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主について1

序文◀︎目次▶︎2

(1)聖書全体は主についてであり、主はみことばである

 「ヨハネ福音書」にあります、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によってつくられた。この方なしにつくられたものは、何もつくられなかった。この方の中に、いのちがあった、いのちは人間の光であった。光が暗やみの中に見られた、しかし、暗やみはそれを悟らなかった。 ……ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた。私たちはその方の栄光を、父からの「ひとり子」としての栄光を見た。恵みと真理に満ちていた(1・1-5、14)

同書に、

光が世に来た、しかし、人間は光よりもさらに暗やみを愛した。彼らの働きが悪であったからである(3・19)

また同書の他の箇所に、

あなたがたが光を持つ間に、光の子となるために、光を信じなさい……わたしは、光は、世の中に、わたしを信じるすべての者が、暗やみの中にとどまらないよう、やって来ました(12・36、46)

これらから、主が永遠からの神であられること、またその神ご自身が世に生まれた主であられることが明らかです。というのは「ことばは神とともにあった。ことばは神であった」、なおまた「つくられたものは、その方なしに何もつくられなかった」——またその後「ことばは肉となった」、また私たちがその方を見たことが言われているからです。
主がみことばと言われていることは、教会の中でほとんど理解されていません。しかし「ことば」は神的真理すなわち神的知恵を意味し、主は神的真理そのものすなわち神的知恵そのものであられるので、みことばと言われます。それゆえ、さらにまた「」と呼ばれ、その光についてもまた「世にやって来た」ことが言われています。
神的知恵と神的愛は一つのものをつくり、主の中で永遠から一つのものであったので、それゆえ、さらにまた「その方の中に、いのちがあった。いのちは人間の光であった」と言われます。「いのち」は神的愛であり、「光」は神的知恵です。
この一つのものが、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった」こと、「ことばは神であった」ことによって意味されます。「神とともに」は、「神の中に」です、なぜなら、知恵は愛の中に、また愛は知恵の中にあるからです。同様に「ヨハネ福音書」の他の箇所に、

父よ、あなたは、わたしを栄化してください。あなたご自身とともに、世にあった前に、あなたとともに、わたしが持ったその栄光で(17・5)。

あなたご自身とともに」は「あなたご自身の中に」です。それゆえ、さらにまた「ことばは神であった」こと、また他の箇所に「主は父の中に、父はその方の中にいること、なおまた、父とその方は一つである」ことが言われています。
それで、みことばは神的愛の神的知恵であるので、エホバそのものであること、そのように主であることがいえます。その者からつくられたすべてのものがつくられたのです。なぜなら、神的愛からの神的知恵によって、すべてのものが創造されるからです。