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35 (6) 母から受けた人間性を連続的に脱ぎ捨て、神的人間性であり、神の子である神性からの人間性をご自分に着せられた
主に神性と人間性があったこと、父エホバからの神性と処女マリアからの人間性があったことはよく知られています。ここから、神と人でした、このようにその方に神的な本質と人間的な性質がありました。父からの神的な本質と母からの人間的な性質です。ここから神性に関して父と同等であり、人間性に関して父に劣っています。なおまた、アタナシウスのものと呼ばれる信仰の教え〔信条〕が教えるように、母からの人間性は、この人間性を、神的な本質の中で変えず、それに混ぜませんでした。なぜなら、人間的な性質は神的な本質に変えられることも、それに混ぜられることもできないからです。
[2]それでも、同じ私たちの教えから、神性は人間性をまといました、すなわち、霊魂がそれ自体を身体にまとったように、神性自体を人間性に結合させました、それでも二つの位格(ペルソナ)でなく、しかし一つの位格のように〔結合させました〕。
そのことから、本質的に他の人間の人間性に似ていた母からの、このように物質的であった人間性を脱ぎ捨てたことがいえます。そして、本質的に自分の神性と似ていた父からの、このように実体的であった人間性をおび、そのことから人間性もまた神的なものになりました。
ここから、主は預言者のみことばの中で、人間性に関してエホバと神と言われ、そして福音書記者のみことばの中でも、主・神・メシアまたはキリスト・神の子と言われており、その方を信じ、その方から救われなければなりません。
[3]さて、主は始めに母からの人間性をとり、これを連続的に脱ぎ捨てたので、それゆえ、世におられた時、ご自分に二つの状態がありました。卑下の状態または空にした状態と呼ばれるものと、父と呼ばれる栄化の状態または神性と結合した状態です——母からの人間性の中にいるかぎり、その時、卑下の状態であり、父からの人間性の中にいるかぎり、その時、栄化の状態でした。
卑下の状態の中で、自分自身から他の者へ祈るように父に祈りました。けれども、栄化の状態の中で、自分自身と話すように父と話されました。
この状態の中で、父はご自分の中に、ご自分は父の中に、また父とご自分は一つである、と言われました。けれども、卑下の状態の中で、試練を受け、十字架を被り、父がご自分を見捨てないよう祈りました。なぜなら、神性は誘惑されることが、ましてなおさら十字架を被ることができないからです。
これらから、前に示されたように、試練とその時の絶え間のない勝利によって、そして最後の試練であった十字架の受難によって、完全に地獄に勝利し、完全に人間性を栄化されたことが、今や明らかです。
[4]主が母からの人間性を脱ぎ捨てたこと、父と呼ばれるその方の中の神性から人間性をまとったことは、ご自身が自分の口から母と話すたびごとに、彼女を母と呼ばず、女と呼ばれたことからもまた明らかです。
「福音書」に三度だけ、ご自分の口から母について話したこと、その時、二度、彼女を女と呼んだこと、一度は彼女を母として認めなかったことがあります。
二度、彼女を「女」と呼んだことは——「ヨハネ福音書」にあります、
イエスの母がその方に言った。「ぶどう酒がありません」。イエスは彼女に言われた。「わたしとあなたに何が〔ありますか〕?女よ、わたしの時はまだ来ていません」(2・3、4)。
また同書に、
イエスは……十字架から女を、またそばにいる愛する弟子を見られた。自分の母に言われた。「女よ、見よ、あなたの息子」。続いて、弟子に言われた。「見よ、あなたの母」(19・26、27)。
一度は、彼女を〔母として〕認めなかったことは——「ルカ福音書」に、
イエスは、「あなたの母とあなたの兄弟が外に立っています。あなたを見ることを欲しています」と言われ、知らされた。イエスは、彼らに答えて言われた。「わたしの母とわたしの兄弟は、神のことばを聞き、それを行なう者です」(8・20、21。マタイ12・46―49。マルコ3・31―35)。
他の箇所にマリアがその方の母と呼ばれています、しかしその方の口からではありません。
[5]このこともまた、ご自分をダビデの子であると認めなかったことによって確証されます。 「福音書」にもまたあります、
パリサイ人たちに……イエスは、「あなたがたはキリストについてどう思いますか?だれの子ですか?」と言って、質問された。〔彼らは〕その方に言った、「ダビデの〔子です〕」。〔イエスは〕彼らに言われた、「それでは、なぜダビデはその方を霊の中で、『主は私の主に言いわれた。わたしがあなたの敵をあなたの足の足台に置くまで、わたしの右に座れ』と言って、自分の主と呼ぶのですか。それゆえ、ダビデがその方を主と呼んでいるなら、なぜ彼の子なのですか?」 それで、だれもその方に言葉で答えることができなかった」(マタイ22・41―46。マルコ12・35―37。ルカ20・41―44。詩篇110・1)。
これらから、主は栄化された人間性に関してマリアの子ではなく、ダビデの子でもなかったことが明らかです。
[6]栄化されたご自分の人間性がどんなものであったか、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの前で変容したときに彼らに示しました。
その方の顔が太陽のように輝き、その方の衣服が光のようであったこと——また、その時、雲から声が言った。「これはわたしの愛する子であり、その者をわたしは喜ぶ。その者に聞け」(マタイ17・1―8。マルコ9・2―8。ルカ9・28―36)。
主はまたヨハネに、「輝く太陽のように、その強さの中で」見られました(黙示録1・16)。
