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主について

目次▶︎1

序 文

数年前に五つの小著が出版され、それらは次のものです、

1 『天界と地獄について』
2 『新しいエルサレムの教え』
3 『最後の審判について』
4 『白い馬について』
5 『宇宙の中の惑星と地球について』

それらの中に今日まで知られなかった多くのものが示されています。
今や、私に〔ご自分を〕啓示された主の命令により、次のものが出版されようとしています——

『新しいエルサレムの教え 主について』
『新しいエルサレムの教え 聖書について』
『新しいエルサレムのための生活の教え 十戒から』
『新しいエルサレムの教え 信仰について』
『続 最後の審判について』
『天使の知恵神的摂理について』 
『天使の知恵神的全能・遍在・全知・無限・永遠について』
『天使の知恵神的愛と神的知恵について』
『天使の知恵生活について』

「新しいエルサレムの教え」と言われ、そしてそれらにより、今日、主により設立される「新しい教会」のための教えが意味されます。というのは、小著『最後の審判』(33—39番)の中で述べられ、続いてここに名前を挙げられた小著の中でさらに述べられることから明らかにすることができるように、旧い教会はその終わりに達したからです。
「黙示録」(第21章)の中で審判の後でやって来ることが予言されている「新しいエルサレム」によって、「新しい教会」が意味されることは、本書の最終章(12)にあります。

目次◁◻︎▷1

主について

序文◀︎目次▶︎2

(1)聖書全体は主についてであり、主はみことばである

 「ヨハネ福音書」にあります、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によってつくられた。この方なしにつくられたものは、何もつくられなかった。この方の中に、いのちがあった、いのちは人間の光であった。光が暗やみの中に見られた、しかし、暗やみはそれを悟らなかった。 ……ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた。私たちはその方の栄光を、父からの「ひとり子」としての栄光を見た。恵みと真理に満ちていた(1・1-5、14)

同書に、

光が世に来た、しかし、人間は光よりもさらに暗やみを愛した。彼らの働きが悪であったからである(3・19)

また同書の他の箇所に、

あなたがたが光を持つ間に、光の子となるために、光を信じなさい……わたしは、光は、世の中に、わたしを信じるすべての者が、暗やみの中にとどまらないよう、やって来ました(12・36、46)

これらから、主が永遠からの神であられること、またその神ご自身が世に生まれた主であられることが明らかです。というのは「ことばは神とともにあった。ことばは神であった」、なおまた「つくられたものは、その方なしに何もつくられなかった」——またその後「ことばは肉となった」、また私たちがその方を見たことが言われているからです。
主がみことばと言われていることは、教会の中でほとんど理解されていません。しかし「ことば」は神的真理すなわち神的知恵を意味し、主は神的真理そのものすなわち神的知恵そのものであられるので、みことばと言われます。それゆえ、さらにまた「」と呼ばれ、その光についてもまた「世にやって来た」ことが言われています。
神的知恵と神的愛は一つのものをつくり、主の中で永遠から一つのものであったので、それゆえ、さらにまた「その方の中に、いのちがあった。いのちは人間の光であった」と言われます。「いのち」は神的愛であり、「光」は神的知恵です。
この一つのものが、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった」こと、「ことばは神であった」ことによって意味されます。「神とともに」は、「神の中に」です、なぜなら、知恵は愛の中に、また愛は知恵の中にあるからです。同様に「ヨハネ福音書」の他の箇所に、

父よ、あなたは、わたしを栄化してください。あなたご自身とともに、世にあった前に、あなたとともに、わたしが持ったその栄光で(17・5)。

あなたご自身とともに」は「あなたご自身の中に」です。それゆえ、さらにまた「ことばは神であった」こと、また他の箇所に「主は父の中に、父はその方の中にいること、なおまた、父とその方は一つである」ことが言われています。
それで、みことばは神的愛の神的知恵であるので、エホバそのものであること、そのように主であることがいえます。その者からつくられたすべてのものがつくられたのです。なぜなら、神的愛からの神的知恵によって、すべてのものが創造されるからです。

主について

1◀︎目次▶︎3

2 モーセと預言者によって、また福音書記者によって示されたのと同じみことばが、特にここに意味されるものであることは、それが神的真理そのものであること、それからすべての知恵が天使にあり、霊的な知性が人間にあることからはっきりと明らかにすることができます。というのは、このみことばは世の人間のもとに、さらにまた天界の天使のもとにあるものと同じであるからです。しかし、世で人間のもとにあるものは自然的です、けれども、天界にあるものは霊的です——みことばは神的なものであるので、発出している神性でもあります。これは主から存在するだけでなく、主そのものです。
みことばが主そのものであるので、それゆえ、みことばのすべてと個々のものはその方についてだけ書かれています。「イザヤ書」から「マラキ書」まで、主についてのもの、または、正反対の意味で主に反するものしか存在しません。
[2]このようであることは、今までだれも見ていません。しかしそれでも、そのことを知り、読む時、そのことを考えさえすれば、すべての者がそれを認めることができます。そしてほかにも、みことばの中に、自然的な意味だけでなく霊的な意味があることを知ります。この意味の中に、人物や場所の名前によって主の何らかのものが意味され、ここから、その方からの天界と教会の何らかのものが、または正反対の何らかのものが意味されます。
みことばのすべてと個々のものは主についてであり、みことばは神的真理であるので主です。それで、なぜ「ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた。私たちはその方の栄光を見た」と言われているか、なおまた、なぜ「あなたがたが光を持つ間に、光の子となるために、光を信じなさい」——「わたし、光は、世に、やって来ました。わたしを信じるすべての者は、暗やみの中にとどまりません」と言われているか明らかです。「」は、神的真理であり、このように、みことばです。
このことゆえに、今日(こんにち)もまた、主だけに近づくすべての者が、みことばを読み、その方に祈る時、その中で照らされます。

主について

2◀︎目次▶︎4

3 ここにもまた、旧約聖書の「イザヤ書」から「マラキ書」まで、すべての預言書のもとに、 全般的にまた特定的に、主について何が扱われているか簡潔に述べておきます——

(1) 主は、定めの時に世にやって来られた。それは、ご自分がもはやユダヤ人から知られなかった、またそのことから教会の何らかのものが残らなかった時であった。その時、主が世に来られなかったなら、ご自分を現わされなかったなら、人間は永遠の死のうちに滅んでしまった——その方が「ヨハネ福音書」で言われている、

あなたがたが、わたしがある(存在する)ことを信じないなら、あなたがたは罪の中で死にます(8・24)

(2) 主は最後の審判を行なうために世にやって来られた、それによって、その時、支配的であった地獄を征服された。それは闘争によって、すなわち、母からのご自分の人間性に試練を受けることを許して、またその時、絶え間のない勝利によって行なわれた——それが征服されなかったなら、人間はだれも救われることができなかった。
(3) 主は、受胎からその方の中にあった人間性を栄化するために、すなわち、その神性を結合させるために世にやって来られた。
(4) 主は、主を「あがない主」と「救い主」と認め、そしてその方への愛と信仰によって、あがなわれ、救われる新しい教会を設立するために世にやって来られた。
(5) 同時に、その時、天界を教会と一つとなるよう秩序づけられた。
(6) 十字架の受難は、最後の闘争すなわち試練であった、それによって完全に地獄に勝利し、完全にご自分の人間性を栄化された。

みことばが〔これら以外の〕他の事柄について扱っていないことは、〔本書に〕続く小著『聖書について』の中にあります。

主について

3◀︎目次▶︎5

4 そのようであることを確信するために、この第一章に、みことばから、そこに「その日」、「その日に」、「その時に」が言われている箇所だけを示します。それらの中で「日」、「時」によって、主の来臨が意味されています——

「イザヤ書」に、

後の日に、エホバの〔家の〕山が山の頂きに堅く立つ。その日に、エホバおひとりが高められる。万軍のエホバの日が、すべての称賛される者と高められた者の上にある。その日に、 人間は自分の金と銀の偶像を投げ捨てる(2・2、 11、12、20)。
その日に、主エホビは装飾品を取り去られる(3・18)。
その日に、エホバの若枝は美観と栄光の中にある(4・2)。
その日に、彼に対してうなる……そして地を調べる。見よ、それは、暗やみ、不安。光は破滅の中で暗くなる(5・30)。
その日になると、エホバはエジプトの川々の最果ての中のハエに口笛で合図される。その日に、主は……川を通過中に〔ひげを〕剃り落とされる。その日に、生きいきとさせられる。その日に、すべての場所で……いばらとおどろになる
(7・18、20、21、23)。
天罰の日に、あなたがたは何をするのか?……その日が来る。その日に……イスラエルはエホバに、イスラエルの聖なる者に、真理の中で支えられる
(10・3、20)
その日に、エッサイの根は、民の旗として立っている……国々は求める。休息はその方の栄光となる。特に、その日に、主は……自分の民の残りの者を捜し求められる
(11・10、11)。
その日に、あなたは言う。「私はあなたを賞賛します、エホバよ」。その日に、あなたがたは言う。「エホバはほめたたえられる、その方の名前を呼べ」
(12・1、4)。
エホバの日は近い、シャダイ(全能者)から荒廃がやって来る。見よ、残酷な、憤りの、激しい怒りの、怒りのエホバの日がやって来る。わたしは天を揺り動かす、地をその場所からゆすぶる、その方の怒りの激しい怒りの日に。その方の時は近い、やって来る。日は……延ばされない
(13・6、9、13、22)。
その日に、ヤコブの栄光は衰える。その日に、人間は自分を造られた方を眺め、目は……イスラエルの聖なる方へ。その日に避け所の都は……森の見捨てられた所になる(17・4、7、9)。
その日に、エジプトの地にカナンの言語を話す五つの町がある。その日に、エジプトの真ん中にエホバの祭壇がある(エジプト人はその日に主を知る)。その日にエジプトからアッシリヤへの街道がある、(その日に)イスラエルは地の真ん中にある
(19・18、 19、21、23、24)。
その日に、島の住民は言う……見よ……私たちの望み
(20・6)。
万軍の主エホビの日、騒動と蹂躙と混乱の日
(22・5、12)。
その日に、エホバは高い所(天)の軍隊と……地の王を罰せられる。多くの日々の後、罰せられる。その時、月は赤面し、太陽は恥じる
(21・21、22、23)。
その日に言う。見よ、ここに私たちの神。その方を私たちは、私たちを救い出すようにと待ち望んだ
(25・9)。
その日に、ユダの地でこの歌が歌われる。私たちに強い都がある
(26・1)。
その日に、エホバはご自分の剣で罰せられる。その日に、純粋な(ブドウ酒の)ブドウ畑に、彼女に答えよ
(27・1、2、12、13)。
その日に、万軍のエホバは、装飾された王冠、かぶり物となられる
(28・5)。
その日に、耳しいた者は「書物」のことばを聞く……盲目の者の目は暗やみから見る
(29・18)。
大いなる殺戮の日に、塔が倒れるとき、水の運河がある。また……月の光は太陽の光のように〔なる〕……その日に、エホバはご自分の民の傷を包帯される
(30・25、26)。
その日に、男は自分の金と銀の偶像を投げ捨てる
(31・7)。
エホバの復讐の日、その方の報いの年
(34・8)。
一つの日のうちに、二つがあなたにやって来る……子を失うことと、やもめになること
(47・9)
わたしの民はわたしの名前を知る、その日に……わたしが彼〔であることを知る〕、その者が語っている、わたしを見よ
(52・6)。
エホバは私に油を注がれた……エホバの楽しみの年を、神の復讐の日を宣言するために、すべての悲しむ者を慰めるために
(61・1、2)。
わたしの心の中に復讐の日がある。わたしのあがないの年がやって来た
(63・4)。

「エレミヤ書」に、  

その日に……もはやあなたがたはエホバの契約の箱について言わない。その時に、彼らはエルサレムを主の王座と呼ぶ。その日に、ユダの家はイスラエルの家へ行く(3・16、17、18)。
その日に……王の心と君主の心は去り、祭司は唖然とし、預言者は驚く
(4・9)。
見よ、日がやって来ている……それらの日に、地は荒廃に変わる
(7・32、34)。
彼らの天罰の時に、倒れる者の間で倒れる
(8・12)。
見よ、日がやって来ている……わたしは包皮に割礼〔を受けている〕すべての者を罰する
(9・25)。
彼らの天罰の時に、それらは滅びる
(10・15)。
彼らに残りの者はいない。わたしは彼らの上に悪を、彼らの天罰の年をもたらす
(11・23)。
見よ、日がやって来ている……その日に、もはや言われない……
(16・14)。
彼らの破滅の日に、首と顔で、わたしは彼らを振り返って見ない
(18・17)。
見よ、日がやって来ている……その日に、わたしはこの場所を荒廃の中に置く
(19・6、8)。
見よ、日がやって来ている……その日に、わたしはダビデに正しい若枝を起こし、その者は王〔となって〕支配する。その日にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。それゆえ、見よ、日がやって来ている……それらの日に、もはや言われない……。わたしは彼らの上に悪を、彼らの天罰の年をもたらす。終わりの日に、あなたがたは理解力で理解する
(23・5、6、7、12、20)。
見よ、日がやって来ている……その日に〔わたしは捕囚から〕向きを変える。ああ……これは大いなる日、そのような日はない。その日に……わたしはくびきを砕き……足かせを引きはがす
(30・3、7、8)。
見張りがエフライムの山で、「立ち上がれ……私たちはシオンへ、私たちの神エホバへ上る」と叫ぶ日がある。見よ、日がやって来ている……その日に、わたしは……新しい契約を結ぶ。見よ、日がやって来ている……その日に、エホバの都が建てられる
(31・6、27、31、38)。
日がやって来ている……その日に、わたしは善いことばを堅く立てる。その日に、その時に、わたしはダビデ(のため)に正義の若枝を芽生えさせる。その日に、ユダは救われる
(33・14、15、16)。
その日に、わたしは……この都に対して、悪に向けてことばをもたらす……。けれども、その日に、あなたを、わたしは救い出す
(39・16、17)。
その日は万軍の主エホビの復讐の日、ご自分の敵に復讐される。破滅の日、彼らの天罰の時が……彼らの上にやって来る
(46・10、21)。
荒廃させにやって来る日のために
(47・4)。
わたしは彼らの上に……天罰の年をもたらす。それでも、わたしは終わりの日に彼の捕囚を戻す
(48・44、47)
わたしは……彼らの上に、彼らの天罰の時に破滅をもたらす。その日に、その若者は街路の中で倒れ、すべての戦いの男は打ちのめされる。終わりの日に、わたしは彼らの捕囚を戻す
(49・8、26、39)
その日にまたその時に……イスラエルの子孫はやって来る……ユダの子孫も一緒に……自分の神エホバを求める。その日に、その時に……イスラエルの不正は探され、その不正はない。彼らにわざわい〔あれ〕、彼らの日、彼らの天罰の時がやって来たから
(50・4、20、27、31)。
それらは空虚〔なもの〕、間違った作品〔であり〕、彼らの天罰の時に滅びる
(51・18)。

