観的な真理です。それゆえ、星についてもまた、昇り、沈む、と言われます。しかし星は不動であり、それらの天が動いていないことは本物の真理です。
しかしそれでも、だれでも外観にしたがって話すことができます。

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96 内部に隠れている本物の真理を破壊するまでも、みことばの外観上の真理を確信することが断罪されることは、みことばのすべてと個々のものが天界と伝達していて、前に言われたこと(62―69番)にしたがって、天界を開くからです。
このように人間がその意味を天界の愛に対立している世の愛を強めるために利用するとき、その時、みことばの内的なものは虚偽となります。それゆえ、その内的なものは虚偽であり、その文字どおりの意味である外的なものが天界と伝達するとき、その時、天界は閉ざされます。なぜなら、みことばの内的なものの中にいる天使は、それを退けるからです。
そのことから、内的なものの虚偽または虚偽化された真理は天界との伝達を取り去ること、またそれを閉ざすことが明らかです。
これが、異端の虚偽の何らかのものを確信することは有害であることの理由です。
みことばは庭園のようであり、その中にすべての種類の美味なものと喜ばしいものがあって天界のパラダイス(楽園)と呼ぶべきものです。果実からの美味なものと花からの喜ばしいものです。その真ん中にいのちの木があり、その近くに、いのちの水の泉があります。しかし、庭園の周囲に森の木々があります。
教えから神的真理の中にいる人間は、いのちの木がある真ん中にいます。実際に美味なものと喜ばしいものをここから楽しみます――けれども、教えからでなく、単なる文字どおりの意味から真理の中にいる人間は、周囲にいて、森だけを見ます――しかし、宗教の虚偽の教えの中にいる者は、また自分のもとのその虚偽を確信した者は、森の中にさえいないで、その外のそこに草もない砂の平地にいます。
死後の彼らの状態がこのようなものであることもまた、そのことを述べた箇所で確証されます。

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96◀︎目次▶︎98

97 なおまた、みことばの文字どおりの意味は内部に隠れている本物の真理のための保護(見張り番)であることを知らなくてはなりません。その意味があちらこちらに変えられることができ、把握にしたがって説明されることができることに対する保護(見張り番)であり、それでもそれによって、内的なものは傷つけられることと害されることができません――というのは、みことばの文字どおりの意味が、ある者により、他の者と異なって解釈されても、害されないからです。しかし内部に隠れている神的真理が曲解されるなら、そのことは害します。というのは、このことによって、みことばに暴力が加えられるからです。
このことが起こらないように、文字どおりの意味は保護します。また、宗教からの虚偽の中にいて、虚偽を確信しない者のもとで保護します。なぜなら、これらの者は何らかの暴力を加えないからです。
[2] この保護が「ケルビム」によって意味され、みことばの中のケルビムによって述べられています。
そのことが、アダムが妻とともにエデンの園から追い出された後、その入り口に置かれた「ケルビム」によって意味されています。このことについて、次のことが書かれています――

 神エホバが人間を見つけ出されたとき、「エデンの園の東からケルビムを住まわせられ、ここかしこに回転する剣の炎を、いのちの木の道を守るために〔置かれた〕」(創世記3・23, 24)。

ケルビム」によって保護が意味されます。「いのちの木の道」によって、主への入り口が意味され、それはみことばを通して人間にあります。「ここかしこに回転する剣の炎」によって、文字どおりの意味の中のみことばのような最終的なものの中の神的真理が意味され、それはこのように回転することができます。
[3] 類似のものが、幕屋の中の箱の上にあったあがないのふたの両端の上に置かれた「金のケルビム」(出エジプト記25・18―21)によって意味されます。このことが「ケルビム」によって意味されたので、それゆえ、主はそれらの間でモーセと話されました(出エジプト記25・22、37・9。民数記7・89)。
主は人間と完全なものの中でないなら、語られないこと、また文字どおりの意味の中のみことばは完全なものの中にあることは、前のものを見てください(37―49番)。そこで、このように主はモーセとケルビムの間で話されました。
幕屋の幕の上のケルビム、またそこの垂れ幕の上のケルビム(出エジプト記26・1、31)によって、他の何も意味されません。なぜなら、幕屋の幕と垂れ幕は天界と教会の最後のものを、そしてこのようにまた、みことばの最終的なものを表象したからです(前の46番を見てください)。エルサレムの神殿の真ん中のケルビム(列王記Ⅰ6・23―28)によっても、神殿の壁と扉の上に刻まれたケルビム(列王記Ⅰ6・29、32、35)によっても、同様に、新しい神殿の中のケルビム(エゼキエル41・18―20)によっても、他の何も意味されません、〔このこともまた〕前(47番)を見てください。
[4] みことばの内部にあるような、主・天界・神的真理に直接に近づかないで、しかし最終的なものによって間接的に近づくように、「ケルビム」によって保護が意味されたので、それゆえ、ツロの王についてこのように言われています――

