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主について2

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2 モーセと預言者によって、また福音書記者によって示されたのと同じみことばが、特にここに意味されるものであることは、それが神的真理そのものであること、それからすべての知恵が天使にあり、霊的な知性が人間にあることからはっきりと明らかにすることができます。というのは、このみことばは世の人間のもとに、さらにまた天界の天使のもとにあるものと同じであるからです。しかし、世で人間のもとにあるものは自然的です、けれども、天界にあるものは霊的です——みことばは神的なものであるので、発出している神性でもあります。これは主から存在するだけでなく、主そのものです。
みことばが主そのものであるので、それゆえ、みことばのすべてと個々のものはその方についてだけ書かれています。「イザヤ書」から「マラキ書」まで、主についてのもの、または、正反対の意味で主に反するものしか存在しません。
[2]このようであることは、今までだれも見ていません。しかしそれでも、そのことを知り、読む時、そのことを考えさえすれば、すべての者がそれを認めることができます。そしてほかにも、みことばの中に、自然的な意味だけでなく霊的な意味があることを知ります。この意味の中に、人物や場所の名前によって主の何らかのものが意味され、ここから、その方からの天界と教会の何らかのものが、または正反対の何らかのものが意味されます。
みことばのすべてと個々のものは主についてであり、みことばは神的真理であるので主です。それで、なぜ「ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた。私たちはその方の栄光を見た」と言われているか、なおまた、なぜ「あなたがたが光を持つ間に、光の子となるために、光を信じなさい」——「わたし、光は、世に、やって来ました。わたしを信じるすべての者は、暗やみの中にとどまりません」と言われているか明らかです。「」は、神的真理であり、このように、みことばです。
このことゆえに、今日(こんにち)もまた、主だけに近づくすべての者が、みことばを読み、その方に祈る時、その中で照らされます。