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聖書について18

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18 (3) みことばが神的な霊感を与えられ、すべての言葉の中に聖なるものがあるのは霊的な意味からである――

教会の中では、みことばは聖なるものであると言われています、しかし、このことは神エホバがそれを言われたからです。それでもその聖なるものは文字だけからでは見られないので、それゆえ、そのためにその聖なるものについてひとたび疑った者は、その後、みことばを読むとき、そこの多くのものによって〔その疑いを〕確信します。というのは、その時、「これは聖なるものなのか?これは神的なものなのか?」と考えるからです。
そこで、このような考えが多くの者のもとに流入し、その後、強くなり、そのことによって、みことばがある教会と主の結合が滅びないように、その聖なるものが、みことばの中のどこに隠れているか知られるために、霊的な意味を啓示することを、今や、主は喜ばれました。
しかしこのこともまた例によって説明します。
[2] みことばの中に、時にはエジプトについて扱われ、時にはアッシリアについて、時にはエドム・モアブ・アンモンの子孫・ツロとシドン・ゴグについて扱われています――それらの名前によって天界と教会の事柄が意味されることを知らない者は、みことばは国民と民族について多くのものを扱い、天界と教会についてはわずかなものしか、このように地のものについては多くのものを、天界のものについてはわずかなものしか扱っていないという誤りの中に連れ去られてしまいます――しかし彼が、それらによってあるいはそれらの名前によって何が意味されるか知るとき、誤りから真理の中にやって来ることができます。
[3] みことばの中に、そこにしばしば庭園・木立ち・森がでてくるのを見る時も同様です、なおまたそれらの木の名前が挙げられており、例えば、オリーブの木・ぶどうの木・杉・ポプラの木・柏の木、また、しばしば子羊・羊・雄山羊・子牛・牛、そしてまた、山・丘・谷、またそこに泉・川・水、また多くの同様のものがでてきます――みことばの霊的な意味について何も知らない者は、意味されているものはこれらのものであるとしか信じることができません。というのは、「庭園」・「木立ち」・「森」によって知恵・知性・知識が意味されること、「オリーブの木」・「ぶどうの木」・「杉」・「ポプラの木」・「柏の木」によって、教会の、天的・霊的・理性的・自然的・感覚的な善と真理が意味されること、「子羊」・「羊」・「雄山羊」・「子牛」・「牛」によって、無垢・仁愛・自然的な情愛が意味されること、「山」・「丘」・「谷」によって、教会の高いもの・低いもの・最も低いものが意味されること、なおまた、「エジプト」によって知識、「アッシリア」によって理性、「エドム」によって自然的なもの、「モアブ」によって善の不純化、「アンモンの子孫」によって真理の不純化、「ツロとシドン」によって善と真理の認識、「ゴグ」によって内なるもののない外なる礼拝が意味されることを知らないからです――けれども、これらのことを知る時、みことばは天界のものについてしか扱っていないこと、また地のものはその中に天界のものがある単なる対象であることを考えることができます。
[4] しかしこのこともまた、みことばからの例により説明します。
「ダビデの詩篇」にあります、

 エホバの声は水の上にあり、栄光の神は雷鳴を響かせる。エホバは大水の上におられる。……エホバの声は杉を砕き……エホバはレバノンの杉を粉砕される。それらを子牛のように跳ねさせる、レバノンとシルヨンを一角獣の子のように。エホバの声は火の炎のように打つ。エホバの声は荒野を震えさせ、カデシュの荒野を震えさせる。エホバの声は雌鹿に産みの苦しみをさせ、森を裸にする。しかしその方の神殿の中で、それぞれの者が栄光と言う(詩篇29・3―9)。

そこの個々のものは、どの言葉に関しても神的な聖なるものであることを知らない者は、もし単に自然的である者なら、「これは何なのか」とつぶやくことができます――エホバが水の上に座ること、自分の声によって杉を砕くこと、それらを子牛のように跳ねさせ、またレバノンを一角獣の子のように跳ねさせること、雌鹿に産みの苦しみをさせること、また多くのものについてです――というのは、霊的な意味では、それらによって神的真理の力すなわちみことばの力が述べられていることを知らないからです。
なぜなら、その意味では、そこの雷鳴である「エホバの声」によって、力の中にある神的真理すなわちみことばが意味されるからです。エホバが座られる「大水」によってその真理が意味されます。砕き、粉砕する「」や「レバノン」によって理性的な人の虚偽、「子牛」と「一角獣の子」によって自然的なまた感覚的な人の虚偽、「火の炎」によって虚偽の情愛、「荒野」と「カデシュの荒野」によって何らかの真理も善もない教会が意味されます。エホバの声が産みの苦しみをさせる「雌鹿」によって自然的な善の中にいる国民が意味されます。また「」によって、みことばによって彼らに開かれる知識と認識が意味されます――それゆえ、「その方の神殿の中で、それぞれの者が栄光と言う」のであって、そのことによって、みことばの個々のものの中に神的真理があることが意味されます。というのは、「神殿」は主を意味し、ここからみことばを、さらに天界と教会を意味するからです。「栄光」は神的真理を意味します。
これらから、そこの言葉に、自然的な人のもとのすべての種類の虚偽に対抗する、みことばの神的力を、そして国民を改心させる神的力を述べていないものは何もないことが明らかです。