 あなたは定められたものを封じており、知恵に満ち、美しさで完全〔である〕。エデンの園に……あなたはいた。すべての宝石はあなたのおおい。あなたはケルブ、おおいの広がり。……おおうものケルブよ、わたしはあなたを火の石の真ん中で破壊した(エゼキエル28・12―14、16)。

ツロ」によって真理と善の認識に関する教会が意味されます、またここから「その王」によって、そこにまたそこからそれらの認識がある、みことばが意味されます。ここのその王によって、文字どおりの意味であるその最終的なものの中のみことばが、また「ケルブ」によって保護が意味されることが明らかです。なぜなら、「あなたは定められたものを封じ……すべての宝石はあなたのおおい……あなたはケルブ、おおいの広がり」、「おおうものケルブよ」と言われているからです。そこにもまた名前を挙げられている「宝石」によって、みことばの文字どおりの意味の真理が意味されることは前のものを見てください(45番)。
「ケルビム」によって神的真理の最終的なものが意味されるので、それゆえ、ダビデの書で言われています、

(エホバは)天を押し曲げて降りて来られた。ケルブの上に乗られた(詩篇18・9、10)。
イスラエルの牧者、ケルビムの上に座る者よ、輝き出てください(詩篇80・1)。
エホバは……ケルビムに座られる(詩篇99・1)。

ケルブの上に乗ること」、「その上に座ること」、「それに座ること」は、みことばの最終的な意味の上に〔乗り、座ること〕です。
[5] みことばの中の神的真理は、またその性質は、「エゼキエル書」の最初の章、第九章、第十章の中のケルビムによって述べられています――しかし、記述されたそれらの個々のものによって何が意味されるか、霊的な意味が開かれた者でないなら、だれも知ることができないので、それゆえ、「エゼキエル書」の第一章の中で、ケルビムについて言われているそれらすべてのものによって、何が意味されるか、要約した形で私に明かされました。それらは次のものです――

みことばの外的な神的スフェアが述べられている(4節)。
その表象は人間のようである(5節)。
霊的なものと天的なもので結合された(6節)。
みことばの自然的なものが、どんなものであるか(7節)。
みことばの霊的なものと天的なものが、その自然的なものに結合した、その性質(8, 9節)。
区別され、一緒にされた、その中の天的な・霊的な・自然的な善と真理の神的愛(10, 11節)。
一つのものに向かって眺めること(12節)。
主の神的善と神的真理からのみことばのスフェア、それらからみことばは生きる(13, 14節)。
みことばの中の、またみことばからの、善と真理の教え(15―21節)。
その上の、またその中の、主の神性(22, 23節)。
またそれから(24, 25節)。
主は天界の上におられること(26節)。
また神的愛と神的知恵はその方のものであること(27, 28節)。

これらの概要もまた天界の中のみことばと比較され、それと一致しています。

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 97◀︎目次▶︎99

(11)主は、みことばのすべてを成就し、そのことによって最終的なものの中でも神的真理すなわちみことばとなるために世に来られた

98 みことばのすべてを成就するために主が世に来られたことは、『主についての教え』(8―11番)を見てください。
そのことによって最終的なものの中でも神的真理すなわちみことばとなることは、「ヨハネ福音書」の次のものによって意味されます――

 ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父からのひとり子としての栄光である。この方は恵みと真理に満ちておられた(1・14)。

