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聖書について97

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97 なおまた、みことばの文字どおりの意味は内部に隠れている本物の真理のための保護(見張り番)であることを知らなくてはなりません。その意味があちらこちらに変えられることができ、把握にしたがって説明されることができることに対する保護(見張り番)であり、それでもそれによって、内的なものは傷つけられることと害されることができません――というのは、みことばの文字どおりの意味が、ある者により、他の者と異なって解釈されても、害されないからです。しかし内部に隠れている神的真理が曲解されるなら、そのことは害します。というのは、このことによって、みことばに暴力が加えられるからです。
このことが起こらないように、文字どおりの意味は保護します。また、宗教からの虚偽の中にいて、虚偽を確信しない者のもとで保護します。なぜなら、これらの者は何らかの暴力を加えないからです。
[2] この保護が「ケルビム」によって意味され、みことばの中のケルビムによって述べられています。
そのことが、アダムが妻とともにエデンの園から追い出された後、その入り口に置かれた「ケルビム」によって意味されています。このことについて、次のことが書かれています――

 神エホバが人間を見つけ出されたとき、「エデンの園の東からケルビムを住まわせられ、ここかしこに回転する剣の炎を、いのちの木の道を守るために〔置かれた〕」(創世記3・23, 24)。

ケルビム」によって保護が意味されます。「いのちの木の道」によって、主への入り口が意味され、それはみことばを通して人間にあります。「ここかしこに回転する剣の炎」によって、文字どおりの意味の中のみことばのような最終的なものの中の神的真理が意味され、それはこのように回転することができます。
[3] 類似のものが、幕屋の中の箱の上にあったあがないのふたの両端の上に置かれた「金のケルビム」(出エジプト記25・18―21)によって意味されます。このことが「ケルビム」によって意味されたので、それゆえ、主はそれらの間でモーセと話されました(出エジプト記25・22、37・9。民数記7・89)。
主は人間と完全なものの中でないなら、語られないこと、また文字どおりの意味の中のみことばは完全なものの中にあることは、前のものを見てください(37―49番)。そこで、このように主はモーセとケルビムの間で話されました。
幕屋の幕の上のケルビム、またそこの垂れ幕の上のケルビム(出エジプト記26・1、31)によって、他の何も意味されません。なぜなら、幕屋の幕と垂れ幕は天界と教会の最後のものを、そしてこのようにまた、みことばの最終的なものを表象したからです(前の46番を見てください)。エルサレムの神殿の真ん中のケルビム(列王記Ⅰ6・23―28)によっても、神殿の壁と扉の上に刻まれたケルビム(列王記Ⅰ6・29、32、35)によっても、同様に、新しい神殿の中のケルビム(エゼキエル41・18―20)によっても、他の何も意味されません、〔このこともまた〕前(47番)を見てください。
[4] みことばの内部にあるような、主・天界・神的真理に直接に近づかないで、しかし最終的なものによって間接的に近づくように、「ケルビム」によって保護が意味されたので、それゆえ、ツロの王についてこのように言われています――

 あなたは定められたものを封じており、知恵に満ち、美しさで完全〔である〕。エデンの園に……あなたはいた。すべての宝石はあなたのおおい。あなたはケルブ、おおいの広がり。……おおうものケルブよ、わたしはあなたを火の石の真ん中で破壊した(エゼキエル28・12―14、16)。

ツロ」によって真理と善の認識に関する教会が意味されます、またここから「その王」によって、そこにまたそこからそれらの認識がある、みことばが意味されます。ここのその王によって、文字どおりの意味であるその最終的なものの中のみことばが、また「ケルブ」によって保護が意味されることが明らかです。なぜなら、「あなたは定められたものを封じ……すべての宝石はあなたのおおい……あなたはケルブ、おおいの広がり」、「おおうものケルブよ」と言われているからです。そこにもまた名前を挙げられている「宝石」によって、みことばの文字どおりの意味の真理が意味されることは前のものを見てください(45番)。
「ケルビム」によって神的真理の最終的なものが意味されるので、それゆえ、ダビデの書で言われています、

(エホバは)天を押し曲げて降りて来られた。ケルブの上に乗られた(詩篇18・9、10)。
イスラエルの牧者、ケルビムの上に座る者よ、輝き出てください(詩篇80・1)。
エホバは……ケルビムに座られる(詩篇99・1)。

ケルブの上に乗ること」、「その上に座ること」、「それに座ること」は、みことばの最終的な意味の上に〔乗り、座ること〕です。
[5] みことばの中の神的真理は、またその性質は、「エゼキエル書」の最初の章、第九章、第十章の中のケルビムによって述べられています――しかし、記述されたそれらの個々のものによって何が意味されるか、霊的な意味が開かれた者でないなら、だれも知ることができないので、それゆえ、「エゼキエル書」の第一章の中で、ケルビムについて言われているそれらすべてのものによって、何が意味されるか、要約した形で私に明かされました。それらは次のものです――

みことばの外的な神的スフェアが述べられている(4節)。
その表象は人間のようである(5節)。
霊的なものと天的なもので結合された(6節)。
みことばの自然的なものが、どんなものであるか(7節)。
みことばの霊的なものと天的なものが、その自然的なものに結合した、その性質(8, 9節)。
区別され、一緒にされた、その中の天的な・霊的な・自然的な善と真理の神的愛(10, 11節)。
一つのものに向かって眺めること(12節)。
主の神的善と神的真理からのみことばのスフェア、それらからみことばは生きる(13, 14節)。
みことばの中の、またみことばからの、善と真理の教え(15―21節)。
その上の、またその中の、主の神性(22, 23節)。
またそれから(24, 25節)。
主は天界の上におられること(26節)。
また神的愛と神的知恵はその方のものであること(27, 28節)。

これらの概要もまた天界の中のみことばと比較され、それと一致しています。