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聖書について79

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79 預言書に教会について扱われている多くの箇所の中に、みことばの理解について扱われており、みことばが正しく理解されているところ以外の他のところに教会はないこと、その教会の中の者のもとのみことばの理解がどのようであるかによって、その教会もそのようなものであることが教えられています。
預言書の多くの箇所にもまた、イスラエルとユダヤ国民のもとの教会が、みことばの意味または理解を虚偽化したことによって完全に破壊され、無とされたことが記述されています、なぜなら、他のものは教会を破壊しないからです。
[2] みことばの理解は、真理も虚偽も、エフライムによって、預言書に、特に「ホセア書」に記述されています。なぜなら、みことばの中の「エフライム」によって、教会の中のみことばの理解が意味されるからです――また、みことばの理解が教会をつくるので、それゆえ、エフライムは〔次のように〕呼ばれています、

 貴重な息子、うれしい子(エレミヤ31・20)。
 長子(エレミヤ31・9)。
 エホバの頭の力強さ(詩篇60・7、108・8)。
 力ある者(ゼカリヤ10・7)。
 弓で満ちている(ゼカリヤ9・13)。

また、エフライムの息子たちは〔次のように〕呼ばれています、

 武装した者、弓を射る者(詩篇78・9)。

」によって、虚偽に対して戦うみことばからの教えが意味されます。それゆえ、さらにまた、

 エフライムはイスラエルの右手に移され、祝福された。さらに、ルベンの代わりに受け入れられた(創世記48・5, 11以降)。

また、それゆえ、

 エフライムはその兄弟マナセと一緒に、モーセにより、彼らの父ヨセフの名前の下に、イスラエルの子たちの祝福として、すべての者よりも高められた(申命記33・13―17)。

[3] けれども、みことばの理解が破壊された時、教会がどのようであるかもまた、エフライムによって預言者に、特に、「ホセア書」に記述されています。例えば、これらから明らかです――

 イスラエルとエフライムは倒れる。……エフライムは孤独になる。……エフライムはさばきに圧迫され、揺すぶられる。……わたしはエフライムには獅子のようになる……わたしは襲う、行く。わたしは取り除く、救い出す者はいない(ホセア5・5, 9, 11―14)。
 エフライムよ、わたしはあなたに何をなそうか?……あなたの敬虔さは、夜明けの雲のようであり、朝に滴って消え去る露のようであるからである(ホセア6・4)。
 彼らはエホバの地に住まない……エフライムはエジプトに戻り、アッシリヤで不潔なものを食べる(ホセア9・3)。

[4] 「エホバの地」は教会です。「エジプト」は人間の自然的な記憶知であり、「アッシリヤ」はそこからの推論であり、それらから、みことばはその理解に関して虚偽化されます。それゆえ、「エフライムはエジプトに戻る、アッシリアで不潔なものを食べる」と言われています。

[5] エフライムは風を食う、東風を追う。すべての日に、うそと荒廃を増す。アッシリヤと契約を結び、油をエジプトに運ぶ(ホセア12・1)。

風を食う」、「東風を追う」、そして「うそと荒廃を増す」は、真理を虚偽化すること、こうして教会を破壊することです。
[6] さらにまた同様のことが、次のものの中の「エフライムの淫行」によって意味されます(なぜなら、「淫行」は、みことばの理解を、すなわち、その本物の真理の理解を虚偽化することを意味するからです)――

 わたしは知っている……エフライムにすべての淫行があり……イスラエルが汚れたこと(ホセア5・3)。
 イスラエルの家の中に、わたしは不潔な事柄を見た。そこに、エフライムは淫行をなし、イスラエルは汚れている(ホセア6・10)。

イスラエル」は、教会そのものであり、「エフライム」は、みことばの理解であり、それから、またそれにしたがって教会があります。それゆえ、「エフライムは淫行をなし、イスラエルは汚れている」と言われています。
[7] ユダヤ人のもとの教会は、みことばの虚偽化によって完全に破壊されたので、それゆえ、エフライムについて次のように言われています、

 エフライムよ、わたしはあなたを与える。イスラエルよ、わたしはあなたを、アデマのように引き渡す。わたしはあなたをツェボイムのようにする(ホセア11・8)。

それで、預言書「ホセア書」に、最初の章からそこの最後の章まで、みことばの虚偽化について、またそれによって教会の破壊について扱われ、「淫行」によってそこに真理の虚偽化が意味されるので、それゆえ、その預言者に、その教会の状態を表象するために、淫婦を自分に女として受け入れ、彼女から息子を産むこと(第一章)、そして再び、姦淫の女を受け入れること(第三章)が命じられました。
[8] 教会の中で、みことばがどのように理解されるかによって、その教会がそのようなものになるかが、みことばから知られ、確信されるように、これらを引用しました。もしその理解がみことばからの本物の真理からのものであるなら、〔教会は〕すぐれた、貴重なものです。しかし、もし虚偽化されたものからなら、〔教会は〕破壊されたもの、それどころか不潔なものです。
エフライム」によって、みことばの理解、またその対立する意味で虚偽化、また、ここから教会の破壊が意味されることを確信するために、エフライムについて扱われている他の箇所を比較することができます――

例えば、ホセア書4・17, 18, 7・1, 11  8・9, 11, 9・11―13, 16, 10・11, 11・3, 12・1, 8, 14, 13・1, 12。イザヤ書17・3, 28・1。エレミヤ書4・15, 31・6, 18, 50・19。エゼキエル書37・16, 48・5。オバデヤ書第19節。ゼカリヤ書9・10。