肉となること」は、最終的なものの中で、みことばとなることです。
最終的なものの中でのみことばとしてどんなものであったかは、変容されたとき(マタイ17・2以降、マルコ9・2以降、ルカ9・28以降)弟子たちに示されました。そこに、モーセとエリヤが栄光のうちに見られた、と言われています。「モーセとエリヤ」によってみことばが意味されます(前の48番参照)。
 最終的なものの中でのみことばとしての主は、ヨハネの「黙示録」の中にも述べられています(1・13―16)。そこに主について記述されていることのすべては、神的真理すなわちみことばの最終的なものを意味します。
 実に、主は前から、みことばであられました、しかし最初のものの中でした。なぜなら、言われているからです、

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた(ヨハネ1・1―2)。

しかしみことばが肉となった時、主は最終的なものの中でもまた、みことばとなられました。
このことから、「最初と最後」と言われています(黙示録1・8, 11, 17, 2・8, 21・6, 22・12, 13)。

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98◀︎目次▶︎100

99 主が最終的なものの中でもまたみことばとなられたことによって、教会の状態はまったく変わりました。
その方の来臨の前にあったすべての教会は、表象的な教会でした。その教会は神的真理を陰の中でなくては見ることができませんでした――しかし、世に主が来臨された後、その方により設立された教会は神的真理を光の中で見ます。
夕と朝の間のような相違があり、その方の来臨の前の教会の状態は「夕」と呼ばれ、その方の来臨の後の教会の状態は「朝」と呼ばれます。
世に来臨される前の主は、確かに、教会の人間のもとに現在されました、しかし天界を通して間接的にでした。しかし、世に来臨された後、主は教会の人間のもとに直接に現在されます。なぜなら、世で自然的な神性もまとわれ、その中で人間のもとに現在されるからです。
主の栄化は主の人間性の栄化であり、それを世でおびられました。そして、栄化された主の人間性は自然的な神性です。

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99◀︎目次▶︎101

100 どのように主がみことばであられるか、理解している者はわずかです。というのは、主は確かにみことばによって人間を照らし、教えることができますが、それでも「ここから、みことばと呼ばれることはできない」と考えるからです。
しかし、それぞれの人間は自分自身の愛であり、ここから自分自身の善と自分自身の真理であることを知らなければなりません。人間は〔善と真理以外の〕別の源泉から人間ではありません、それらが彼のもとで何らかのものとなっていないなら人間ではありません。
人間は、自分自身が善と真理であることから人間であり、天使と霊たちも人間です。なぜなら、主から発出するすべての善と真理は、その形では人間であるからです――けれども、主は神的善と神的真理そのものであられます。したがって「人」そのものであられ、その「人」から、すべての人間は人間です。
すべての神的善と神的真理が、その形では「人間」であることは、著作『天界と地獄』(460番)を見てください。また、『天使の知恵』についての今後の論文の中で、明らかにされるでしょう。

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100◀︎目次▶︎102

(12)今日、世にあるみことばよりも前に、失われたみことばがあった

101 モーセと預言者たちによってイスラエル国民のもとに与えられたみことばよりも前に、いけにえによる礼拝がよく知られていたこと、またエホバの口から預言したことは、モーセの書物の中で記されたものから明らかにすることができます。
いけにえによる礼拝がよく知られていたことは、これらから――

 イスラエルの子たちは、異教徒の祭壇をひっくり返し、彼らの柱を粉砕し、彼らの杜(アシェラ)を切り倒すよう命じられた(出エジプト記34・13。申命記7・5, 12・3)。
 イスラエルはシティムでモアブの娘たちと淫行し始めた。〔彼らは〕民を自分たちの神々のいけにえへ招いた。民は食べ、彼らの神々にお辞儀し、特にバアル・ペオルに結び付いた。主の怒りはさらにイスラエルに対して燃え立った(民数記25・1―3)。
 なおまた、シリアからの者であったバラムは、祭壇を築くことを行ない、牛と羊をいけにえとしてささげた(民数記22・40, 23・1, 2, 14, 29, 30)。

[2] エホバの口からもまた預言したことは、バラムの預言から明らかです(民数記23・7―10, 18―24, 24・3―9, 16―24)。

主についてもまた、ヤコブから星が出て、杖がイスラエルから起こることを預言した(民数記24・17)。
エホバの口から預言した(民数記22・13、18、23・3、5、8、16、26、24・1、13)。

これらから、モーセによってイスラエル国民のもとに制定された礼拝と似た神的礼拝が異教徒のもとにあったことが明らかです。
[3] アブラムの時代の前にもあったことは、モーセのことばからいくぶん見えてきます(申命記32・7, 8)。しかしサレムの王メルキゼデクから明らかです、

