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聖書について15

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15 霊的な意味なしに旧約聖書のみことばの預言の多くの箇所は理解されないことが知られるために、ほんのいくつかだけを示します。
例えば、「イザヤ書」の次のものです、

その時、エホバはオレブの岩でミデアンを打ったように、アッシリヤに対してむちを振り上げる。その杖を海の上に、エジプトの道の中で持ち上げる。その日になると、彼の重荷はあなたの肩の上から、くびきはあなたの首から去る。彼はアヤテにやって来て、ミグロンを通り過ぎ、ミクマスに対して自分の腕を与える。メバラを通り過ぎ、ギベアは私たちの宿泊所となり、ラマは身震いし、サウルのギブアは逃げる。ガリムの娘よ、声をあげて泣きわめけ。ラユシャよ、聞け。哀れなアナトテ。マデメナはさまよう。ゲビムの住民は集まる。今後の日々、ノブの中に存続するのか?シオンの娘の山、エルサレムの丘は、自分の手を動かす。……エホバは森の茂みを鉄器で切り落とし、レバノンは壮大なものによって倒れる(10・24―34)。

ここには名前だけが出てきて、それらからは霊的な意味の助けがなければ、そのみことばの中のすべての名前が意味している天界と教会の事柄を何も汲み取ることができません。その意味から、すべての真理を歪曲することと虚偽を確認する記憶知によって、教会全体が破壊されたことが推理されます。
[2] 同じ預言書の他のところに――

その日……エフライムのねたみは去り、ユダの敵は断ち切られる。エフライムはユダをねたまず、ユダはエフライムを苦しめない。しかし彼らは、海の方、ぺリシテ人の肩に飛びかかり、一緒に東の息子から略奪する。エドムとモアブに彼らは手を伸ばす……。エホバはエジプトの海の舌に対して呪い、ご自分の霊の激しさをもって、ご自分の手を川の上に揺り動かし、それを七つの流れの中に、くつで〔踏んで〕道をつくるように打たれる。その時、ご自分の民の残りの者に、アッシリヤからの残された街道がある(11・13―16)。

ここもまた、個々の名前によってそこに何が意味されているか知らないなら、だれも、何らかの神的なものを見ません。そのときそれでも、そこの1節から10節までに、はっきりと明らかであるように、そこに主の来臨について、またその時に何が起こるか扱われています。
そこで、霊的な意味の助けがなくて、それらによって、無知からの虚偽の中にいて、悪により惑わされることを許さなかった者たちが主へ近づくこと、その時、教会はみことばを理解し、またその時、彼らはもはや虚偽により害されないことが順序正しく意味されていることを、だれが見るようになるでしょうか?
[3] 名前がない箇所も同様です。例えば「エゼキエル書」に――

このように主エホビは言われた。人の子よ、すべての翼の鳥に、野のすべての獣に言え。あなたがたは集まり、来たれ。あなたがたは、まわりから、わたしのいけにえに集まれ。イスラエルの山の上の大いなるいけにえ、それをわたしはあなたがたにいけにえとする。あなたがたが肉を食べ、血を飲まなくてはならないためである。あなたがたは力ある者の肉を食べ、地の君主たちの血を飲まなくてはならない。……わたしがあなたがたにいけにえとするわたしのいけにえから、あなたがたは脂肪を飽きるまでも食べ、血を酔うまでも飲まなくてはならない。あなたがたはわたしの食卓の上で、馬と戦車で、力ある者で、すべての戦士〔の肉〕で食べ飽きなければならない。……このようにして、わたしはわたしの栄光を国民の間に与える(39・17―21)。

霊的な意味から、「いけにえ」によって何が意味されるか、「」と「」によって何が、また「」、「戦車」、「力ある者」また「戦士」によって何が意味されるか知らない者は、このようなものを食べ、飲まなくてはならないことしかわからないでしょう。しかし霊的な意味によって、主エホビがイスラエルの山の上で与えたいけにえから「肉を食べ、血を飲むこと」によって、みことばからの神的善と神的真理を自分ものとすることが意味されることを教えられます――というのは、そこにはすべての者を主の王国へ招くことについて、また特に、主により国民のもとに教会が設立されることについて扱われているからです。
そこの「血を酔うまでも飲む」こと、また「馬、戦車、力ある者、すべての戦士に食べ飽きる」ことのように、「」によって肉でなく、「」によって血でないものが意味されていることを、だれが見ることができないでしょうか?
預言書の他の何千もの箇所でも同様です。