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聖書について105

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105 けれども、みことばによって、すべての地上にどのように〔主の〕現在や主と天界の結合が存在するか述べます。
天界全体は主の前にひとりの人間のようであり、教会も同様です。また、人間として実際に見られることは、著作『天界と地獄』を見てください(59―86番)。
みことばが読まれ、それによって主が知られる教会は、その人間の中で、心臓と肺のようです。天的な王国は心臓、霊的な王国は肺のようです。
[2] 人間の身体の中の二つのいのちの泉から、すべての残りの四肢や内臓が存続し、生きるように、このようにまた地球上のその者のもとに宗教があり、ひとりの神を礼拝し、善く生き、そのことよって、心臓と肺がある胸部の外の四肢と内臓に対応する人間の中にいるすべての者は、主と天界がみことばを通して教会と結合していることから、存続し、生きます。
なぜなら、教会の中のみことばが、たとえ比較的少数の者のもとにしか存在しないにしても、全身の四肢と内臓に心臓と肺から、いのちがあるように、主により天界を通して残りの者に、いのちがあるからです。伝達もまた同様に存在します。
さらにまたそれが、みことばを読むキリスト教徒が、その人間の胸を構成している理由です――さらにまたすべての者の真ん中にいて、その周囲にローマカトリック教徒がいます、この周囲に主を最大の預言者として、そして神の子として認めるイスラム教徒がいます。けれども、これらに続いて、アフリカ人がいます。そして周辺の最外部はアジアとインドの国民と民族が構成します――それらの配置については小著『最後の審判』(48番)を見てください。
さらにまた、その人間の中にいるすべての者は、キリスト教徒がいる中央に向かって眺めています。