 パンとぶどう酒を持ってきて、アブラムを祝福した。アブラムは彼にすべてのものについて十分の一を与えた(創世記14・18―20)―― メルキゼデクは主を表象しました、なぜなら、最高の神の祭司(創世記14・18)と言われているからです。

また主についてダビデに言われています、

あなたは、メルキゼデクの様式にしたがって永遠に祭司である(詩篇110・4)。

ここから、メルキゼデクは、聖餐の中の聖なるもののように、教会の聖なるものとして、パンとぶどう酒を持ってきました。メルキゼデクがアブラムを祝福することができ、アブラムは彼にすべてのものについて十分の一を与えました。

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101◀︎目次▶︎103

102 古代人のもとに対応そのものによって書かれたみことばがあったけれども、失われたことが、私に天界の天使から語られました。また、そのみことばは今なお彼らのもとで保存され、彼らの天界の古代人のもとで用いられている、と言われました。その天界は、世ではそのとき、そのみことばがそこにありました。
天界の中で、そのみことばを今なお用いている古代人は、一部はカナンの地から、またその国境地域からの者です。例えば、シリア・メソポタミア・アラビア・カルデア〔アッシリア南部、現在のイラク〕・アッシリア・エジプト・シドン・ツロとニネベからです。それらすべての王国の住民は表象的な礼拝の中に、またここから対応の知識の中にいました。
その時代の知恵はその知識からであり、それによって彼らに内的な知覚があり、天界との伝達がありました。
そのみことばの対応するものを内的に知る者は、賢者や知者と呼ばれました、しかしその後、占者や魔術師と呼ばれました。
[2]しかしそのみことばは、天的なものと霊的なものを遠まわしに意味したような対応に満ちていたので、ここから多くの者により虚偽化されることが始まりました。それゆえ、主の神的摂理から、それは時の経過とともに消え、ついに失われました。またそれほど遠まわしでない対応によって書かれた他のみことばが、預言者によってイスラエル民族のもとに与えられました。
それでも、このみことばの中に、カナンの地そしてアジアの周囲にある多くの場所の名前は保たれ、古代のみことばの中にあるのと同じようなものが意味されました。
この理由のために、アブラムはその地へ行くことを命じられ、ヤコブからの子孫はそこへ導かれました。

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102◀︎目次▶︎104

103 古代人のもとにみことばがあったことは、モーセの書にもまた明らかであり、モーセにより名前が挙げられ、引用されています(民数記21・14, 15, 27―30)。そのみことばのうち歴史として書かれたものは『エホバの戦い』、そして預言は『宣言』と呼ばれました。
そのみことばのうち歴史として書かれたものから、モーセにより次のものが引用されています――

 「エホバの戦いの書」の中の預言に言われている――スパのワヘブ、アルノンの流れ。流れの水道は、アルが住むところまで傾き、モアブの境界で止まる(民数記21・14, 15)。

そのみことばの中の「エホバの戦い」によって、私たちのものの中のように、主が世にやって来られた時の地獄と闘争とその勝利が意味され、述べられています――さらにまた、私たちのみことばのうち歴史として書かれたものの中にある、カナンの地の国民とのヨシュアの戦い、またイスラエルの士師や王の戦いのような、多くの同じ闘争が意味され、述べられています。
[2] そのみことばの預言から、次のものがモーセにより引用されています――

 このために、宣言に言われている。あなたがたはヘシュボンに入れ。シホンの都は建てられ、強くされる。なぜなら、ヘシュボンから火が、炎がシホンの都から出たから。モアブのアルを、アルノンの高所の所有者を食い尽した。おまえはわざわいだ、モアブよ。おまえは滅んだ、ケモシの民よ。自分の息子らを逃れた者として、また自分の娘らを捕虜として、エモリ人の王シホンに明け渡した。矢をもってわれわれは彼を滅ぼした。ヘシュボンからディボンまで滅びた。われわれはノファフまでも荒した、それはメデバまでも(民数記21・27―30)