「エゼキエル書」に、  

終わりが来る、終わりが来る……あなたの上に朝が来る……時が来た、動乱の日が近い。見よ、日を。見よ、やって来る。朝が生じた。枝が花を咲かせ、暴力が芽を出した。日が近づいた。時が近づいた……そのすべての群衆の上に。銀も金も、エホバの怒りの日に彼らを救い出さない(7・6、7、10、12、19)。
彼らは預言者について言った。「彼はその幻を見ている〔がそれは〕、多くの日の後で生じる。彼は遠く離れた時を預言している」(12・27)。
彼らはエホバの(怒りの)日に、戦い中で踏みとどまらない(13・5)。
あなたは、不信心な刺し通された者、イスラエルの君主。終わりの不正の時に、その者に日がやって来る(21・25、29)。
その真ん中で血をまき散らしている都よ、その時がやって来る。……おまえは日を近づけることをした、自分の年へおまえはやって来る(22・3、4)。
わたしが彼らから力強さを取り去るのはその日ではないのか?その日に救い出された者が、耳に知らせに、あなたにやって来る。その日に、あなたの口は救い出された者とともに開かれる(24・25, 26, 27)
その日に、わたしはイスラエルの家に角を伸ばさせる(29・21)。
泣きわめけ、ああ、日を。なぜなら、エホバの日は近いから、エホバの日は近い、雲の日、国民の時がある。その日に、わたしから使者たちが出て行く(30・2、3、9)。
あなたが地獄に下るその日に(31・15)。
わたしは、わたしの群れ(羊)を捜し求める……彼があなたの群れ(羊)の真ん中にあるその日に……わたしは雲と暗黒の日に追い散らされたすべての場所から彼を救い出す(34・11、12)。
その日に、わたしはあなたがたをあなたがたのすべての不正から清める(36・33)。
預言せよ、言え。わたしのイスラエルの民が安らかに座る日に、あなたはその日に知るのではないか?来るべき時に、わたしは、あなたをわたしの地に導く。その日に、ゴグが地の上にやって来るその日に。わたしのねたみの中で、わたしの憤りの火の中で、もしこの日の中でないなら、イスラエルの地の上に大きな地震がある(38・14、16、18、19)。
見よ、わたしが話したこの日がやって来る……。その日に生じる、わたしはイスラエルの地にゴクに墓所を与える。……イスラエルの家が、わたし、エホバが彼らの神〔である〕ことを、その日からその時以降、知るように(39・8、11、22)。

「ダニエル書」に、  

諸天の中の神が秘密を啓示された……終わりの日に何が起こるか(2・28)。
聖徒たちが国を確立させるような時が近づく
(7・22)。
留意せよ……終わりの時への幻であるからである。言った、「見よ、私はあなたに怒りの終わりの時に起こることを知らせる、終わりの時の状態へ〔向かっている〕からである」。夕と朝の幻……真実である。あなたは……幻を隠しておけ、多くの日の後のことだから
(8・17、19、26)。
私は来た、あなたに、終わりの日にあなたの民に何が起こるか悟らせるために、依然としてその日についての幻があるからである
(10・14)。
知的な者たちは……終わりの時まで、清められ、きれいにされるために調べられる。なぜなら、依然として終わりの状態にあるからである
(11・35)。
その時に、大いなる君主ミカエルが立ち上がる、その者はあなたの民の子たちのために立つ、そのときからは国民になかったような苦しみの時がある。それでも、この時、書の中に書かれているのが見いだされるあなたのすべての民は救い出される
(12・1)。
ダニエルよ。あなたは、ことばを閉じ込めておけ、終わりの時までその書を封印せよ。けれども、常供のささげ物が取り去られ、荒す憎むべきものが与えられる時から千二百九十日〔がある〕。あなたの割り当て地で、あなたは終わりの日に立ち上がる
(12・4、9、11、13)。

「ホセア書」に、

 わたしはイスラエルの家の国を終わりにする。その日に、わたしはイスラエルの弓を折る。イズレエルの日は大いなるもの〔となる〕 (1・4、 5、11)。
その日に……あなたは、「私の夫」と呼ぶ。その日に、わたしは彼らと契約を結ぶ。その日に、わたしは聞き取る
(2・16、18、 21)。
イスラエルの子たちは戻り、神エホバを……自分の王ダビデを求める……終わりの日に
(3・5)。
(見よ、その日に、その時に、わたしは戻す
(ヨエル書3・1))
行け、私たちはエホバへ帰る……私たちを二日後に生かし、三日後に私たちを立ち上がらせる。私たちはその方の前で生きる
(6・1、2)。
天罰の日が来た、報いの日が来た
(9・7)。

「ヨエル書」に、  

ああ、日よ。エホバの日は近い、シャダイから荒廃のように来るからである(1・15)。
エホバの日が来る、暗やみと暗黒の日、雲と暗さの日は近い。エホバの日は偉大で非常に恐ろしい、だれがそれを耐えるのか?
(2・1、2、11)。
その日に、わたしは召使いと女召使いの上に、わたしの霊を注ぐ。主の大いなるまた恐ろしい日が来る前に、太陽は暗やみに、月は血に変わる
(2・29、31)
その日、その時……わたしはすべての国民を集める。エホバの日は近い。その日に、山々は新しいぶどう酒を滴らせる
(3・1、2、14、18)。

「オバデヤ書」に、  

その日に……わたしはエドムから知恵のある者たちを滅ぼす。あなたは彼らを喜ぶな、彼らの滅亡の日に……彼らの苦難の日に。なぜなら、エホバの日がすべての国の上に近づいているからである(8、12、13、14、15節)。

「アモス書」に、  

その心の強い者も……その日には裸で逃げる(2・16)。
イスラエルの背きの罪を彼らの上に審判を下すその日に
(3・14)。
わざわいあれ、エホバの日を望む者に。エホバの日とは何か?それは暗やみ、光がない。エホバの日は、暗やみ、光がないのではないか?暗黒であって、輝きがないのではないか?
(5・18、20)。
その日に、神殿の歌は泣きわめく。その日に……わたしは真昼に太陽を沈ませる。日の光の中で地を暗くする。その日に美しい処女また若者は渇きで衰える
(8・3、9、13)。
その日に、わたしはダビデのつぶれた天幕を起こす。見よ、日がやって来る……山々が新しいぶどう酒を滴らせるような
(9・11、13)。

「ミカ書」に、  

その日に……彼らは嘆き悲しむ……私たちは荒されに荒された(2・4)。
終わりの日に、エホバの家の山は山々の頂きに置かれる。その日に……わたしは足のなえた者を集める
(4・1、6)。
その日に……わたしはあなたの馬を打ちのめす、あなたの戦車を……
(5・10)。
あなたを見張る者の日、あなたの天罰〔の日〕が来る。城壁を建てる日がある。この日に、あなたにまでもやって来る
(7・4、11、12)。

「ハバクク書」に、  

幻は依然として定められた時〔まであり〕、終わりに発言する……もし延ばされるなら、それを待て。来るに来る、遅れないからである(2・3)。
エホバよ……この年のうちに、あなたの働きをしてください。この年のうちに、わたしは周知させる。……神が来られる
(3・2、3)。

「ゼパニヤ書」に、  

エホバの日は近い。エホバへのいけにえをほふる日に、わたしは君主を、王子たちを罰する。その日に……叫び声がある。その時に、わたしは明かりでエルサレムを捜す。エホバの大いなる日は近い。この日は激しい怒りの日。苦悩と抑圧の日。荒廃と破壊の日。暗やみと暗黒の日。雲と雲でおおわれた日。角笛とらっぱの音の日。エホバの激しい怒りの日に……全地は焼き尽くされる。地のすべての住民に急ぎの終局が行なわれる(1・7、8、(9、)10、12、14、15、16、18)。
まだあなたに来ないとき……主の怒りの日が。主の怒りの日に、おそらく、あなたがたは隠される
(2・2、3)。
わたしを待て……えじきへとわたしが立ち上がる日まで、なぜなら、わたしの審判〔がある〕から。その日に、あなたはあなたの働きを恥じない。その日に、エルサレムは、恐れるな、と言われる。その時に、わたしはあなたの抑圧者を滅ぼす。その時に、わたしはあなたがたを連れて来る。その時に、わたしはあなたがたを集め、あなたがたに名前と称賛を与える
(3・8、11、16、19、20)。

「ゼカリヤ書」に、  

その日に、多くの国民はエホバにつく(2・11)。
一日のうちに、わたしは地の不正を取り去る。その日に……あなたがたは、ぶどうの木の下で、いちじくの木の下で自分の仲間を呼ぶ
(3・9、10)。
それらの日に……十人の男が〔一人の〕ユダヤ人の裾をつかまえる
(8・23)。
その日に彼らの神エホバは彼らをご自分の民の群れのように救われる
(9・16)。
私の契約はその日に破られた
(11・11)。
その日に、わたしはエルサレムを、すべての民に〔とって〕荷を積む石とする。その日に……わたしはすべての馬を驚きで打つ。その日に、わたしはユダの統治者たちを、薪の中〔にある〕火の炉のようにする。その日に、エホバはエルサレムの住民を保護する。その日に、わたしはすべての国を滅ぼすことを求める。その日に、エルサレムで嘆きが増す
(12・3、4、6、8、9、11)。
その日に、ダビデの家とエルサレムの住民に泉が開かれる。その日に……わたしは地で偶像の名前を打ちのめす。その日に、預言者たちは恥じる
(13・1、2、4)。
見よ、エホバのやって来る日。その日に、その方の足はオリーブ山の上に立つ。その日に光と輝きはない。……一つの日、それはエホバに知られる。日がなく、夜がなく、夕暮れ時に光がある。その日に、エルサレムから生きている水が出る。その日に、エホバは一つに、またその方の名前は一つになる。その日にエホバ(から)の大いなる騒動がある。その日に、馬の鈴の上に、エホバの聖なるものがある。もはやエホバの家の中にカナン人はいない……その日に
(14・1、4、6、7、8、9、13、20、21)。

「マラキ書」に、  

だれがその方の来る日に耐えるのか、だれが現われるとき立つのか?わたしが行なう日に、わたしに宝のようである。見よ、かまどのような燃える日がやって来る。見よ、エホバの大いなる恐ろしい日がやって来る前に、わたしはあなたがたに預言者エリアを遣わす(3・2、17、4・1、5)。

「ダビデの書」に、  

その方の日々に、正しい者が栄え、多く平和〔がある〕。……海から海まで、川から地の果てまで治められる(詩篇72・7、8)。
(さらに他の箇所に)

主について

4◀︎目次▶︎6

5 これらの箇所の中の「日」によって、また「時」によって、主の来臨が意味されます——「暗やみの」、「暗黒の」、「暗い」、「光のない」、「荒廃の」、「不正の終わりの」、「滅亡の」「日」または「時」によって、もはや知られない時の、またここからもはや教会の何らかのものが残らない時の主の来臨が意味されます。
「残酷な」、「恐ろしい」、「激しい怒りの」、「怒りの」、「動乱の」、「天罰の」、「いけにえの」、「報いの」、「苦しみの」、「戦いの」、「叫びの」「日」によって審判のための主の降臨が意味されます。
「エホバだけが賞賛されるその日」によって、「一つとなる、またその方の名前が一つとなる」、「エホバの若枝が美しさの中に、また栄光の中にある」、「正しい者が栄える」、「生かす」、「自分の群れを捜し求める」、「新しい契約を結ぶ」、「山々は新しいぶどう酒を滴らせる」、「エルサレムから生きる水が出る」、「イスラエルの神へ向く」、また同様な多くのものの「その日」によって、新しい教会を設立するにための主の来臨が意味され、その教会はその方を「あがない主」と「救い主」と認めます。

