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聖書について17

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17 主は世におられたとき、対応によって、したがって自然的にとともに霊的に話されたことは、個々のことばの中に霊的な意味が内在するその方のたとえから明らかにすることができます。
その例として、十人の娘のたとえで言われています、
天の王国は、自分のともしびを取って、花婿を出迎えに出た十人の娘たちに似ています。

彼女たちの五人は賢かった、けれども五人は愚かであった。愚かであった者は、自分のともしびを取って、油を受けなかった、けれども賢い者は自分のともしびの中に油を受けた。けれども花婿が遅れて、すべての者がうとうととし、眠り込んだ。けれども、真夜中に、叫び声が起った。「見よ、花婿が来る、彼を出迎えに行け」。その時、そのすべての娘たちが目を覚まし、自分のともしびを整えた。けれども、愚かな者は賢明な者に言った。「私たちにあなたがたの油をください、私たちのともしびは消えてしまいます」。けれども、賢明な者は答えて、言った。「ことによると私たちにまたあなたがたに十分でないかもしれません。むしろ、売る者のところに出かけ、あなた自身で買いなさい」。しかし、彼女たちが買いに出かけているとき、花婿が来て、用意のできた者はその方とともに婚礼へ入り、入り口は閉ざされた。また最後に、残りの娘たちがやって来て、言った、「主よ、主よ、私たちに開けてください」。けれども彼は答えて、言った。「まことに私はあなたがたに言う。私はあなたがたを知らない」(マタイ25・1―12)。

[2] 霊的な意味があり、それがどんなものかを知る者でないなら、これらの個々のものの中に霊的な意味があり、ここから神的な聖なるものがあることを見ません。
霊的な意味で、「神の王国」によって天界と教会が、「花婿」によって主が、「婚礼」によって愛と信仰の善によって天界と教会との主の結合が意味されます。「娘たち」によって教会の者が、「十人」によってそのすべての者が、「五人」によってそのうちのある者が、「ともしび」によって信仰の真理が、「」によって愛の善が、「眠ること」と「目覚めること」によって世の中の人間の自然的な生活と死後の霊的な生活が意味され、「買うこと」によって自分自身に得ることが、「売る者のところに行くことと油を買うこと」によって、死後、他の者から自分自身に愛の善を得ることが意味されます。その時、もはや得られないので、それゆえ、たとえ油を買って、ともしびとともに、婚礼のある入り口へ来たとはいえ、それでも彼女たちに花婿から、「私はあなたがたを知らない」と言われたのです――その理由は、人間は世での生活の後、世で生きたようにとどまることです。
[3] これらから、主は対応そのものによって話されたこと、また神的なものがその方の中にあり、その方のものであったので、神的なものから話されたことが明らかです。
花婿」は主を、「天の王国」は教会を意味し、また「婚礼」は愛と信仰の善による教会との主の結合を意味し、「」は教会の者、「十人」はそのすべての者、「五人」はそのうちのある者、「眠ること」は自然的な状態、「買うこと」は自分自身に得ること、「入り口」は天界へ入ること、そして「知らないこと」は、主から言われるとき、その方の愛の中にいないことを、同様なことを意味する預言者のみことばの中の多くの箇所から明らかにすることができます。
娘(処女)」が教会に属す者を意味するので、それゆえ、これほどにもしばしば預言者のみことばの中に、シオン・エルサレム・イスラエルの娘と処女とが言われています。また「」は愛の善を意味したので、それゆえ、イスラエル教会のすべての聖なるものは油を注がれました。
主が話され、また「福音書」に書かれた他のたとえの中で、またすべてのことばの中でも同様です。ここから、主はそのことを言われています、

わたしのことばは霊であり、またいのちです(ヨハネ6・63)。

[4] 主のすべての奇跡も同様です。それらは、主により設立されるべきものであった教会の者のもとのいろいろな状態を意味したので、神的です――例えば、「盲(めしい)が視力を受ける」ことは、真理への無知の中にいた者が知性を得ることを意味しました。「耳しいが聴力を受ける」ことは、主とみことばについて以前に何も聞かなかった者が聞き、従うことを意味しました。「死んだ者が生き返った」ことは、そうでなければ霊的に滅んだであろう者が生きるようになったことを意味します。等々。
このことが、主が「やって来るべき者」であるかどうかたずねられて、ヨハネの弟子たちに答えたことよって意味されます――

あなたがたが聞き、見ていることをヨハネに報告しなさい。盲(めしい)が見、足なえが歩き、らい病人が清められ、耳しいが聞き、死者が生き返り、貧しい者が福音を聞いています(マタイ11・3―5)。

さらに、みことばの中に記されたすべての奇跡が、それ自体の中に主のもの・天界のもの・教会のものであるようなものを含みます。そのことによって、それらは神的な奇跡であり、神的でない奇跡から区別されます。
これらは、霊的な意味とは何か、また、それがみことばのすべてと個々のものの中にあることのわずかな実例です。