翻訳者たちは、ことわざの作者と変えています。しかし宣言者または預言の宣言と呼ばれなくてはなりません。へブル語のムシャリームの語の意味から明らかにすることができるように、それはことわざだけでなく預言の宣言でもあります。そこには(「民数記」23・7, 18, 24・3, 15のように)、バラムは自分の宣言を声に出した、と言われており、それは預言であり、さらにまた主についての預言でした。その宣言はそこでは単数でムシャールと呼ばれています――モーセによりそこから引用されたものは、ことわざではなく、預言であるという事実があります。
そのみことばが同様に神的なものすなわち神からの霊感であったことは、「エレミヤ書」に明らかであり、そこにはほとんど似た言葉があります――

 火がヘシュボンから、炎がシホンの内から出た。それはモアブの隅を、ざわめきの息子らの頭のてっぺんを食い尽した。おまえはわざわいだ、モアブよ。ケモシの民は滅んだ。なぜなら、おまえの息子らは捕虜になって奪われ、おまえの娘らは捕虜になったから(エレミヤ48・45, 46)。

それらのほかに、古代のみことばの預言の書もまた、「ヤシャルの書」、すなわち「正しい者の書」と呼ばれて、ダビデとヨシュアにより名前を挙げられています。
ダビデにより――

 ダビデは、サウルのために……ヨナタンのために嘆いた……。ユダの子らに弓を教えるために書きつけた。見よ、「ヤシャルの書」に書かれたものを(サムエル記Ⅱ1・17, 18)。

またヨシュアにより――

 ヨシュアは言った、「太陽はギベオンの中で、また月はアヤロンの谷の中で止まれ。このことは「ヤシャルの書」に書かれていないか?」(ヨシュア記10・12, 13)。

ほかに、「創世記」の最初の七章が、その古代のみことばの中にひとことも欠けていないように現われている、と私に言われました。

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103◀︎目次▶︎105

(13)みことばによって、教会の外にいて、みことばを持っていない者にも光がある

104 地球上のどこかにみことばがあり、それによって主が知られる教会が存在しないなら、天界との結合は存在することができません。主は天と地の神であられ、主なしに救いはないからです。
みことばのある教会があれば、たとえそれが比較的少数の者から成り立っていても十分です――それでも、それによって主は地球全体の中のどこにも現在されます、なぜなら、それによって天界は人類に結合されるからです。みことばによって結合があることは、前のもの(62―69番)を見てください。

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104◀︎目次▶︎106

105 けれども、みことばによって、すべての地上にどのように〔主の〕現在や主と天界の結合が存在するか述べます。
天界全体は主の前にひとりの人間のようであり、教会も同様です。また、人間として実際に見られることは、著作『天界と地獄』を見てください(59―86番)。
みことばが読まれ、それによって主が知られる教会は、その人間の中で、心臓と肺のようです。天的な王国は心臓、霊的な王国は肺のようです。
[2] 人間の身体の中の二つのいのちの泉から、すべての残りの四肢や内臓が存続し、生きるように、このようにまた地球上のその者のもとに宗教があり、ひとりの神を礼拝し、善く生き、そのことよって、心臓と肺がある胸部の外の四肢と内臓に対応する人間の中にいるすべての者は、主と天界がみことばを通して教会と結合していることから、存続し、生きます。
なぜなら、教会の中のみことばが、たとえ比較的少数の者のもとにしか存在しないにしても、全身の四肢と内臓に心臓と肺から、いのちがあるように、主により天界を通して残りの者に、いのちがあるからです。伝達もまた同様に存在します。
さらにまたそれが、みことばを読むキリスト教徒が、その人間の胸を構成している理由です――さらにまたすべての者の真ん中にいて、その周囲にローマカトリック教徒がいます、この周囲に主を最大の預言者として、そして神の子として認めるイスラム教徒がいます。けれども、これらに続いて、アフリカ人がいます。そして周辺の最外部はアジアとインドの国民と民族が構成します――それらの配置については小著『最後の審判』(48番)を見てください。
さらにまた、その人間の中にいるすべての者は、キリスト教徒がいる中央に向かって眺めています。

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105◀︎目次▶︎107

106 最大の光は中央にあり、そこにみことばをもつキリスト教徒がいます。というのは、天界の光は、そこの太陽としての主から発出する神的真理であるから。また、みことばはその真理であるので、みことばをもつ彼らがいるところに最大の光があります。
光は、ここからその中心からのように、まわりに、最後のものまですべての周辺に広がります。ここから教会の外の国民と人民にもまた、みことばによって照らしがあります。
天界の中の光が主から発出する神的真理であること、またその光が知性を天使たちだけでなく、人間にも与えることは、著作『天界と地獄』を見てください(126―140番)。

