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聖書について91

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(10)異端は、みことばの文字どおりの意味からつくり上げることができる、しかしそれらを確信することは有害である

91 みことばは教えなしに理解されることができないこと、教えは本物の真理を見るためのランプのようであることは前に示しました。このことの理由は、みことばが対応そのものによって書かれているからです。
ここから、そこの多くのものは真理の外観であり、ありのままの真理ではありません。多くのものが、自然的な人に、それどころか感覚的な人に把握されるために書かれました、しかしそれでも、それは単純な者には単純に、知的な者には知的に、そして賢い者には賢明に理解されることができるように書かれました。
そこで、みことばはこのようなものであるので、真理の衣服である真理の外観は、ありのまま(裸)の真理として把握されることができます。その外観が確信される時、虚偽になります。
しかしこのことは他の者よりも自分のほうが賢明であると信じる者により生じます、そのときそれでも賢明ではありません。なぜなら、賢明であることは確信する前に真理であるかどうかを見ることであり、好むものならどんなものでも確信することではないからです。〔好むものを〕確認する性質を賦与されている者、また自己知性を誇る者がこのことを行ないます。けれども、そのこと〔確信する前に真理であるかどうかを見ること〕は、真理であるからと真理を愛し、真理に情愛を感じ、それらを生活に役立てる者が行ないます。というのは、前者は自分自身から照らされ、それらの光から虚偽を見ます、しかし、後者は主から照らされ、そしてそれらの光から真理を見るからです。