主について

5◀︎目次▶︎7

6 これらに明らかに主の来臨について語っているいくつかの箇所を加えることが許されています、それらは——

主ご自身があなたがたにしるしを与える——見よ、処女がみごもっている、また息子を産む、その名前をインマヌエル(私たちと一緒の神)と呼ぶ(イザヤ7・14、マタイ1・22、23)。
子が私たちに生まれ、息子が私たちに与えられる。主権がその肩の上にあり、その名前を、不思議な者、助言者、神、英雄、永遠の父、平和の君と呼ぶ。主権は増し加えられ、また平和は終らない。ダビデの王座の上に、またその王国の上に、審判と義の中で、それを堅く立てるために……今から永遠まで(イザヤ9・5、6)。
エッサイの幹から若枝が出て、その根から小枝が出て実を結ぶ。……その上に、エホバの霊が休息する。知恵と知性の霊、思慮と力の霊。……正義はその腰の帯、真理はその腿の帯となる。……それゆえ、その日、民の旗であるように立っているエッサイの根を……国々は求め、休息は彼の栄光となる(イザヤ11・1、2、5、10)。
子羊を地の支配者に送れ、岩から荒野に向けて、シオンの娘の山へ。……王座が慈悲によって堅く立てられ、 ダビデの天幕の中のその上に、真理の中に、 審判をさばき、求めて、また正義を急がせて座る(イザヤ16・1、5)。
その日に言われる。見よ、これが私たちの神、その方を、私たちを救い出すように待ち望んだ。これがエホバ、その方を私たちは待ち望んだ。その方の救いの中で私たちは小躍りして喜ぶ(イザヤ25・9)。
荒野の中に呼ぶ声、エホバの道を備えよ、荒れ地で、私たちの神の大路を地ならしせよ。……というのは、エホバの栄光が現わされ、すべての肉は一緒に見るから。……見よ、主エホビは力の中にやって来る、その方の腕はその方に統治される。見よ、その方の報酬はその方とともにある。……羊飼いのように自分の群れを飼う(イザヤ40・3、5、10、11)。
わたしの選んだ者、その者をわたしの心は気に入っている……わたし、エホバは、あなたを正義の中に呼んだ……また、わたしはあなたを、民の契約の中に、国々の光の中に与える。盲人の目を開くために、牢から縛られた者を、牢獄の家から、暗やみの中に座っている者を連れ出すために。わたし、エホバは、これはわたしの名前、わたしの栄光を他の者に与えない(イザヤ42・1、6ー10)。
だれが私たちの言葉を信じ、エホバの腕はその者の上に現わされたのか? ……その方に形はない……私たちはその方を見た、しかし見栄えはしなかった。……その者は私たちの病を負った、私たちの痛みを担った(イザヤ53・1、2、4終わりまで)。
この者はだれか? その者はエドムから来る、ボズラから〔血の〕振りかけられた着物で……その大いなる力の中で進んで。……その者は、わたしが正義の中で話し、救いのために力強い〔者である〕。……なぜなら、わたしの心の中に復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからである。……それゆえ、彼らに救い主となった(イザヤ63・1、4、8)。
見よ、日がやって来る……そのとき、わたしは正しい若枝を起こし、その者は王〔として〕支配し、栄え、そして地に審判と正義を行なう。……またこれはその方の名前、その方は『エホバは私たちの正義』と呼ばれる(エレミヤ23・5、6、33・15、16)。
大いに小躍りして喜べ、シオンの娘よ。らっぱを吹け、エルサレムの娘よ。見よ、あなたの王があなたにやって来る。その者は正しい、また救う。……諸国民に平和を話す。その方の支配することは海から海まで、また川から地の果てまで(ゼカリヤ9・9、10)。
歓呼せよ、喜べ、シオンの娘よ。見よ……わたしはやって来る、あなたの真ん中に住むために……。その時、その日に、多くの国々がエホバにつき、わたしの民になる(ゼカリヤ2・10、11)。
ベツレヘム、エフラタよ、あなたはユダの数千の間にあるように小さい。あなたからわたしのために、イスラエルの中で支配者になる者が出る。その出ることは大昔から、永遠の日から〔の定め〕。……エホバの力強さの中で立ち、〔群れを〕飼う(ミカ5・2、4)。
見よ、わたしは、わたしの使いを遣わす。その者はわたしの前に道を準備する。あなたがたが求める主が急にその神殿にやって来る、そのあなたがたが望む契約の使いが、見よ、やって来る。……だれがその方の来臨の日に耐えるのか? ……見よ、わたしは、エホバの大いなるまた恐ろしい日がやって来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす(マラキ3・1、4・5)。
私は見た……見よ、天の雲とともに「人の子」がやって来るようであった。……これに支配権が与えられた。栄光、王国、すべての民、諸国、諸言語〔の者〕がその方を礼拝した。その方の支配権は永遠の支配権、それは過ぎ去らない、またその方の王国は、滅びない。……すべての支配権はその方を礼拝した、またその方に従った(ダニエル7・13、14、27)。
あなたの民の上に、またあなたの聖なる都の上に、七十週が定められている、そむきの罪を完了するために……幻と預言を封印するために、至聖所に油を注ぐために。それゆえ、知れ、知覚せよ。みことばの出ることからエルサレムの回復まで、また建築するまで、君主のメシア〔が来る〕まで七週(ダニエル9・24、25)。
わたしはその方の手を海の中に、またその方の右手を川の中に置く。彼はわたしを呼ぶ、「あなたは私の父、私の神、また私の救いの岩」。さらにまた、わたしはその方を長子とし、地の王たちよりも高い者とする。……わたしはその方の子孫を永遠の中に、またその方の王座を天の日々のように置く(詩篇89・25ー27、29)。
エホバは私の主に言った、「わたしの右手に座れ、あなたの敵をわたしがあなたの足の足台に据える時まで。あなたの力強い笏をエホバはシオンから送る、あなたの敵たちの真ん中で統治せよ。……あなたは、メルキゼデクの様式にならって、永遠に祭司である(詩篇110・1、2、4。マタイ22・44。ルカ20・42)。
わたしは、わたしの王に油を注いだ。わたしの神聖なる山、シオンの上で。わたしは法令について知らせる。エホバはわたしに言った。「あなたはわたしの息子、今日、わたしはあなたを生んだ。……わたしは国々をあなたの相続財産として与える、また地の果てまだ、あなたの所有物として。……あなたがたは息子に口づけせよ、怒られないように、あなたがたが道の中で滅びないように。……幸いだ、その方に信頼するすべての者は」(詩篇2・6ー8、12)。
確かに、その方は、あなたは天使たちよりも少しばかり欠けていることをした。しかし、その方に栄光と誉れの冠をいだかせた。あなたはその方に支配することをさせた、あなたの手の働きの上に。すべてのものはその方の足の下に置かれた(詩篇8・5、6)。
エホバよ、ダビデを思い出してください。その者はエホバに誓い、ヤコブの力ある者に誓いました。もし私が私の家の天幕の内に入ったなら、もし私の寝床の長椅子の上に私が上ったなら、もし私の目に眠りを私が引き渡したなら……それでも私はエホバに場所を、ヤコブの力ある者に住まいを見いだします。見よ、私たちはエフラタでそれについて聞き、私たちはそれを森の野の中で見いだした。私たちはその住居の中に入る、私たちは、その足の足台に腰をかがめる。……あなたの祭司たちは義をまとう。あなたの聖徒たちは歓呼する(詩篇132・1ー9)。

しかし、引用されたこれらのものはわずかです。

主について

6◀︎目次▶︎8

7 聖書の全体は主だけについて書かれていることは、続くものから、特に、小著『聖書について』の中で提示されるものから、十分に明らかです。みことばの神聖さは、ここからであり、また別の出所からではなく、このことは「黙示録」の次のことばによってもまた意味されます、

イエスの証しは預言の霊です(19・10)。

主について

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(2) 主が律法のすべてのものを成就されたとは、 主がみことばのすべてのものを成就されたことである

8 今日、主について律法を成就されたことが言われていることは、〔主が〕十戒のすべての戒めを成就されたこと、またこのように義とされ、そして世の人間もまた〔その〕信仰によって義とされたことである、と多くの者により信じられています。
しかしながら、それは意味されません。そうではなくて、前の章で言われたように、聖書はその方だけを扱っているので、その方について「律法と預言者」の中に、すなわち、聖書の全体の中に書かれているすべてを成就されたことが意味されます。
多くの者が〔これと〕異なって信じた理由は、聖書が調べられず、何が「律法」によってそこに意味されるか知らなかったからです。
「律法」によってそこに次ぎのものが意味されています、

(1) 狭い意味で、十戒の十の戒め
(2) 広い意味で、モーセによりその五書に書かれているすべてのもの
(3) 最も広い意味で、みことばのすべてのもの

(1) 狭い意味で、「律法」によって、十戒の十の戒めが意味されている
このことは、よく知られています。

主について

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9 (2) 広い意味で、「律法」によって、モーセによりその五書に書かれているすべてのものが意味される
このことは、次のこれらから明らかです——「ルカ福音書」に、

アブラハムは、地獄の中の富んだ者に言った。「彼らにはモーセと預言者がある、それらに聞け。……もしモーセと預言者に聞かないなら、たといだれかが死人から生き返ったにしても、彼らは納得しない」(16・29、31)。

「ヨハネ福音書」に、

ピリポはナタナエルに言った、「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちが書いた方に出会いました」(1・45)。

「マタイ福音書」に、

わたしが律法と預言者を廃棄するためにやって来たと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するためにやって来ました(5・17、18)。

同書に、

ヨハネまでをすべての預言者と律法が預言しました(11・13)。

「ルカ福音書」に、

律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国〔の福音〕が宣べ伝えられています(16・16)。

「マタイ福音書」に、

人々があなたがたにするように欲するどんなものでもすべてのことを、このようにまたあなたがたは彼らに行ないなさい。これが……律法と預言者です(7・12)。

同書に、

イエスは……言われた、「あなたの全部の心から、あなたの全部の霊魂から……あなたの神、主を愛せよ。……あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。律法と預言者は、これらの二つの命令にかかっています(22・37、39、40)。

それらの箇所の中で「モーセと預言者」によって、なおまた「律法と預言者」によって、モーセの書の中に、また預言者の書の中に書かれているすべてのものが意味されます。
「律法」によって特別にモーセによって書かれたすべてのものが意味されることは、さらにこれらから明らかです——「ルカ福音書」に、

モーセの律法にしたがって清めの日々が満ちて、彼らは「イエス」を主にささげるためにエルサレムへ導いた。主の律法の中に書かれているように、胎を開くすべての男の子は、主の聖なる者と呼ばれなければならず、そして主の律法の中で命じられていることにしたがって、キジバト一つがい、またはハトのひな二つのいけにえを与えるためであった。……両親はイエスを、律法の慣習にしたがってその子のために行なうために神殿の中に連れて来た。……そのとき主の律法にしたがってすべてのことをなし遂げた(2・22-14、27、39)。

「ヨハネ福音書」に、

律法の中で……モーセは……このような者を石打ちにすることを命じています(8・5)。

同書に、

律法はモーセによって与えられた(1・17)。

ここから、時には「律法」、時には「モーセ」と呼ばれることが明らかであり、そこには彼の書の中に書かれているようなものについて扱われています(例えば、マタイ8・4. マルコ10・2-4. 12・19, ルカ20・28, 37. ヨハネ3・14, 7・19, 51, 8・17, 9・7)。
命じられた多くのこともまたモーセにより「律法」と呼ばれました。例えば、

全焼のいけにえについて(レビ記6・9、7・37)
いけにえについて(レビ記6・25、7・1-11)
穀物のささげ物について(レビ記6・14)
らい病について(レビ記14・2)
ねたみについて(民数記5・29, 30)
ナジル人であることについて(民数記6・13, 21)

またモーセ自身が自分の書を「律法」と呼んでいます——

モーセはこの律法を書き、それをエホバの契約の箱を運んだレビの子たちの祭司たちに与えた——彼らに言った、「この律法の書を取り、エホバの契約の箱のそばに置きなさい」(申命記31・9、11, 26)。

そばに置いたのは、箱の内部に狭い意味での律法である石板があったからです。
その後「モーセの書」は「律法の書」と呼ばれました——

大祭司ヒルキヤは書記シャファンに言った、「私は主の宮の中で律法の書を見つけました」。……王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた(列王記Ⅱ 22・8、11、23・24)。

主について

9◀︎目次▶︎11

10 (3) 最も広い意味で、「律法」によって、みことばのすべてのものが意味される

このことは、次の箇所から明らかにすることができます——

イエスは言われた、「あなたがたの律法に『わたしは言った、あなたがたは神である』と書かれていませんか?」(ヨハネ10・34)。

これは「詩篇」82・6に書かれています。

群衆は……答えた、「私たちは、律法から、キリストは永久に生き残ること」を聞きました(ヨハネ12・34)

これは「詩篇」89・29、「詩篇」110・14、「ダニエル書」7・14に書かれています。

「彼らは理由なしに憎しみを私を持つ」と彼らの律法の中に書かれていることばが成就されるためである(ヨハネ15・25)。

これは「詩篇」35・19に書かれています。

パリサイ人たちは言った、「指導者たちのだれが彼を信じたのか?しかし、律法を知らないこの群衆は〔のろわれている〕」(ヨハネ7・48、49)。
律法の小点が落ちることよりも、天地が過ぎ去ることは容易である
(ルカ16・17)。

ここに「律法」によって聖書全体が意味されます。

主について

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11 主が律法のすべてを成就されたことは、みことばのすべてを成就されたことであり、〔そのことは〕その方により聖書が成就したこと、またすべてのものが完了したことが言われている箇所から明らかです。例えば、これらから——

イエスは会堂に入り、読むために立たれた。その時、その方に預言者イザヤの書が手渡された。書を開き、書かれている所を見つけられた。「主の霊がわたしの上に〔ある〕。貧しい者に福音をもたらすために、わたしに油を注がれたのだから。心で砕かれた者を癒すために、束縛された者に解放の福音を、また盲人に視覚をもたらすために、主の喜ばしき年を宣言するために、わたしを遣わされた」。書を巻いて、その後……言われた……「今日、この聖書が、あなたがたの耳の中で成就しました」(ルカ4・16―21)。

聖書を調べなさい……それらはわたしについて証言しています(ヨハ5・39)。

聖書が成就されます——「わたしとともにパンを食べる者が、わたしにかかとを上げた」(ヨハネ13・18)。

滅びの子でないなら、彼らからだれも滅びません、聖書が成就されるためです(ヨハネ17・12)。
「あなたがわたしに引き渡した者からひとりも滅びないように」と〔イエスが〕言われたことばが成就するためであった(ヨハネ18・9)。

イエスは(ペテロに)言われた、「あなたの剣を〔もとの〕ところに納めなさい……。それゆえ、このように行なわれなければならないなら、どのように聖書が成就されますか?……このこと……全部が行なわれた〔のは〕、預言者の聖書が成就されるためです」(マタイ26・52、54、56)。

人の子は、その方について書かれているように去ります……聖書が成就されるためです(マルコ14・21、49)。

このように「不信心な者とともに見なされた」と言われている聖書が成就した(マルコ15・28。ルカ22・37)。

「彼らはわたしの着物を自分たちで分け、わたしの下着についてくじを引いた」という聖書が成就されるためであった(ヨハネ19・24)。

この後、イエスはすべてのことが今、完了したのを知って、聖書が成就されるために……(ヨハネ19・28)。

イエスは酢を受けたとき、「完了した」と言われた(ヨハネ19・30)、すなわち、成就したのです。  このことが起こったのは、「その方の骨をあなたがたは砕かない」という聖書が成就するためであった。再び、聖書の他のところに「彼らは〔自分たちが〕突き刺した者を見る」と言われています(ヨハネ19・36、37)。

ほかに他のところに、預言者の書からの箇所が示されます、〔そこでは〕律法すなわち聖書が成就したと同時には言われていません。

みことばのすべてがその方について書かれていて、そのことを成就するために世にやって来られたことは、世を去る前に弟子たちにもまた、これらのことばで教えられました、

イエスは弟子たちに〔言われた〕、「愚かな者たち。預言者たちの話したすべてを信じない心の鈍い者たち。キリストはこのことを苦しみ、栄光に入らなくてはならなかったのではないのか?」 さらに、モーセとすべての預言者から始めて、聖書のすべての中で、ご自分について……彼らに説き明かされた(ルカ24・25―27)。