 

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106◀︎目次▶︎108

107 天界全体でこのようであることは、そこのそれぞれの社会の中の類似のものから結論することができます。なぜなら、天界のそれぞれの社会は小さい形の天界であり、人間のようでもあるからです――このようであることは、著作『天界と地獄』を見てください(41―87番)。
天界のすべての社会の中で、その真ん中にいる者は、同様に心臓と肺と対応します。彼らのもとに最大の光があります。
光そのものは、ここから真理の知覚は、その真ん中から周辺に向けて、あらゆる方向へ、したがって社会の中にいるすべての者へ広まり、彼らの霊的ないのち(生活)をつくります。
真ん中にいて、心臓と肺の領域を構成し、その者のもとに最大の光があったその彼らが取り去られた時、周囲にいた者は、陰の中にて、またその時、何らかの知覚の中にほとんどいないようにも、かすかな真理の知覚の中にいたことが示されました。しかし〔取り去られた者が〕戻るとすぐに、光が見られ、以前のように彼らに真理の知覚が生じました。

 

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107◀︎目次▶︎109

108 さらにまた同じことが次の経験から説明されることができます。
私のもとにエティオピアからのアフリカ人がいました。
かつて、この世のある教会で、ダビデの詩篇からの歌を聞くために、彼らの耳が開かれました。そこから歓喜して彼らと一緒に歌うかのように感動しました。
しかし間もなく耳が閉ざされ、何も聞かないようになりました。それでも、その時、霊的なものであったので、依然として大いに歓喜して感動していました。同時に、その詩篇は主について、あがないについて扱ったものであったので、知性に満たされました――歓喜が増大した理由は、世でその詩篇を歌っていた者たちに結合していた天界の中の社会と彼らの社会との伝達が与えられたからです。
この経験、また他の多くの経験から、天界全体との伝達がみことばによって存在することが明らかです。
その理由のために、主の神的摂理から、ヨーロッパの国々、特にそこにみことばが読まれる国々と教会の外の異教徒との広く行なわれる交流(交易)があります。

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108◀︎目次▶︎110

109 世の太陽からの熱や光と比較することができます、木や灌木は隠れていて雲の下にあっても、太陽が出て、世に現われさえすれば、それらに生長をもたらします。
太陽としての主からの天界の光と熱はこのようであり、その光は神的真理であって、それからすべての知性と知恵が天使と人間にあります。
それゆえ、みことばについて言われています、

 神のもとにあった、神であった。それは世に来てすべての人間を照らす(ヨハネ1・1, 9)――その光は暗やみの中に現われている(第5節)。

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109◀︎目次▶︎111

110 これらから、改革派の教会の中にあるみことばは、霊的な伝達によってすべての国民と人民を照らすこと――なおまた、主により、地上に常に教会があって、そこでみことばが読まれ、そのことによって主が知られるように、配慮されていることを明らかにすることができます。
それゆえ、みことばがローマカトリック教徒によりほとんど退けられたとき、主の神的摂理から宗教改革が起こり、ここからみことばが再び受け入れられました――そしてまた、ローマカトリック教徒の間のすぐれた人々により、みことばの神聖さが保たれました。

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110◀︎目次▶︎112

111 みことばがなくては、主についての知識はなく、したがって救いはなく、それゆえ、みことばがユダヤ国民のもとで完全に虚偽化され、不純化され、ここからいわば無とされた時、主が天界から下り、世にやって来て、みことばを成就し、そのことによってそれを復旧し、回復し、そして再び地球の住民に光を与えることがその方の喜びでした――主のことばにしたがえば、

 暗やみの中に座っている民は大きな光を見た。……死の地方と陰に座っている者たちに光が上った(マタイ4・16。イザヤ9・2)。

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111◀︎目次▶︎113

112 この教会の終わりにもまた、主が天と地の神であられるという主についての認識と承認がなく、仁愛からの信仰の分離から、暗やみが生じることが予言されているので、そのことから、みことばの真の理解が滅びないように、それゆえ、今や、みことばの霊的な意味を啓示すること、みことばはその意味の中で、そこから自然的な意味の中で、主と教会について、それどころか、それらだけについて扱っていることを、また他の多くのことを明らかにすることが主の喜びでした。それらによって、ほとんど消されたみことばからの真理の光がもとに戻されました。
真理の光は、この教会の終わりにほとんど消えるであろうことは「黙示録」の中の多くの箇所の中に予言されています。そしてまた、「マタイ福音書」に、次の主のことばによって意味されています――

