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聖書について92

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92 真理の衣服である真理の外観が、みことばからのありのまま(裸)の真理の代わりに把握されることができ、それが確信される時、虚偽となることは、〔これまで〕キリスト教界の中にあり、また今でもあるような多くの異端から明らかにすることができます。
異端そのものは人間を地獄へ落としません、しかし悪の生活が地獄へ落とします。なおまた異端の中にある虚偽を、みことばから、また自然的な人からの推論によって確信することは、地獄へ落とします。
というのは、だれもが自分の両親の宗教の中に生まれていて、幼児期からその中に導かれ、その後、それを保持し、世の仕事のために、その虚偽から自分自身そのものを連れ出すことができないからです――しかし悪く生きること、本物の真理の破壊にまでも虚偽を確信すること、このことが地獄へ落とします。
なぜなら、自分の宗教の中にとどまり、神を信じ、そしてキリスト教界の中で主を信じ、みことばを聖なるものと見なし、宗教からの十戒の戒めにしたがって生きる者は、虚偽に誓いを立てないからです。それゆえ、真理を聞き、自分なりにそれを受け入れる時、それを抱き、このように虚偽から連れ出されることがことができます――けれども自分の宗教の虚偽を確信した者はできません、なぜなら、確信された虚偽はとどまり、根絶されることができないからです。というのは、確信した後の虚偽は、だれかがその虚偽に誓いを立てるようなもの、もし自己固有の愛に、ここから知恵の高慢に結合しているなら、特にそのようなものであるからです。