[7]主の人間性が栄化されたことは、その方の栄化について福音書記者のもとに言われていることからも明らかです。
例えばこれらから——「ヨハネ福音書」に
「人の子が栄化される時が来ました」。言われた、「父よ、あなたの名前を栄化してくだい」。……天から声がした。「わたしは栄化したし、また再びわたしは栄化する」(12・23、28)。
主は連続的に栄化されたので、それゆえ、「わたしは栄化したし、また再びわたしは栄化する」と言われています。
同書に、
ユダが出て行った後に、イエスは言われた。「今、人の子は栄化されました。神はその方の中で栄化されました。……神もまたご自身でその方を栄化されます。直ちに、その方を栄化されます」(13・31、32)。
同書に、
イエスは言われた。「父よ、あなたの子の栄化の時が来ました。子もまたあなたを栄化するために、あなたの子を栄化してください」(17・1、5)。
また「ルカ福音書」に
キリストはこのことを受けて、自分の栄光の中に入ならくてはならなかったのではありませんか?(24・26)。
これらはその方の人間性について言われました。
[8]主は、「神はその方の中で栄化された」、「神もまたご自身でその方を栄化される」、なおまた、「子もまたあなたを栄化するために、あなたの子を栄化してください」と言われました——これらを主は、結合が人間性と神性そして神性と人間性の相互のものであったので言われたのです。} それゆえ、さらにまた言われました、
わたしは父の中に、父はわたしの中に〔います〕(ヨハネ14・10、11)。
なおまた、
わたしのすべてのものはあなたのもの、あなたのすべてのものはわたしのものです(ヨハネ17・10)。
ここから結合は完全でした。
すべての結合に同様です。それは相互のものでないなら、完全ではありません——さらにまた、「ヨハネ福音書」で教えられているように、人間と主また主と人間の結合のようなものでした。
その日に、あなたがたは……あなたがたがわたしの中に、わたしがあなたがたの中にいることを知ります(14・20)。
また他の箇所に、
わたしの中にとどまりなさい、わたしもあなたがたの中にとどまります。……わたしの中に、またわたしが彼の中にとどまる者は、多くの実を結びます(15・4、5)
[9]主の人間性が栄化された、すなわち、神的なものにされたので、それゆえ、死後、三日目に全身とともによみがえられました。このことは人間のだれかに生じることではありません、なぜなら、人間は身体に関してよみがえらず、霊に関してだけよみがえるからです。
主が全身とともによみがえったことを、人間が知って、だれも疑わないように、墓の中にいた天使によってそのことを言われただけでなく、弟子たちの前でその人間性の身体で、ご自分を示されました。〔弟子たちが〕霊を見たと信じたとき、彼らに言われて、
わたしの手とわたしの足を見なさい。わたしそのものです——わたしに触れ、見なさい。なぜなら、霊は、わたしが持っていて、あなたがたが見ているのような肉と骨を持たないからです。そしてこれを言われたとき、彼らに手と足を示された(ルカ24・39、40。ヨハネ20・20)。
またさらに、
イエスはトマスに言われた、「あなたの指をここに伸ばし、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸し、そしてわたしの脇の中に入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」——その時、トマスは言った、「私の主、私の神」(ヨハネ20・27、28)。
[10]霊でなく、人間であることをさらに確信させるために、主は弟子たちに言われました、
「ここに何か食べられるものがありませんか?」……彼らはその方に焼いた魚の一部を、またミツバチの巣から与えた。それらを受け取って、彼らの前で食べられた(ルカ24・41―43)。
その方の身体は今や物質的でなく、神的な実体的なものであったので、それゆえ、閉ざされた戸から弟子たちにやって来られました(ヨハネ20・19、26)。
また、見られた後、目に見えなくなられました(ルカ24・31)。
そこで、このように主は取り上げられて、神の右に着席しました。なぜなら、「ルカ福音書」に言われているからです、
イエスが弟子たちを「祝福している時、彼らから離れ、天に取り上げられることが起こった」(24・51)。
また「マルコ福音書」に、
彼らに話した後、天に取り上げられ、神の右に着席した(16・19)。
「神の右に座ること」は神的全能を意味します。
[11]主は神性と人間性の結合とともに一つのものの中で天に上り、神の右に座られたので、そのことによって神的全能が意味され、人間性の実体または本質ものものが神性そのもののようであることがいえます。
もし人間が〔これと〕異なって考えるなら、人間性と一緒でなく、神性そのもの〔だけ〕が天に取り上げられ、そして神の右に座る、と考えるようになってしまいます。このことは聖書に反し、そしてまた、キリストの中に霊魂と身体のように神と人間がいることであるキリスト教の教えに反し、それらを分離することは健全な理性に反します。
子との父の結合すなわち人間性との神性の結合は次の続くものの中でもまた意味されています——
わたしは父から出て、世に来ました。再び、世を残し、父へ行きます(ヨハネ16・28)。
わたしは去り、わたしを遣わした者へ行きます(ヨハネ7・33、16・5、16、17・11、13)。
それゆえ、もしあなたがたが人の子が前にいたところに上るのを見るなら(ヨハネ6・62)。
天から下った者でないなら、だれも天に上らなかった(ヨハネ3・13)。
だれでも救われる人間は天に上ります。しかし自分自身からでなく主からです——主おひとりがご自分から上りました。