さらに、

イエスは弟子たちに言われた、「まだわたしがあなたがたとともにいたとき、わたしがあなたがに話したことばはこれらです。わたしについてモーセと預言者と詩篇に書かれているすべてのことが成就されなければなかったことです」(ルカ24・44、45)。

主が、世で、みことばの最小の部分まですべてを成就されたことは、その方のこれらのことばから明らかです、

まことに、わたしはあなたがたに言います。天と地が通り過ぎるまで、律法についてすべてが成就するまで、一点一画でも過ぎ去りません(マタイ5・18)。

これらから、今や、はっきりと見ることができます、主が律法のすべてを成就されたことによって、十戒の戒めのすべてではなく、みことばのすべてを成就されたことが意味されることです。

主について

11◀︎目次▶︎13

(3)主は、地獄を征服し、人間性を栄化するために世にやって来られた。 十字架の受難は最後の闘争であり、それによって完全に地獄に勝ち、 完全にご自分の人間性を栄化された

12 主が地獄を意味する死に勝ち、その後、栄光とともに天の中に上られたことは、教会の中でよく知られています。しかし主が試練である闘争によって、死すなわち地獄に勝ち、同時にそれによって、ご自分の人間性を栄化されたこと、また十字架の受難が最後の闘争すなわち最後の試練であり、それによって勝ち、栄化されたことはまだ知られていません。
これらについて、「預言書」に、また「ダビデの書」に多く扱われています、しかし「福音書」には、そのように多くありません。
これら〔福音書〕に、〔主が〕子供時代から被った試練は、要約して、荒野でまたその後の、悪魔からのその方の試練によって、そして、最後の試練が、ゲツセマネでの十字架の受難によって記述されました。  荒野でまたその後の、悪魔による試練については、「マタイ福音書」4・1一11、「マルコ福音書」1・12、 13、「ルカ福音書」4・1―13にあります——しかしそれらによって最後のものまでのすべてのものが意味されます。それらについて〔主は〕弟子たちに多くのことを啓示されませんでした。なぜなら、「イザヤ書」に言われているからです、

彼は強制に耐え……それでも自分の口を開かなかった。ほふり場へ向かう小羊のように……毛を刈る者の前の羊のように、黙って、自分の口を開かなかった(53・7)。

ゲツセマネでのその方の試練については、「マタイ福音書」26・34―44、「マルコ福音書」14・32―42、「ルカ福音書」22・39―46にあります。また十字架上の試練については「マタイ福音書」27・33―56、「マルコ福音書」15・22―38、「ルカ福音書」23・33―49、また「ヨハネ福音書」19・17―37〔にあります〕。試練は地獄に対する闘争以外の何ものでもありません。主の試練または闘争については、ロンドンで出版された小著『新しいエルサレムとその天界の教え』201番と302番に、また全般的に試練ついては、その187―200番にあります。

主について

12◀︎目次▶︎14

13 主が十字架の受難によって地獄に完全に勝たれたことは、その方が「ヨハネ福音書」で教えられています、

 今、この世のさばきがある。今、この世の君主が外へ追い出される(12・31)。

 このことを、主は十字架の受難が差し迫っているときに話されました。

同書に、

 この世の君主はさばかれた(16・11)。

同書に、

 信頼しなさい、わたしは世に勝ちました(16・33)。

「ルカ福音書」に、

 イエスは言われた、「わたしは、サタンが天からいなずまのように落ちるのを見ました」(10・18)。

「世」、「君主」、「サタン」、「悪魔」によって地獄が意味されます。
主が十字架の受難によってご自分の人間性を完全に栄化されたことも、「ヨハネ福音書」で教えられています、

 ユダが出た後、イエスは言われた。「今、人の子は栄化され、神はその方として栄化されます ——神がその方として栄化されるなら、神もまたその方をご自身そのものとして栄化されます。直ちにその方を栄化されます」(13・31、32)。

同書に、

 父よ、時が来ました。あなたの子を栄化してください、あなたの子もまたあなたを栄化するためです(17・1、5)。

同書に、

 「今、わたしの魂は騒いでいる」。また言われた、「父よ、あなたの名前を栄化してください」。天から声が出た、「わたしは栄化した、再びわたしは栄化する(12・27、28)。

「ルカ福音書」に、

 キリストは、このことを被り、自分の栄光の中に入るのではなかったのですか?(24・26)。

これらは受難について言われています——栄化は神性と人間性の結合です。それゆえ「神はその方をご自身そのものとして栄化される」と言われています。

主について

13◀︎目次▶︎15

14 主が、天界の中のすべてのものとここから地上のすべてのものを整えるために世に来られたこと、またこのことをその時、世にやって来て、世から去るすべての人間を攻撃した地獄に対する闘争によってなし遂げられたこと、またそれによって義をなし遂げ、そして人間を救われたこと、主はそのことなしに救うことがおできにならなかったことが、「預言書」の多くの箇所に予言されています。それらのいくつかだけを示します。
[2]「イザヤ書」に、

 エドムから来る者、血の振りかけられた衣服でボズラから来る者、この者は自分の衣に誉めるべきものがあり、自分の大いなる力の中で進み行く、この者はだれか?義の中で話し、救いに向けて力強いその者は、わたしだ。
なぜ、あなたの衣は赤く、あなたの衣は酒ぶねの中で踏む者のようなのか?わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ、民にわたしと一緒の男はいない。このために、わたしは彼らをわたしの怒りの中で踏んだ、彼らをわたしの憤りの中で踏みにじった。ここから、彼らの勝利がわたしの衣の上に振りかけられた……。なぜなら、わたしの心の中に復讐の日が、わたしのあがないの年がやって来るからである。……わたしの腕がわたしに救いをもたらした……。わたしは彼らの勝利を地に下げることをした。……その方は言われた、「見よ、彼らはわたしの民、息子たち」……。それゆえ、彼らに救い主となられた。……自分の愛のために、自分の慈悲深さのために、その方は彼らをあがなわれた」
(63・1―9)。

これらは地獄に対する主の闘争についてです——その中に誉むべきものがあり、赤い「衣」によってユダヤの民から暴力が加えられたみことばが意味されます——地獄に対する闘争そのものが、またその勝利が「彼らを自分の怒りの中で踏んだ、彼らを自分の憤りの中で踏みにじった」ことによって述べられています。固有の力からひとりで闘争したことが、「民にわたしと一緒の男はいない、わたしの腕がわたしに救いをもたらした、わたしは彼らの勝利を地に下げることをした」によって述べられています。そのことによって救い、あがなわれたことが「それゆえ、彼らに救い主となった。自分の愛のために、自分の慈悲深さのために、その方は彼らをあがなわれた」によって述べられています。このことがその方の来臨の理由であったことは、「わたしの心の中に復讐の日が、わたしのあがないの年がやって来る」によって述べられています。
[3]同書に、

 その方は、だれもいないことを見、とりなす者がいないことに驚いた。それゆえ、自分の腕が救いをもたらし、その方の義が立たせた。ここから〔主は〕義をよろいのように着、救いのかぶとを自分の頭に〔かぶり〕、復讐の衣を着、外套をねたみのように自分に編み込んだ。……その時、シオンにあがない主がやって来る(59・16、17、20)。

これらもまた、主が世におられたとき、地獄に対するその方の闘争についてです——固有の力だけから地獄に対して闘争したことが「その方はだれもいないことを見た、それゆえ、自分の腕が救いをもたらした」によって意味されます。ここから義をなし遂げたことが「その方の義がその方を立たせ、そこから義をよろいのように着た」によって、このようにあがなうことが「その時、シオンにあがない主がやって来る」よって意味されます。
[4]「エレミヤ書」に、

彼らは狼狽させられた……彼らの強い者は打たれた……逃げに逃げた、振り向きもしなかった。……その日は万軍の主エホビの日、最後の日、自分の敵について復讐をするための日。剣は食い尽し、満足させられる(46・5、10)。

地獄との主の闘争、またその勝利は「狼狽させられた」こと、「彼らの強い者は打たれ、逃げに逃げ、振り向きもしかった」ことによって述べられています。「彼らの強い者」と「敵」は地獄です、そこのすべての者は主に憎しみを持っているからです。さらに世へのその方の来臨が、「その日は万軍の主エホビの日、最後の日、自分の敵について復讐をするための日」によって意味されます。
[5]「エレミヤ書」に、

 その日に、若者は街路の中で倒れ、すべての戦士は斬り倒される(49・26)。

「ヨエル書」に、

 エホバは声を出された……自分の軍勢の前で。……エホバの日は偉大で、非常に恐ろしい。それゆえ、だれがそれに耐えるのか?」(2・11)。

「ゼパニヤ書」に、

 エホバの生けにえの日に、わたしは君主、王国の息子、外国人の衣服をまとったすべての者を罰する。……この日は、苦しみの日……角笛とらっぱの音の日(1・8、9、15、16)。

「ゼカリヤ書」に、

 エホバは出て来られる。戦いの日の中で、国々の前で戦われる……その方の戦うことの日のように。……その日、その方の足は、エルサレムの顔の前のオリーブ山の上に立つ。……その時、あなたがたは、わたしの山々の谷の中に逃げる。……その日に、光と輝きはない。……けれども、エホバは全地の上に王となられる。その日に、エホバはひとり、その方の名前は一つとなる(14・3―6、9)。

これらの箇所の中にも主の闘争について扱われています——「その日」によってその方の来臨が意味されます。主はいつも「エルサレムの顔の前のオリーブ山」に滞在されました。(マルコ13・3、14・26。ルカ21・37、22・39。ヨハネ8・1。また他の箇所参照)。
[6]「ダビデの書」に、

 死の綱が私を取り囲んだ……地獄の綱が私を取り囲んだ、死のわなが私に立ち向かった。……それゆえ、〔主は〕矢を放ち……多くのいなずまで彼らを混乱させられた。私は私の敵を追う、私は彼らをつかまえ、私が滅ぼす時まで、私は戻らなかった……。私は彼らを打ちのめす、再び立ち上がることができないように。……あなたは戦いのために私に力強さをおびさせ……あなたは与えられる……敵を……逃走の中へ……私は彼らを、風の顔の前のちりのように、街路の泥のように粉砕し、彼らを細かくする(詩篇18・4、5、14、37―40、42)。

取り囲み、立ち向かった「綱」と「死のわな」は、試練を意味します。それらは地獄からであるので、「地獄の綱」とも呼ばれています。
その「詩篇」全体の中でこれらや他のものは主の闘争と勝利について扱っています。それゆえ、さらにまた言われています、

あなたは、私を国々の頭に置きます。私の知らなかった民が、私に仕えます(43節)。

[7] 「ダビデの書」に、

 剣を腿の上に帯びよ、力強い者よ。……あなたの矢は鋭い、民はあなたの下に倒れる、王の敵の心臓の中で。あなたの王座は……永久に、また永遠に。……あなたは義を愛した。それゆえ、神は、あなたに油を注がれた(詩篇45・3、5―7)。

これらもまた地獄との闘争について、それらの征服についてです。なぜなら、その詩篇全体で、主について扱われているからです。すなわち、その方の闘争、その方の栄化、その方による忠実な者の救いについて扱われています。「ダビデの書」に、

 火がその方の前から出る……その方の周囲の敵を燃やす。……地は見、恐れる。山々は……ろうのように溶ける、全地の主の前に。諸天はその方の義を告げ、すべての民はその方の栄光を見る(詩篇97・3―6)。

同じく、この「詩編」の中に主について、また同様のことについて扱われています。
[8]「ダビデの書」に、

 エホバは私の主に言われる、「わたしがあなたの敵をあなたの足台に据えるまでは、わたしの右に座りなさい。……あなたの敵の真ん中で支配しなさい。……あなたの右の主は、怒りの日に王たちを打たれる。……しかばねで満たし、多くの地の上で頭を打たれる(詩篇110・1、2、5、6)。

 これらが主について言われていることは、主ご自身のみことばから明らかです(マタイ22・44、マルコ12・36、ルカ20・42)。
「右に座ること」によって全能が意味され、「敵」によって地獄が、「王たち」によってそこの悪の虚偽の中にいる者が、「彼らを足台に据えること」「怒りの日に打つこと、しかばねを満たすこと」によって彼らの力を滅ぼすことが意味され、「多くの地の上で頭を打つこと」によってすべてのものを滅ぼすことが意味されます。
[9]天使のだれかの助けなしに、主おひとりが地獄に勝たれたので、それゆえ、〔主は〕「英雄」また「戦いの男(戦士)」(イザヤ42・13)、「栄光の王」「力あるエホバ」「戦いの英雄」(詩篇24・8、10)、「ヤコブの力ある者」(詩篇132・2)、そして多くの箇所で「エホバ・ゼバオス」すなわち「万軍のエホバ」と呼ばれています。そしてまた、その方の来臨は前に引用された箇所(4番)から見られることができるように、「エホバの恐ろしい日」「残酷な日」「憤りの」「激しく怒る」「怒りの」「復讐の」「滅びの」「戦いの」「角笛の、らっぱの」「騒動の日」と呼ばれています。
[10]世におられたとき、主による最後の審判は、地獄との闘争とその征服によって行なわれたので、それゆえ、多くの箇所で、成し遂げられるべき審判について扱われています——例えば、「ダビデの書」に、

 エホバは地をさばくために来られる。義をもって世界をさばき、真理をもって民をさばかれる(詩篇96・13)。

このように多くの箇所にあります。これらはみことばの預言書からです。
[11]けれども、みことばの歴史的なものの中に、いろいろな国民とのイスラエル民族の戦いによって同じようなことが表象されています——なぜなら、みことばの中に書かれているすべてのことは、預言的なものも歴史的なものも、主について書かれていからです。ここから、みことばは神的なものです。
イスラエル教会の祭儀の中に、例えば、全焼のいけにえやいけにえ、さらに安息日や彼らの祝祭、そしてアロンやレビの祭司職の中に、主の栄化の多くの秘義が含まれています。同様に、ほかにも「モーセの書」の中にあり、それらは「律法」「審判」「法令」と呼ばれています。このことが弟子たちへの主のみことばによっても意味されています、