 その日の苦難の後すぐに、太陽は暗くされ、月はその光を与えず、星は天から落ち、天の力はゆり動かされます。その時……人の子が栄光と力をもって天の雲の中に来るのを見ます(マタイ24・29, 30)。

そこの「太陽」によって愛に関する主が意味され、「」によって信仰に関する主、「」によって善と真理の認識に関する主、「人の子」によってみことばに関する主、「」によってみことばの文字どおりの意味、「栄光」によって霊的な意味、そして文字どおりの意味の中へその輝き貫くことが意味されています。

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112◀︎目次▶︎114

113 多くの経験を通して、私に、「みことばによって人間に天界との伝達がある」と知ることが与えられました。
私がみことばを「イザヤ書」の第一章から「マラキ書」の終わりまで、またダビデの「詩篇」を読み通した時、「それぞれの節が天界のある社会と、またみことば全部が天界全体と伝達している」と明らかに知覚することが与えられました。

 

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113◀︎目次▶︎115

(14)みことばがないなら、だれも、神・天界と地獄・死後の生活を、まして主を知らない

114 このことは、今まで言われ、示されたすべてのものから、全般的な結論としていえます。
例えば――
みことばは神的真理そのものである(1―4番)。
みことばは天界の天使との結合の手段である(62―69番)。
みことばのどこでも主と教会の結婚があり、ここから善と真理の結婚がある(80―89番)。
教会からの、みことばの理解がどのようであるかによって、教会はそのようなものである(76―79番)。
みことばは天界の中にもあり、そのみことばから天使たちに知恵がある(70―75番)。
みことばによって教会の外の国民や人民にもまた霊的な光がある(104―113番)。
その他、多くのことです。
それらから、みことばなしに、ある者に、神・天界と地獄・死後の生活を知るという霊的な知性はなく、主について、その方への信仰と愛について、このようにあがないについて何らかのものを、それでもそのことによって救いがあるのに、〔それらについて〕まったく何も知らない、と結論することができます。
主もまた弟子たちに言われました、

 わたしなしに、あなたがたは何も行なうことができません(ヨハネ15・5)。

また、ヨハネは、

 人は、天から与えられるのでないなら、何も得ることはできません(ヨハネ3・27)。

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114◀︎目次▶︎116

115 しかし人間には、「みことばなしで、神の存在を、そしてまた天界と地獄を、なおまたみことばが教える他の何らかのものについて知ることができる」と思い、自分のもとで確信した者がいて、彼らはそのことによって、みことばの権威と神聖さを、口でないならそれでも心で弱めるので、それゆえ、彼らとみことばから論じることは許されません、しかし理性の光(ルーメン)から論じることは許されています。なぜなら、みことばを信じないで、自分自身を信じるからです。
理性の光から探求しなさい、するとあなたに、理解力と意志と呼ばれる、いのちの二つの能力が人間のもとにあること、また理解力は意志に服従していても、意志は理解力に服従していないことがわかります。というのは、理解力はただ道を教え、示すだけであるからです。
さらにまた探求しなさい、するとあなたに、人間の意志は彼のプロプリウム(固有のもの)であり、これは本質的に見られたときまったく悪であること、ここから理解力の中に虚偽があることがわかります。
[2] これらがあなたにわかるとき、あなたは、人間が他のところから存在し、そこからそれを知るのでないなら、彼の意志のプロプリウムからのものであるもの以外に、自分自身から何らかのものを理解することを欲しないこと、またできもしないことを知ります。
人間は自分の意志のプロプリウムから、自分のものと世のものであるもの以外に何らかのものを理解することを欲しません。何であれ〔これを超えて〕上にあるものは、彼に〔とって〕暗黒の中にあります――例えば、太陽・月・星を見る時、それらの起源について考えるとするなら、それらはそれ自体から存在するとしか考えることができないのではありませんか?
みことばから、すべてのものの創造は神からであると知っているとはいえ、それでも、自然を認める世の多くの博学な者よりも、より高く考えることができますか?
みことばから知るのでなかったなら、その時、その者は何を考えることができたでしょうか?
あなたは、神について、また霊魂の不死について書いた古代の賢人、アリストテレス・キケロ・セネカまた他の者が、そのことを最初に自己のものから取り出した、と信じるのですか?
そうではありません、その者は、そのことを最初に古代のみことばから知った他の者から接ぎ木することによって取り出したのです。
自然神学の著者も自分自身からは何もこのようなものを取り入れていません。みことばのある教会で知られているそれらのことを推論によって単に論証しているだけです。彼らの間に論証する者がいるでしょうか、それでも信じていません。

