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聖書について54

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54 みことばは教えによって理解されるだけでなく、あたかも輝くようであることは、前に示されたように、みことばは教えがないなら理解されず、光(明かり)のない燭台のようであるからです。それゆえ、みことばは教えによって理解されるとき、光(明かり)がともされたときの燭台のようです。
その時、人間は前に見たものよりも多くのものを見、そしてまた前に理解しなかったものを理解します。暗いものや不一致なものは、見ないか、見過ごし、あるいは見ても、教えと一致するように解釈します。
みことばは教えから見られ、そしてまた教えにしたがって解釈されることは、キリスト教界の中の経験から証明されます。
というのは、改革派のすべての者は、みことばを自分たちの教えから見て、みことばを教えにしたがって解釈するからです。同様に、ローマカトリックの教徒も、自分たちの教えから見て、それにしたがっており、それどころか、ユダヤ人も、自分たちの教えから見て、それにしたがって解釈しています。したがって、虚偽の教えからは虚偽を、真理の教えからは真理を見ています。
ここから、真理の教えは、暗やみの中のランプのようなもの、道の標識のようなものであることが明らかです。
しかし、教えは、みことばの文字どおりの意味から汲み取らなくてはならないだけでなく、それによって確認されなければなりません――なぜなら、教えによって確認されないなら、その教えの真理は、人間の知性だけがその中にあり、主の神的知恵はないように見えます。このようにその教えは、空中にあって、地上になく、このように基礎のない家のようになるからです。