 主は「モーセの律法の中にご自分について書かれているすべてのことを成就しなければならない」ことです(ルカ24・44)。

なおまた、ユダヤ人たちに、

 「モーセはご自分について書いた」と言われています(ヨハネ5・46)。

[12]これらから、今や、主が地獄を征服し、ご自分の人間性を栄化するために世にやって来られたこと——また十字架の受難が最後の闘争であり、それによって地獄に完全に勝ち、人間性を完全に栄化されたことが明らかです。
しかしこの事柄について多くのものが続く小著『聖書について』の中に見られ、そこに、地獄との主の闘争とその勝利について、すなわち同じことですが、世におられたとき、その方により行なわれた最後の審判について、なおまた受難とその方の人間性の栄化について扱われている預言的なみことばからのすべての箇所が一つの中に集められています。それらは、もし示されるなら、〔何枚もの〕紙面を満たすほどのものです。

 

主について

14◀︎目次▶︎16

(4) 主は、十字架の受難によって罪を取り除かれたのではなく、それを負われた

15 教会内のある者は、「主は十字架の受難によって罪を取り去り、そして父に贖罪をなし、このようにあがなわれた」ことを——さらにまた、その方への信仰を持っているある者は、「主は自分たちの罪をご自分の中に移し、負い、そして海の深みの中へ、すなわち、地獄の中へ、投げ込まれた」と信じています。
それらを、イエスについてのヨハネのことばによって自分自身のもとに確信しています、

 見よ、世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1・29)。

また、「イザヤ書」の主のことばによって、

 彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。……私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの不正のために打たれ、私たちの平和のための懲らしめが彼の上にある。……その方を傷つけることで、健康が私たちに与えられた。……エホバは私たちのすべての不正をその方に負わせた。強制に耐えた、そしてまた苦しめられた、それでも、自分の口を開かなかった。小羊のように屠殺場へ導かれた。……生ける者の地から断たれ、私の民のそむきの罪のために、彼に打撃があった。不信心な者たちにその墓を、富む者にその死を与えるために。……自分の魂の苦闘を見て、満足する。自分の知識によって多くの者を義とし、この理由で、その方は彼らの不正を担う。……死にまでも自分の魂を吐き出し、そむいた者たちとともに数えられ、多くの者の罪を負い、そむいた者たちのためにとりなした(53・4〔から〕終わりまで)。

これらが、主の試練について、またその受難について言われています。そして「罪と病を負うこと」によって、そして「私たちのすべての不正をその方に負わせること」によって、「痛みと不正を担うこと」によって同様なものが意味されています。
[2]そこで最初に「不正を担うこと」によって何が、またその後、「それらを取り除くこと」によって何が意味されるか述べます。
「不正を担うこと」によって、きびしい試練に耐えること、なおまた、ユダヤ人たちがその方に行なったように、そのようにみことばに行なった、またその方が同様に扱われることを許容すること以外に何らかのものは意味されません、その方がみことばであったからです——というのは、その時、ユダヤ人たちのもとにあった教会は、完全に荒廃したものであったからです。真理の何らかのものが残らないまでも、みことばのすべてのものをゆがめたことによって荒廃させました。それゆえ、彼らは主を認めませんでした——このことが主の受難のすべてのものによって理解され、意味されます。
預言者たちに同様に行なわれたのは、彼らがみことばに関して、またここから教会に関して主を表象し、主自身が預言者であられたからです。
[3]主自身が預言者であられたことは、次の箇所から明らかです——

 イエスは言われた……「預言者は、自分の故郷で、自分の家で尊ばれません」(マタイ13・57、マルコ6・4、ルカ4・24)。
 イエスは言われた、「預言者がエルサレムの外で死ぬことはふさわしくありません」(ルカ13・33)。
 彼らはイエスについて言った、「彼はナザレからの預言者だ」(マタイ21・11。ヨハネ7・40、41)。
 神をほめたたえて、「大預言者が自分たちの間に起こった」と言って、恐れがすべての者を捕えた(ルカ7・16)。
 預言者が仲間の真ん中から起こされる、彼のことばに服従しなければならない(申命記18・15―19)。

預言者たちに似たことが行なわれたことは、今から続く次のものから明らかです。  預言者イザヤに、しるしと前兆として、自分の腰から麻布を解き、自分の足から履き物を脱ぎ、そして三年、裸で、はだしで行くこと(イザヤ20・2、3)によって教会の状態を表象するよう命じられました。
[4]預言者エレミヤは教会の状態を表象するために、自分に帯を買い、自分の腰の上に置き、水に通さず、それを、ユーフラテス川の近くの岩の隙間の中に隠すことを命じられ、数日後、腐っているのが見つかりました(エレミヤ13・1―7)。
さらにまた同じ預言者は、その所で自分に妻をめとらず、嘆きの家の中に入らず、そして嘆き叫ぶために出かけず、宴会の家の中に入らないことによって教会の状態を表象しました(エレミヤ16・2、5、8)。
[5]預言者エゼキエルは教会の状態を表象するために、床屋のかみそりを、自分の頭を、自分のあごひげを通過させ、その後、それらを分け、三分の一の部分を都の真ん中で燃やし、三分の一を剣で打ち、三分の一を風の中に追い散らし、それらから一部分をすそに結びつけ、最後に、火の中央に投げ込み、燃やせと命じられました(エゼキエル5・1―4)。
同じ預言者は、教会の状態を表象するために、移住の荷物をつくり、イスラエルの子らの目の中で他の場所の中に移住し、荷物を昼間に引き出し、夕に壁の掘り抜かれたところを通って出て行き、そして地を見ないよう顔をおおうことを命じられました。このようにイスラエルの家にとって前兆であり、その預言者は言わなければなりませんでした、

 見よ、私はあなたがたの前兆である。私がしたように、そのようにあなたがたになされる(エゼキエル12・3―7、11)。

[6]預言者ホセアは教会の状態を表象するために、娼婦を妻として自分に受け入れることを命じられ、そしてまた、受け入れ、彼女は彼に三人の子を産み、それらのひとりを「イズレエル」、もうひとりを「哀れまれない」、また三人目を「民でない」と呼びました(ホセア1・2―9)。
そして再び彼に、行って、仲間に愛されていて、姦淫する女を愛するよう命じられ、さらにまた彼女を銀十五〔シェケル〕で得ました(ホセア3・1、2)。
[7]預言者エゼキエルは教会の状態を表象するために、れんがを取り、その上にエルサレムを彫りつけ、包囲を置き、それ〔エルサレム〕に対して塁ととりでを置き、自分と都の間に鉄の平なべ置き、左脇の上に三百九十日、またその後、右脇の上に四十日横たわるよう命じられました。
なおまた、小麦・大麦・レンズ豆・キビ・裸麦を取り、それらから自分にパンを作り、それをその時、計量にしたがって食べました。
そしてまた、自分に人間の糞とともに〔焼いて〕大麦のパン菓子を作るよう命じられ、このことがないよう懇願したので、それを牛の糞とともに〔焼いて〕作るよう命じられました(エゼキエル4・1―15)。
加えて、預言者たちは他のこともまた表象しました。例えば、ゼデキヤは、鉄の角を自分〔のため〕につくりました(列王記Ⅰ 22・11)。
また、他の預言者は、打たれ、傷つけられ、そして目の上に灰を送りました〔灰で隠しました〕(列王記Ⅰ 20・35、37、38)。
[8]全般的に、預言者たちは文字どおりの意味である「毛衣」によって、最終的な意味の中のみことばを表象しました(ゼカリヤ13・4)。
それゆえ、エリヤは、このような下着をつけ、そして腰のまわりに皮製の帯を締めました(列王記Ⅱ 1・8)。
同様にバプテスマのヨハネは、ラクダの毛からの衣服を着、また自分の腰のまわりに皮製の帯を締め、イナゴと野蜜を食べました(マタイ3・4)。
これらから、預言者は教会とみことばの状態を表象したことが明らかです。というのは、一方を表象する者は、さらにまたもう一方も表象するから、なぜなら、教会はみことばからであり、生活と信仰はその受け入れにしたがっているからです——それゆえ、〔新旧〕両契約の中に名前を挙げられている「預言者」によっても、みことばからの教会の教えが意味されます。

主について

15◀︎目次▶︎17

16 みことばからの教会の状態が預言書の中で表象されるべきものであり、それが「民の不正と罪を担うこと」によって意味されています。
このようであることは、預言者イザヤについて言われているものから明らかです、

しるしと前兆として裸とはだしで三年、行くこと(イザヤ20・3)。

預言者エゼキエルについて、

移住の器を引き出し、地を見ないように顔をおおい、このようにイスラエルの家に前兆であったこと、そしてまた、「見よ、私はあなたがたの前兆〔である〕」と言ったこと(エゼキエル12・6、11)。

[2]このことが彼らにとって不正を負うことであったことは、「エゼキエル書」で、彼らが、エルサレムに対して左脇と右脇の上に三百九十日また四十日横たわること、そして牛の糞とともに〔焼いた〕大麦で作られた菓子パンを食べることを命令されているとき、はっきりと明らかです。
そこに、さらにまたこれらが読まれます——

あなたは、あなたの左脇の上に横たわり、イスラエルの家の不正をその上に置け。日の数によって、あなたはそれらの上に横たわり、彼らの不正を負わなくてはならない。なぜなら、わたしは、あなたがイスラエルの家の不正を負うために、彼らの不正の年を、三百九十日の日の数にしたがって、あなたに与えるから。けれども、あなたがこれらのことを終えたとき、次に、あなたが四十日ユダの家の不正を負うために、あなたはあなたの右脇の上に横にならなければならない(エゼキエル4・4―6)。

[3]その預言者は、このようにイスラエルの家とユダの家の不正を担うことによって、それらを取り去らず、このように償わず、しかし単に表象し、示したことは、そこに続くものから明らかです——

このようにエホバは言われる、「イスラエルの子らは、わたしが彼らを追い払う国々の間で、汚れた自分のパンを食べなければならない」。……「見よ、わたしは、エルサレムの中でパンの杖を折っている……パンと水で不足し、男とその兄弟は見捨てられ、彼らの不正のためにやせ衰えるようになる」(同じ章の13、16、17節)。

[4]同じ預言者が自分自身を示して、言ったときも同様です、

「見よ、私はあなたがたの前兆〔である〕」さらにまた言われた、「わたしがしたように、そのようにあなたがたにされる」(エゼキエル12・6、11)。

そこで、主について同様のものが意味され、そこに言われています、

彼は私たちの病を負った。……私たちの痛みを担った。……エホバは私たちのすべての不正をその方に負わせることをされた。……自分の知識によって多くの者を義とした、彼らの不正をその方が担うことによって(イザヤ53・4、6、11)。

そこの全章に主の受難について扱われています。
[5]〔主〕ご自身が最大の預言者として、みことばに関する教会の状態を表象したことは、その方の受難の個々のものから明らかです——例えば、ユダにより裏切られた。祭司長と長老により捕えられ、有罪とされた。殴打をくわえられた。頭をアシ(葦)で打たれた。いばらからできた冠をかぶされた。その方の衣服が分けられ、下着についてくじ引きされた。はりつけにされた。飲むようにとその方に酢が与えられた。脇腹が刺された。葬られ、三日目によみがえられたことです。
[6]「ユダにより裏切られた」ことは、ユダヤ国民のもとにみことばがあったその国民からであったことを意味しました。なぜなら、ユダはユダヤ国民を表象したからです。「祭司長と長老により捕えられ、有罪とされた」ことは、そのすべての教会からそうされたことを意味しました。「むち打ち、顔につばを吐きかけ、殴打をくわえ、頭をアシ(葦)で打った」ことは、神的真理に関して、それらすべてが主について扱っているみことばに同様に行なわれたことを意味しました。「いばらからできた冠をかぶった」ことは、それらを虚偽化し、不純化したことを意味しました。「その方の衣服を分け、下着についてくじを引いた」ことは、みことばのすべての真理を消散させたこと、しかしその霊的な意味は消散させなかったことを意味しました。「主の下着」は、みことばの霊的な意味を意味した〔からです〕。「はりつけにした」ことは、みことば全部を破壊し、冒涜したことを意味しました。「飲むようにとその方に酢を与えた」ことは、まったく虚偽化され、虚偽となったことを意味しました。それゆえ、それを飲まなかった、またその時、「完了した」と言いました。「脇腹を刺した」ことは、みことばのすべての真理を、またそのすべての善を完全に消滅させたことを意味しました。「葬られた」ことは、母からの人間の残余を捨てることを、「三日目に、よみがえった」ことは、栄化を意味しました。
[7]同様のことが、「預言書」と「ダビデの書」に予言されているものによって意味されます。  そのために、むち打たれ、いばらの冠をかぶって引き出され、兵士たちにより紫色の以服を着せられた後、〔ピラトは〕「見よ、人間」(ヨハネ19・1、5)と言ったのです——このことが言われたのは、「人間」によって教会が意味されるからです。というのは、「人の子」によって、教会の真理が、そのように、みことばが意味されるからです。
これらから今や、「不正を負うこと」によって、みことばの神的真理に対する罪を自分自身の中に表象することと映し出すことが意味されることが明らかです。
主が「神の子」としてでなく「人の子」として、このようなことを受け、被られたことは続くものの中で見られます。というのは、「人の子」は、みことばに関する主を意味するからです。

主について

16◀︎目次▶︎18

17 さて、「罪を取り去ること」によって何が意味されるか、述べます。
「罪を取り去ること」によって、人間をあがない、救うことと同様のことが意味されます。なぜなら、主は、人間を救うことができるようにと世にやって来られたからです。その方の来臨なしに、死すべきだれであれ改心し、再生することが、したがって、救われることができませんでした。しかしこのことは、主が悪魔の力、すなわち、地獄の力のすべてを取り除き、ご自分の人間性を栄化された後に、すなわち、自分の父の神性と結合された後にできます——もしこのことが行なわれなかったなら、人間はだれも自分のもとに残るような何らかの神的真理を、まして何らかの神的善を受けることができなかったでしょう。なぜなら、悪魔の力が、それ以前はまさっていて、それらを〔人間の〕心から引き離してしまったであろうからです。
[2]これらから、主が十字架の受難によって罪を取り除かなかったこと、しかしその方を信じ、その方の戒めにしたがって生きる者のもとでそれを取り除くこと、すなわち、遠ざけることが明らかです——主もまた「マタイ福音書」に教えられているように、

わたしが律法と預言者を廃止するためにやって来たと思ってはなりません。……これらの戒めの最小のものを廃止し、そのように人々に教える者はだれでも、天の王国の中で最小の者と呼ばれます。けれども、行なって、教える者は、天の王国の中で偉大な者と呼ばれます(5・17、19)。