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115◀︎目次▶︎117

116 マレー諸島生まれの人々を見ることが与えられました。その者は、市民的なこと関して理性的でしたが、神について少しも知りませんでした。
彼らは霊界の中でサルのように見え、そして彼らの生活もほとんど〔サルに〕似ていました。
しかし、人間として生まれ、霊的ないのちを受け入れる能力の中にいるので、天使により教えられ、主についての知識を通して人間として生かされました。
人間は、それ自体からはどんなものであるか、地獄の中にいる者から明らかに見られます。彼らの間にも、ある高位聖職者と博学な者がいて、その者は神について聞くことさえ欲せず、このために、神の名前を言うこともできません。私はこの者を見、彼らと話しました――そしてまた、ある者が神について話すのを聞くとき、怒りと憤りの火の中にやって来る者と話しました。
[2] そこで、神について何も聞かなかった人間がどのような者になったか熟考してみなさい。その時、神について聞き、神について書き、神について説教した者もこのようでした。このような者の多くは、イエズス会士からです。
このような者であることは、意志からであり、それは悪です。意志は、以前に言われたように、理解力を導き、みことばからそこにある真理を取り去ります。
人間が自分自身から神が存在することを、また死後の生活を知ることができたなら、なぜ、人間が死後も人間であることを知らなかったのですか?
なぜ、人間の霊魂または霊は、その死体と骸骨と結合し、合体しないうちは、目で見ず、耳で聞かず、口で話さない息またはエーテルのようなものである、と信じるのですか?
[3] そこで、理性の光だけから考え出された礼拝のための教えを規定してみなさい。その礼拝は自分自身を礼拝するようなものになりませんか?何世紀も前から、また今日も、そのようになっていて、そのことは、みことばから神だけが礼拝されなくてはならないことを知っている者から生じています。
人間のプロプリウムからでは、他の礼拝は、太陽と月の礼拝でさえ、存在することができません。

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116◀︎目次▶︎118

117 宗教は最古代の時代からあり、世界のどこでも、そこの住民は神について、死後の生活について何らかのものを自分自身からではなく、古代のみことばから(そのことについては前の101―103番)、またその後、イスラエルのみことばから知っていました。
これらから、宗教的な事柄がインドとそれらの島々に、エジプトとエティオピアを通してアフリカの国々に、アジアの海岸の国々からギリシアに、ここからイタリアに広がりました。
しかしみことばは、世の中にあって、天界のものに対応し、ここからそれらを意味する表象するものによってしか書かれることができなかったので、それゆえ、多くの国民の宗教的な事柄は偶像崇拝に、ギリシアでは神話に変わりました。そして、神の特質と属性は同数の神々に変わり、それらの神々の上に最高の神を置いて、それをおそらくエホバから〔古代ローマでは〕ユーピテルと呼びました。
楽園・洪水・聖なる火について、最初の金から最後の鉄までの四つの時期について、みことばの中のそれらによって教会の四つの状態が意味されます(例えば、ダニエル書2・31―35)。彼らに、それらの認識があったことが知られています。
その後に続き、以前の多くの国民の宗教を滅ぼしたイスラム教も、〔新旧〕両方の契約の聖書から宗教的な事柄を引き出したことが知られています。

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117◀︎目次

118 最後に、すべてのものを自己の知性に帰し、みことばに、もしあったとしてもわずかなものを帰した者が、死後、どのようになるか言っておきます。
最初に、酔いどれのように、その後、愚かな者のように、最後に大ばか者となり、暗やみに座ります。
それで、このような狂信を警戒しなさい。