[3]だれでも、実際の悔い改めによらないなら、罪は人間から取り去られることができないことを、何らかの照らしの中にいさえすれば、理性だけから見ることができます。その悔い改めとは、人間が自分の罪を見、そして主の助けを切願し、それらから離れることです。
〔これ以外の〕他のことを見、信じ、教えることは、みことばからではなく、健全な理性からでもなく、人間のプロプリウムである欲望と邪悪な意志からであり、知性はそれらから愚鈍にされます。

主について

17◀︎目次▶︎19

(5)主の功績の転嫁は、悔い改めの後の罪の許し以外の何ものでもない  

18 教会の中で、「主は人類をあがなうために父から遣わされた。このことが律法の成就によって、十字架の受難によって行なわれ、このように断罪を取り除き、あがなわれた。その償い、弁償(贖罪)、和解なしに、人類は永遠の死で滅んでしまったであろう、このことはある者たちにより報復と呼ばれている義からである」と信じられています。
主の来臨なしに、世の中のすべての者が滅んでしまったであろうことは真理です。しかし主が律法のすべてを成就したことはどのように理解すべきであるか、さらにまたなぜ十字架(刑)を被ったのか、それらについて前の章の中に見られます——それらから何らかの報復的な義からでなかったことを見ることができます、これは神性に属性づけられることができないからです。
神性の属性は義・愛・慈悲・善であり、神は義そのもの・愛そのもの・慈悲そのもの・善そのものです。これらがあるところに何らかの報復的なものはなく、このように報復的な義はありません。
[2]律法の成就と十字架の受難について、主がそれらの二つのことによって人類のためにあがなわれたこと、また人類に先見されまたは予定された断罪を取り去られたことだけが今まで多く者により理解されていたので、その関連からまた同時に原理から、人間はそのようであるという信仰のみから救われるという主の功績の転嫁についての教義が生じました、〔この教義は〕主の功績であったそれら二つのことを贖罪(あがないのわざ)として受け入れられています。
しかしこの教義は、主の律法の成就について、またその方の十字架の受難について言われたことから崩壊します。また同時に、功績の転嫁がよって悔い改めの後の罪の許しが意味されないなら、何の事柄ともならない言葉であることを見ることができます——なぜなら、主の何らかのものは人間に転嫁されることができないからです。しかし人間が悔い改めを行なった後に、すなわち、自分の罪を見て、認めた後に、またその後、それらから離れ、このことを主から行なった後に、救いが主によりもたらされることができます。
その時、人間に救いが、彼が自分の功績からまたプロプリウム(自己のもの)の義から救われるのではなく、地獄と戦い、勝利し、その後もまた人間のために戦い、彼のために地獄に勝利する主から、そのことだけからもたらされます。
[3]これらは主の功績と義であり、決して人間に転嫁されることができません。なぜなら、もし転嫁されたなら、主の功績と義は、人間に自分のもののようにされたからです。また、このことは決して生じないし、生じることもできません。
もし転嫁がありえたなら、悔い改めないで不信心な人間が、主の功績を自分自身に転嫁することができ、そのことから自分自身が義とされると考えたでしょう、それでもそのことは聖なるものを冒涜で汚し、主の名前を冒涜することです。なぜなら、思考を主へ保ち、意志を地獄へ保つことになるからです、それでも意志は人間のすべてのものです。
神のものである信仰があり、人間のものである信仰があります——悔い改めを行なう者は神のものである信仰を持っています、けれども、悔い改めを行なわない者は人間のものである信仰を持っており、やはり転嫁について考えています。そして、神のものである信仰は生きた信仰です、しかし、人間のものである信仰は死んだ信仰です。
[4]主ご自身とその方の弟子たちが悔い改めと罪の許しを宣べ伝えたことは続く次のものから明らかです——

 イエスは宣べ伝え始められ、言われた。「悔い改めなさい。天の王国が近づいたから」(マタイ4・17)。
 ヨハネは言った、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい……すでに斧は木の根元に置かれています。すべての……よい実を結ばない木は、切り倒され、火の中に投げ込まれます」(ルカ3・8、9)。
 イエスは言われた、「あなたがたは悔い改めを行なわないなら……あなたがたすべての者は滅びます(ルカ13・3、5)。
 イエスは……神の国の福音を宣べて……言って……「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めを行ない、福音を信じなさい」(マルコ1・14、15)。
 イエスは弟子たちを「出て行って、悔い改めを行なうよう宣べ伝える」ために遣わされた(マルコ6・12)。
 イエスは使徒たちに、彼らは「その方の名前によって、悔い改めと罪の許しを、エルサレムから始めて、すべての国民に宣べ伝えなければならない」と言われた(ルカ24・47)。
 ヨハネは、「罪の許しに向けて悔い改めのバプテスマ」を宣べ伝えた(ルカ3・3。マルコ1・4)。

[5]「バプテスマ」によって罪から霊的に洗うことが意味され、再生と呼ばれます。
悔い改めと罪の許しは、主によりこのように「ヨハネ福音書」に述べられています、

ご自分のものに来られた、しかしご自分のものはその方を受け入れなかった。けれども、受け入れたと同数の者に、その方の名前を信じて神の子であったような者に、力を与えられた。その者は血からでも、肉の意志からでも、男の意志からでもなく、神から生まれたのである(1・11―13)。

ご自分のもの」によって、みことばがそこにあったその当時の教会からの者が意味されます。「神の子」と「その方の名前を信じる者」によって、主を信じる者とみことばを信じる者が意味されます。「」によって、みことばの虚偽化が、またそのことによって虚偽の確信が意味されます。「肉の意志」は、人間の意志のプロプリウム(固有のもの)であり、それは本質的に悪です。「男の意志」は人間の知的なプロプリウム(固有のもの)であり、それは本質的に虚偽です。「神から生まれた者」は、主により再生された者です。
これらから、主からの愛の善の中に、信仰の真理の中にいる者は救われ、プロプリウムの中にいる者は救われないことが明らかです。

主について

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(6)主は神的人間性に関して「神の子」と呼ばれ、 みことばに関して「人の子」と呼ばれる

19 教会の中で、「神の子」が父の位格(ペルソナ)から区別された神性の第二の位格(ペルソナ)であること以外に何らかのことは知られていません。ここから、永遠から生まれた「神の子」についての信仰があります。
このことは普遍的に受け入れられているので、神について、そのことについて何らかの理解力から、このように、何が永遠から生まれるかについて考えることさえ、機会そして容赦が与えられていません——なぜなら、そのことについて理解力から考える者は、すべての点で自分自身に、「このことは〔理解力を〕超えています。しかしそれでも、〔他の者が〕言っているので私は言い、また〔他の者が〕信じているので私は信じます」と言うからです。
しかし、永遠からの「子」は存在しないこと、しかし永遠からの主が存在することを知らなければなりません。
主がだれか、また「子」がだれか知られる時、理解力からもまた三位一体の神について考えることができます。それ以前にはできません。
[2]父エホバからみごもり、処女マリアから生まれた主の人間性が「神の子」であることは、続く次のものからはっきりと明らかです——「ルカ福音書」に、

ナザレという名前のガリラヤの町に、ダビデの家からのヨセフという名前の男と婚約した処女へ、天使ガブリエルが神から遣わされた。けれども処女の名前はマリヤ。天使が彼女のもとに入ったとき言った、「おめでとう、恵みが起こった方よ。主があなたとともにいます。女たちの間で祝福された者よ」。彼女は……見て、彼の言葉に当惑し、その挨拶がどれほどのものであったか考えた。しかし天使は彼女に、「恐れることはありません、マリヤ。あなたは神のもとに恵みを見ました。……見よ、あなたはみごもっています……あなたは「子」を産み、あなたはその方の名前をイエスと呼びます。これは偉大な者となり、いと高き者の「子」と呼ばれます」と言った。……けれども、マリヤは天使に、「私は男を知らないので、どのようにこのことが起こるのですか?」と言った。それに天使は答えて言った、「聖霊があなたの上にやって来て、最も高い者の力があなたをおおいます。ここからまた、あなたから生まれる聖なる者は、「神の子」と呼ばれます」(1・26―35)。

ここに、「あなたは「子」をみごもり、産み、これは偉大な者となり、いと高き者の「子」と呼ばれる」、そして同じく、「あなたから生まれる聖なる者は、「神の子」と呼ばれる」と言われています。それらから、神からみごもり、処女マリアから産まれた人間性が「神の子」と呼ばれるものであることが明らかです。
[3]「イザヤ書」に、

主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、処女がみごもっている、「子」を産む、その方の名前を、「私たちのもとの神」と呼ぶ(7・14)。

処女から生まれ、神からみごもった「子」が「私たちのもとの神」と呼ばれる者であること、そのようにその者が「神の子」であるのは明らかです。そのこともまた「マタイ福音書」1・22、23で確認されます。
[4]「イザヤ書」に、

少年が私たちに生まれ、「子」が私たちに与えられた。その者の肩の上に主権が〔ある〕。その方の名前を、不思議な者、助言者、神、英雄、永遠の父、平和の君と呼ぶ(9・6、7)。

ここも同様です。なぜなら、「少年が私たちに生まれ、「子」が私たちに与えられた」と言われているからであり、その者は永遠からの「子」ではなく、しかし、世で生まれた「子」です。そのことはさらにまた預言者のことば、そこの第6節、またマリアへの天使ガブリエルのことば「ルカ福音書」1・32、33から明らかであり、それらも同様です。
[5]「ダビデの書」に、

わたしは法令について告げよう、エホバは言われた……「あなたは、わたしの子。今日、わたしはあなたを生んだ。……子に口づけせよ、怒られないように、また道であなたがたが滅びないように」(詩篇2・7、12)。

ここに永遠からの「子」は意味されません、しかし世で生まれた「子」が意味されます——なぜなら、来るべき主について預言されているからです。それゆえ、それについてエホバがダビデに告げた法令と呼ばれています——「今日」は〝永遠から〟ではありません、しかし〝時間の中で〟です。
[6]「ダビデの書」に、

わたしはその方の手を海の中に置く。彼はわたしを「あなたは、わたしの父……」と呼ぶ。わたしは、その方をわたしの長子とする(詩篇89・25―27)。

この「詩篇」全体に、来るべき主について扱われています。それゆえ、エホバを自分の父と呼び、長子であった方が、このように「神の子」である方が意味されます。
[7]同じく他の箇所に、そこに言われています

エッサイの幹から若枝(イザヤ11・1)。
ダビデの若枝(エレミヤ23・5、6)。
女の子孫(創世記3・15)。
ひとり子(ヨハネ1・18)。
永遠における祭司、主(詩篇110・4、5)。

[8]ユダヤ教会の中で、「神の子」によって、待ち望んだメシアが理解され、その者について、ベツレヘムで生まれることが知られていました。
「神の子」によって、彼らによりメシアが理解されたことは、次の箇所から明らかです——「ヨハネ福音書」に、

ペテロは言った、「私たちは、あなたがキリストであり、来るべき神の子であることを信じ、認めています」(6・69)。

同書に、

あなたは、世にやって来られるキリスト、神の子です(11・27)。

「マタイ福音書」に、

大祭司はイエスに、神の子キリストであるかどうか質問した。イエスは言われた、「わたしは、わたしはある」(26・63、64。マルコ14・62)。

「ヨハネ福音書」に、

これらが、あなたがたが、イエスが神の子キリストであることを信じるために書かれた(20・31。なおまたマルコ1・1)。

[9]キリストはギリシア語であり、へブル語のメシアと同様に「油を注がれた者」を意味します。  それゆえ「ヨハネ福音書」に言われています、

私たちはメシアに出会った、それは翻訳するなら、キリストです(1・41)。

また他の箇所に、

女は言った、「私はキリストと言われるメシアが来ることを知っています」(4・25)。

律法と預言者すなわち旧約聖書の全部は、主についてであることが最初の章に示されました。それゆえ、「神の子」によって、主が世でまとった人間性以外に他のものは意味されることができません。
[10]そのことから、洗礼を授けられたとき、エホバにより天界から言われた「子」によって、人間性が意味されることがいえます、

これはわたしの愛する子である。その者は、わたしの喜びである(マタイ3・17。マルコ1・11。ルカ3・22)。

なぜなら、その方の人間性が洗礼を授かったからです。また〔主が〕変容された時、

これはわたしの愛する子である。その者は、わたしの喜びである。その者に聞け(マタイ17・5。マルコ9・7。ルカ9・35)。

ほかに他の箇所にもまた(例えばマタイ8・29、14・33、27・43、54。マルコ3・11、15・39。ヨハネ1・18、34、49、3・18、5・25、10・36、11・4)。

主について

19◀︎目次▶︎21

20 「神の子」によって、世でまとった人間性に関する主が意味され、それは神的人間性であるので、主がこれほど何度も「父から世に遣わされた」、「父から出てきた」と言われたことによって何が意味されるか明らかです——「父から世に遣わされた」ことによって、父エホバからみごもられたことが意味されます。
「遣わされること」また「父から遣われる」によって他のことが意味されないことは、そこにさらにまた父の意志とその方の働きを行なうことが言われているすべての箇所から明らかです。それらの働きは、地獄に勝利し、人間性を栄化し、みことばを教え、新しい教会を設立することでした——それらは、エホバからみごもって、処女から生まれた人間性によってでないなら、すなわち、神が人とならなかったなら、行なわれることができませんでした。
「遣わされること」また「遣わされた」と言われている箇所を開きなさい、そこにあなたは見るでしょう。
(例えば、マタイ10・40、15・24。マルコ9・37。ルカ4・43、9・48、10・16。ヨハネ3・17、34、4・34、5・23、24、36、37、38、6・29、39、40、44、57、7・16、18、28、29、8・16、18、29、42、9・4、11・41、42、12・44、45、49、13・20、14・24、15・21、16・5、17・3、8、21、23、25、20・21。ほかにもまた、そこに主がエホバを「父」と呼ばれている箇所)。

主について

20◀︎目次▶︎22

21 今日、多くの者が、主について、その方の人間性についてだけ考えて、同時に神性について考えないので、自分たちと同じような普通の人間のようにしか考えていません。そのとき、それでも神性とその方の人間性は分離されることができません。というのは、主は神と人であられるからです。そして、神と人は主の中で二つではなく、しかし霊魂と身体が一つの人間であるように一つの位格です。〔これは〕キリスト教界全体の中の教えにしたがって〔いて〕、それは教会会議のものからであり、アタナシウス信条(信仰の教え)と呼ばれます。
そこで、人間が今後、思考で、主の中の神性と人間性を分離しないように、どうぞ、前に示された「ルカ福音書」からのもの、なおまた「マタイ福音書」の次のものを読んでください——

イエス・キリストの出生はこのようである——  ヨセフと婚約したその方の母は、彼らが結ばれる前に、聖霊から子宮の中に〔子を〕持っているのが見つけられた。その婚約者ヨセフは、正しい〔者であり〕、彼女を〔だれかが〕中傷することを欲しなかったので、ひそかに彼女を離縁することを欲した。けれども、彼がこれらのことを考えていたとき、見よ、主の天使が夢の中で彼に現われて、言った、「ダビデの子ヨセフ、あなたはあなたの婚約者マリヤを受け入れることを恐れないように、なぜなら、彼女の中に生まれたものは、聖霊からであるからです。息子を産みますが、あなたはその方の名前をイエスと呼ばなければなりません。その方は……自分の民を彼らの罪から救います」。……夢から目覚めたヨセフは、主の天使が彼に命じたようにし、自分の婚約者を受け入れた。しかし、自分の長子を産む時まで彼女を〔性的に〕知らず、その方の名前をイエスと呼んだ」(1・18―25)。

これらから、また「ルカ福音書」に主の出生について書かれ前に提示されたものから、父エホバからみごもり、処女マリアから生まれた「神の子」がイエスであること、その方についてヨハネまでもすべての「預言者と律法」が預言したことが明らかです。

主について

21◀︎目次▶︎23

22 主にある「神の子」が何を、また「人の子」が何を意味するか知る者は、みことばの多くの秘義を見ることができます。なぜなら、主は、扱われている事柄にしたがってどこでも、ご自分を時には「子」、時には「神の子」、また時には「人の子」と呼ばれるからです。
その方の神性・父と一つ〔であること〕・神的力・その方への信仰、その方からのいのちについて扱われている時、ご自分を「子」また「神の子」と呼ばれます(例えば、ヨハネ5・17―26、また他の箇所に)。
けれども、そこに受難・審判・来臨、また全般的にあがない・救い・改心・再生について扱われている時、ご自分を「人の子」と呼ばれます——その理由は、その時、みことばに関するその方が意味されるからです。
旧約聖書の中で、主はいろいろな名前で呼称されています。そこに、どこでも扱われている事柄にしたがって「エホバ」「ヤー」「主」「主エホビ」「万軍の主」「イスラエルの神」「イスラエルの聖なる者」「ヤコブの力ある者」「シャダイ(全能者)」「岩」なおまた「創造者」「形成者」「救い主」「あがない主」と呼ばれています——新約聖書の中でも同様に、そこのどこにでも、扱われている事柄にしたがって、「イエス」「キリスト」「神」「神の子」「子」「預言者」「小羊」などと呼ばれています。

主について

22◀︎目次▶︎24

23 主が「神の子」と呼ばれるか、これまで言いました。今や、主がどこから「人の子」と呼ばれるか、言います。
受難・審判・来臨について、また全般的に、あがない・救い・改心・再生について扱われているとき「人の子」と呼ばれます。その理由は、「人の子」が、みことばに関する主であり、そして、その方は、みことばとして苦しめられ、審判し、世にやって来て、あがない、救い、改心させ、再生させられるからです。
そのようであることは、今から、続くものから明らかにすることができます。

主について

23◀︎目次▶︎25

24 受難について扱われているとき、主は「人の子」と言われた
このことは、これらから明らかです——

イエスは弟子たちに言われた、「見よ、わたしたちはエルサレムに上ります。人の子は祭司長と書記(律法学者)に渡され、彼らはその方を死に断罪し、その方を異邦人に渡します。その方をむち打ち、その方につばを吐き、その方を殺します。それでも、第三日に、よみがります」(マルコ10・33、34)。

ご自分の受難を予言されている他の箇所も同様です(例えば、マタイ20・18、19。マルコ8・31。ルカ9・22)。

イエスは弟子たちに言われた、「見よ、時があり、人の子が罪人の手に渡されます」(マタイ26・45)。

天使は墓にやって来ている女たちに言われた、「あなたがたに話されたことを、思い出しなさい。人の子は罪ある人間の手に〔渡され〕、裏切られ、十字架に付けられ、第三日によみがえなければならないことです」(ルカ24・6、7)。

主が、その時、自分自身を「人の子」と呼ばれたのは、前に大いに示されているように、彼らがみことばに行なったように、同様に自分自身に行なわれることを許されたからです。

主について

24◀︎目次▶︎26

25 審判について扱われているとき、主は「人の子」と言われた

このことは、これらから明らかです——

人の子がご自分の栄光の中にやって来る時……その時、ご自分の栄光の王座の上に座り、そして羊を右側に、また山羊を左側に置く(マタイ25・31、33)。
人の子がご自分の栄光の王座の上に座る時、イスラエルの十二の部族をさばく(マタイ19・28)。 人の子が自分の父の栄光の中にやって来る……その時、それぞれの者にその行為にしたがって報いる(マタイ16・27)。
(あなたがたは)すべての時に目覚めていなさい……あなたがたが価値を持つように……人の子の前でしっかりと立つために(ルカ21・36)。
あなたがたは、人の子がやって来るその時を思わない〔からです〕(マタイ24・44。ルカ12・40)。
父はだれもさばかれません、しかしすべてのさばきを子に与えられました……〔子は〕人の子であるからです(ヨハネ5・22、27)。

主が、審判について扱われているとき、ご自分を「人の子」と呼ぶ理由は、すべての審判は、みことばの中にある神的真理にしたがって行なわれるからです。
これがそれぞれの者を裁くことを、その方は「ヨハネ福音書」で言われています、

もしだれかがわたしの言うことを聞いて、信じないなら、それでも、わたしはその人をさばきません、というのは、わたしは、世をさばくために来たのではないからです。……わたしが話すことばが、それが最後の日にその人をさばきます(12・47、48)。

また他の箇所に、

人の子がやって来たのは、「世をさばくためでなく……その方によって救われるためです。その方を信じる者は、さばかれません。けれども、信じない者は、すでに裁かれています、神のただひとりの子の名前を信じなかったからです」(3・17、18)。

主がだれも地獄へと裁かれないで、すなわち地獄へ投げ込まれないで、悪い霊そのものが自分自身を投げ込むことは、著作『天界と地獄』(545―550574番)にあります。
「エホバの名前」「主の名前」「神の子の名前」によって神的真理が意味され、そのようにまた、その方から、その方について、このようにその方である、みことばが意味されます。

主について

25◀︎目次▶︎27

26 その方の来臨について扱われているところで、主は「人の子」と言われた
そのことは、これらから明らかです——

弟子たちはイエスに言った、「あなたの来臨と世代の完了のしるしは何ですか?」 その時、主は教会の継続する状態を終わりまで、またその終わりについて、これらを予言された——「その時、人の子のしるしが現われます。……人の子が力と栄光とともに天の雲の中にやって来るのを見ます」(マタイ24・3、30。マルコ8・26。ルカ21・27)。

「世代の完了」によって教会の最後の時が意味されます——「栄光とともに天の雲の中への来臨」によって、みことばの開示が、またみことばがその方だけについて書かれていることの明示が意味されます。
「ダニエル書」に、

私は見た……見よ、天の雲とともに……人の子がやって来る(7・13)。

「黙示録」の中に、

見よ、雲とともに来る。すべての目はその方を見る(1・7)。

そこの第13節から明らかなように、これもまた「人の子」についてです。なおまた「黙示録」の中の他の箇所に、

私は見た。そのとき、見よ、白い雲、雲の上に人の子のような方が座っている(14・14)。

[2]主はご自分のもとのあるものを「神の子」によって、あるものを「人の子」によって意味されたことは、祭司長(大祭司)へのその方の応答から明らかです。

大祭司はイエスに言った。「私は、生きている神によって、あなたが私たちに、あなたがキリスト、「神の子」であるのか、言うようにあなたに命じます」。イエスは彼に言われた。「あなたは言った、『わたし〔はそれ〕である』。それでも、わたしはあなたがたに言います。今から、あなたがたは力の右手に座り、天の雲の中にやって来る人の子を見ます」(マタイ26・63、64)。

ここに最初に、「神の子」であることが言明され、その後、「人の子が力の右手に座り、天の雲の中にやって来るのが見られる」と言っています。それらによって、十字架の受難の後に、みことばを開くための、また教会を設立するための神的力の中におられたこと、それ以前には、地獄に勝たず、ご自分の人間性を栄化されなかったので、行なうことができなかったことが意味されます。
「天の雲の上に座ること」と「栄光の中にやって来ること」によって何が意味されるかは、著作『天界と地獄』(1番)の中に説明されています。

主について

26◀︎目次▶︎28

27 あがない・救い・改心・再生について扱われているところで、主は「人の子」と言われた
このことは、これらから明らかです——

人の子は……多くの者のために、あがないを、霊魂を与えるためやって来ます(マタイ20・28。マルコ10・45)。
 人の子は救うためにやって来ます、滅ぼすためではありません(マタイ18・11。ルカ9・56)。
 人の子は、滅んでいるものを探し、救うためにやって来ます(ルカ19・10)。
 人の子は、その方によって世が救われるためにやって来ます(ヨハネ3・17)。
善い種を蒔く者は人の子です(マタイ13・37)。

そこにあがないと救いが扱われています。それらは主により、みことばによって行なわれるので、それゆえ、そこでは、ご自分を「人の子」と呼ばれています。主は言われました、

「人の子」は罪を赦す力を持っていること(マルコ2・10。ルカ5・24)。

すなわち、救う力です。なおまた、

 「人の子」であるので安息日の主であること(マタイ12・8。マルコ2・28。ルカ6・5)。

みことばであるからです、そのことをその方はその時に教えられています。
さらに、「ヨハネ福音書」で言われました、

 滅びない食物のために、永遠のいのちの中に残る食物のために働きなさい。それを人の子はあなたがたに与えます(6・27)。

「食物」によって、みことばからの、そのように主からの、教えのすべての真理と善が意味されます——これはまた「マナ」によって、天から下った「パン」によってそこに意味されます。そしてまた、同じ章の次のことによって、

人の子の肉を食べず、その方の血を飲まないなら、あなたがたの中にいのちはありません(53節)。

「肉」または「パン」は、みことばからの愛の善であり、「血」または「ぶどう酒」は、みことばからの信仰の善であり、二つとも主からです。
[2]他の箇所に言われている「人の子」によって、似たものが意味されます。
例えば、これらの中に——

 キツネには穴が、鳥には巣があります。けれども、人の子には頭を横たえるところもありません(マタイ8・20。ルカ9・58)。

このことによって、主もまた言われたように、みことばはユダヤ人のもとにないことが意味されます(ヨハネ8・37)。その方を認めなかったので、彼らのもとに留まることもありませんでした(ヨハネ5・38、39)。
「黙示録」の中でもまた、「人の子」によって、みことばに関する主が意味されます、

 「七つの燭台の真ん中に」私は「ローブ(くるぶしまで垂れた外衣)を着て、乳に金の帯を締めた人の子に似たものを」見た(1・13以降)。

そこのいろいろなものによって、みことばとしての主が表象されています。それゆえ、さらにまた「人の子」と呼ばれています。
「ダビデの書」に、

 あなたの手が、あなたの右手の男のために、あなたで強くされた人の子のためにあります。その時、私たちはあなたから引き下がりません。私たちを生かしてください(詩篇80・17、19)。

「右手の男」は、ここでもまた、みことばに関する主です。「人の子」も同様です。主は、神的真理から、それもまたみことばであり、力があるので、「右手の男」と呼ばれ、そして、みことば全部を成就した時、神的力そのものでした——ここからもまた言われました、

 父の「右手に座っている人の子が」力とともに見られること(マルコ14・62)。

主について

27◀︎目次▶︎29

28 「人の子」が、みことばに関する主を意味することは、預言者たちもまた「人の子」と言われたからである
預言者たちが「人の子」と言われたことは、〔彼らが〕みことばに関する主を表象し、ここから、みことばからの教会の教えを意味したからです。天界の中で、そこにみことばの中で名前を挙げられている「預言者たち」によって他のものは意味されません。というのは、「預言者たち」さらにまた「人の子」の霊的な意味は、みことばからの教会の教えであり、主について〔「人の子」が述べられている〕とき、みことばそのものであるからです。

預言者ダニエルが「人の子」と呼ばれたことは、その書物に見られます(ダニエル8・17)。  預言者エゼキエルが「人の子」と呼ばれたことは、その書物に見られます(エゼキエル2・1、3、6、8、3・1、1、4、17、25、4・1、16、5・1、6・2、7・2、8・5、6、8、12、15、11・2、4、15、12・2、3、9、18、22、27、13・2、17、14・3、13、15・2、16・2、17・2、20・3、4、27、46、21・2、6、9、12、14、19、28、22・18、24、23・2、3、6、24・2、16、25、25・2、26・2、27・2、28・2、12、21、29・2、18、30・2、21、31・2、32・2、18、33・2、7、10、12、24、30、34・2、35・2、36・1、17、37・3、9、11、16、38・2、14、39・1、17、40・4、43・7、10、18、44・5)。

これらから今や、神的人間性に関する主が「神の子」、またみことばに関する〔主が〕「人の子」と言われることが明らかです。

主について

28◀︎目次▶︎30

(7)主はご自分の中の神性からご自分の人間性を神的なものにされ、 このように父と一つのものとなられた

29 「教会の教え」から〔次のものが〕全キリスト教界で受け入れられました、

私たちの主イエス・キリスト、神の子は、神でありまた人である。神と人であるとはいえ、それでも二つではなく、一つのキリストである。神性をご自分の人間性にまとわれたので、一つである。それどころか、完全に一つである、というのは、一つの位格(ペルソナ)であり、霊魂と身体が一つの人間をつくるように、そのように神と人は一つのキリストであるから。

これらの言葉は、全キリスト教界に受け入れられているアタナシウスの信仰の教え〔信条〕から取られました。
これらは主の中の神性と人間性の結合についてそこの本質的な部分です。主について同じ教えの中で言われている他のものは、〔今後〕その章の中で説明します〔第11章〕。
これらから、主の中の神性と人間性が、霊魂と身体が一つの人間であるように二つでなく一つであること、またその方の中の神性が人間性をまとったことはキリスト教会の信仰からであることが、はっきりと明らかです。
[2]このことから、神性は人間性から、人間性も神性から分離されることができないことがいえます。なぜなら、それらを分離することは、霊魂と身体を分離することのようになるからです。
そのようであることは、前の(19番と21番)二つの「福音書」から(すなわち、「ルカ」1・26―35また「マタイ」1・18―25)、主の出生について示されたものを読むすべての者にも承認されています。それらから、イエスは神エホバからみごもり、処女マリアから生まれたこと、そのように、その方の中に神性があり、それがその方の霊魂であったことが明らかにされています。
そこで、その方の霊魂が父の神性そのものであったので、その方の身体すなわち人間性もまた神的なものにされたことがいえます。なぜなら、一つのものがあるところに、さらにまたもう一つのものがなくてはならないからです——そのように、異なることもなく、主ご自身が自分のみことばの中で教えられているように、父と子は一つであり、父は子の中にまた子は父の中に、なおまた、子のすべてのものは父のものであり、父のすべてのものは子のものです。
[3]しかしどのように結合がなされたか、次の順序で述べます——

(1) 永遠からの主はエホバであられる。
(2) 永遠からの主すなわちエホバは、すべての者を救うために人間性をまとわれた。
(3) ご自分の中の神性から人間性を神的なものにされた。
(4) ご自分に許した試練によって人間性を神的なものにされた。
(5) ご自分の中の神性と人間性の完全な結合は、最後の試練であった十字架の受難によってなされた。
(6)母から受けた人間性を連続的に脱ぎ捨て、神的人間性であり、神の子である神性からの人間性をご 自分に着せられた。
(7) このように神は最初のものの中のように最後のものの中でもまた人となられた。

主について

29◀︎目次▶︎31

30 (1) 永遠からの主はエホバであられる
このことは、みことばからよく知られています。なぜなら、主はユダヤ人に言われたからです、

まことに、わたしはあなたがたに言います。アブラハムがいたよりも前に、わたしはいます(ヨハネ8・58)。

また他の箇所に、

 父よ、わたしを栄化してください。世があった前に、あなたのもとでわたしが持った栄光で(ヨハネ17・5)。

そのことによって、永遠からの主であり、永遠からの子でないことが意味されます。なぜなら、前に示されたように、子は、父エホバからみごもり、時間の中で処女マリアから生まれたその方の人間性であるからです。
[2]永遠からの主がエホバそのものであられることは、みことばの中の多くの箇所から明らかです。それらからこれらわずかなものを、今から示します——

 その日に言われる……この者が私たちの神、私たちはその者を、私たちを救い出すよう待ち望んだ。……エホバ、その者を私たちは待ち望んだ。その方の救いの中で私たちは小躍りして喜び、喜ぶ(イザヤ25・9)。

それらから、神エホバ自身が待ち望まれたことが明らかです。

 荒野の中で叫ぶ者の声、エホバの道を準備せよ。荒地で、私たちの神の大路を平らにせよ。……エホバの栄光が現わされる。すべての肉は一緒に見る……見よ、主エホビが力のうちにやって来られる(イザヤ40・3、5、10。マタイ3・3。マルコ1・3。ルカ3・4)。

ここにも、主はやって来られようとしているエホバと言われています。

[3]わたしエホバは……わたしはあなたを民の契約として、国々の光として与える。わたしエホバ、これがわたしの名前。わたしの栄光を他の者に与えない(イザヤ42・6、8)。

「民の契約、国々の光」は人間性に関する主です。これがエホバからであり、そしてエホバと一つとされたので、「わたしエホバ、これがわたしの名前、わたしの栄光を他の者に与えない」と言われます、すなわち、自分自身以外の他の者に〔与えません〕。「栄光を与える」ことは栄化すること、すなわち、自分自身に結合することです。

[4]あなたがたの求めている主が、突然、ご自分の神殿にやって来る(マラキ3・1)。

「神殿」によって「その方の身体の神殿」が意味されます(例えば、ヨハネ2・19、21)。

日の出が高いところから私たちを訪れた(ルカ1・78)。

「高いところからの日の出」もまたエホバ、すなわち、永遠からの主です。
これらから、永遠からの主によって、「その方」からの主ご自身が、それはみことばの中でエホバであり、それが意味されることは明らかです。
けれども、これから示される箇所から、「主」によって、そしてまた「エホバ」によって、栄化された後の神性と人間性と一緒に一つのものとしてのその方の人間性が、また「子」によって神的人間性だけが意味されることが明らかにされます。

主について

30◀︎目次▶︎32

31 (2) 永遠からの主すなわちエホバは、人間を救うために人間性をまとわれた
このことは先行する章の中で説明されました——そうでなければ救われることができなかったことは他の箇所で述べます。
人間性をまとわれたことは、そこに「神から出た」、「天から下った」、また「世に遣わされた」と言われています、みことばの中の箇所からもまた明らかです。
例えば、これらから——

わたしは父から出て、世に来ました(ヨハネ16・28)。
わたしは……神から出て、来ています。また……わたしは自分から来たのではなく、その方がわたしを遣わしたのです(ヨハネ8・42)。
わたしが神から出たことを、あなたがたが信じたので、父はあなたがたを愛しています(ヨハネ16・27)。
天から下った者でないなら、だれも天に上りませんでした(ヨハネ3・13)。
神のパンであり、それは天から下って来て、世にいのちを与えます(ヨハネ6・33、35、41、50、51)。
上から来る者は、すべての者の上にいます。……天から来る者は、すべての者の上にいます(ヨハネ3・31)。
父を「わたしは知っています。わたしはその方からであり、わたしを遣わされたからです」(ヨハネ7・29)。

「父から世に送られたこと」によって人間性をまとうことが意味されることは前に見られます(20番)。

主について

31◀︎目次▶︎33

32 (3) 主はご自分の中の神性からご自分の人間性を神的なものにされた
このことは、みことばからの多くの箇所から明らかにすることができます。今から、それらを確信させる箇所を示します——
(1) これを継続的に行なわれた、このことはこれらです——

 イエスは、「成長し、霊と知恵で強くなった。神の恵みがその方の上にあった」(ルカ2・40)。
 イエスは、知恵と年齢を、また神と人間のもとで恵みを、示した(52節)。

[2](2) 霊魂が身体を通してのように神性が人間性を通して働いた、このことはこれらから——

 父がしておられる〔ことを〕見るのでないなら、子は自分自身から何もすることができません(ヨハネ5・19)。
 自分自身からわたしは何もしません、しかしわたしの父がわたしに教えられたように、これらをわたしは話します。……わたしを遣わした者は、わたしとともにいて、わたしだけを残されません(ヨハネ8・28、29、5・30)。
 わたしは、わたし自身から話しません、しかしわたしを遣わされた方、わたしに命令を与えられた父が……わたしが何を教え、何を話さなくてはならないか〔話します〕(ヨハネ12・49、50)。
 わたしがあなたがたに話すことばは、わたし自身から話しているのではありません。……わたしの中にとどまられる父が、働きを行なわれます(ヨハネ14・10)。
 わたしはひとりではありません、父がわたしとともに〔おられる〕からです(ヨハネ16・32)。

[3](3) 神性と人間性が一致して働いた、このことはこれらから——

 父が行なわれことを、これらを子もまた同様に行なう(ヨハネ5・19)。
 父が死者を起こし、生かされるように、そのように子もまた、望む者を生かす(ヨハネ5・21)。
 父がご自分自身の中にいのちを持たれるように、そのように〔父は〕子にもまた、自分自身の中にいのちを持つよう与えられた(ヨハネ5・26)。
 今や、彼らは、あなたがわたしに与えたすべてのものが、あなたからであることを知っています(ヨハネ17・7)。

[4](4) 神性が人間性に、人間性が神性に結合した、このことはこれらから——

 「あなたがたが、もしわたしを知っていたなら、わたしの父もまた知ったはずです……あなたがたはその方を見ました」。父を見ることを欲したピリポに言われた、「これほどの時間、わたしはあなたがたといます。ピリポよ、あなたはわたしを知らなかったのですか?わたしを見た者は、父を見たのです……あなたは信じないのですか?わたしが父の中に、また父がわたしの中にいることを。……わたしを信じなさい、わたしが父の中にまた父がわたしの中にいることを」(ヨハネ14・6―11)。
 もしわたしがわたしの父の働きを行なっていないなら、わたしを信じないでいなさい。もし……わたしが行なっているなら……働きを信じなさい。父がわたしの中に、わたしが父の中に〔いる〕ことを、あなたがたが知り、信じるためです(ヨハネ10・37、38)。
 あなたが、父よ、わたしの中に、わたしがあなたの中に〔おられる〕ように、すべての者がひとつであるために(ヨハネ17・21)。
 その日に、あなたがたは、わたしがわたしの父の中に〔いる〕ことを知ります(ヨハネ14・20)。
 羊を「だれも、わたしの父の手から奪えません。わたしと父はひとつです」(ヨハネ10・ 29、30)。
 父は子を愛しておられ、すべてのものをその方の手の中に与えられた(ヨハネ3・35)。
 父が持たれるどんなものでもすべてのものは、わたしものです(ヨハネ16・15)。
 わたしのすべてのものはあなたのもの、あなたのものはわたしのものです(ヨハネ17・10)。
 子に「あなたは、すべての肉の権力を与えられました」(ヨハネ17・2)。
 天と地の上で、わたしにすべての権力が与えられています(マタイ28・18)。

[5](5) 神的人間性に近づくべきである、このことはこれらから明らかです——

 すべての者が父を尊ぶように子を尊ぶためです(ヨハネ5・23)。
 もしあなたがたがわたしを知っていたなら、あなたがたはわたしの父もまた知っていたでしょう(ヨハネ8・19)。
 わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見ます(ヨハネ12・45)。
 あなたがたが、もしわたしを知っていたなら、わたしの父もまた知っていたはずです。今から、あなたがたはその方を知り、その方を見ます(ヨハネ14・7)。
 わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れます(ヨハネ13・20)。

その理由は、父と呼ばれる神性そのものを、だれも見ることができないで、神的人間性を見ることができるからです。
 主もまた言われました、

 かつてだれも神を見ていない。父のふところの中にいるひとり子が、その方を説明した(ヨハネ1・18)。
 父のもとにいる者でないなら、だれも父を見ていません。この者が父を見たのです(ヨハネ6・46)。
 父の「声をかつてあなたがたは聞いていません、その方の姿を見てもいません」(ヨハネ5・37)。

[6](6) 主はご自分の人間性をご自分の中の神性から神的なものにされたので、またこれは神の子であり、それに近づくべきであるので、それゆえ、父と子とである主を信じるべきである、このことはこれらから明らかです——

 イエスは言われた、「その方を受け入れたと同数の者、その方の名前を信じた者に神の子になる権限を与えた」(ヨハネ1・12)。
 その方を信じたすべての者が滅びないで、永遠のいのちを持つためです(ヨハネ3・15)。
 自分のひとり子を与えたように、これほどに、神は世を愛された。その方を信じるすべての者が……永遠のいのちを持つためです(ヨハネ3・16)。
 子を信じる者はさばかれない。けれども、信じない者は、神のひとり子を信じなかったのですでにさばかれている(ヨハネ3・18)。
 子を信じる者は永遠のいのちを持つ。けれども、子を信じない者は、いのちを見ないで、神の怒りが彼の上にとどまる(ヨハネ3・36)。
 神のパンは天から下って来て、世にいのちを与えます。……わたしにやって来る者は、飢えません、わたしを信じる者は、決して渇きを感じません(ヨハネ6・33、35)。
 これがわたしを遣わした方のみこころです。子を見て、その方を信じるすべての者が永遠のいのちを持つように、その者をわたしは最後の日によみがえらせます(ヨハネ6・40)。
 彼らはイエスに言った。「私たちが神のわざを働くために、何を私たちは行なうべきでしょうか?」 イエスは答えられた……「あなたがたが神が遣わした者を信じること、これが神のわざです」(ヨハネ6・28、29)。
 まことに、わたしはあなたがたに言います。わたしを信じる者は永遠のいのちを持ちます(ヨハネ6・47)。
 イエスは叫んで、言われた。「もしだれかが渇くなら、わたしにやって来て、飲みなさい——わたしを信じる者はだれでも、聖書が言っているように、彼の腹から生きる水の川が流れ出ます」(ヨハネ7・37、38)。
 わたしがわたしであることを、あなたがたが信じないなら、あなたがたはあなたがたの罪の中で死にます(ヨハネ8・24)。
 イエスは言われた。「わたしはよみがえりであり、いのちです。わたしを信じる者は、たとえ死んでも、生きます。生き、わたしを信じるすべての者は、永久に死にません」(ヨハネ11・25、26)。
 イエスは言われた。「わたし、光は世にやって来ました。わたしを信じるすべての者が暗やみの中にとどまらないためです」(ヨハネ12・46、8・12)。
あなたがたが光を持つ間に、あなたがたが光の子であるために、光を信じなさい(ヨハネ12・36)。
 まことに、わたしはあなたがたに言います。死者が神の子の声を聞きます……聞く者は生きます(ヨハネ5・25)。
 わたしの中にとどまりなさい、わたしもまたあなたがたの中に〔とどまります〕。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。わたしの中に、わたしが彼の中にとどまる者は、多くの実をもたらします。わたしなしに、あなたがたは何も行なうことができないからです(ヨハネ15・1―5)。
彼らが主の中に、また主が彼らの中にとどまること(ヨハネ14・20、17・23)。
 わたしは、道、真理、いのちです。わたしを通してでないなら、だれも父へやって来ません(ヨハネ14・6)。

[7]これらの箇所の中で、また父が名前を挙げられている他のすべての〔箇所の〕中で、受胎から主の中にあった神性が意味されます。キリスト教界の信仰の教えにしたがって、そのことは人間のもとの身体の中の霊魂のようでした。
この神性からの人間性そのものが神の子です。
さて、これもまた神性となったので、人間が父だけに近づき、そのことによって、思考・信仰の中で、ここから礼拝の中で、主から父(主はその方の中におられます)を分離しないように、それゆえ、主が、父とその方は一つであること、父はその方の中に、その方は父の中にいること、その方の中にとどまらなくてはならないこと、父へその方を通してでないならだれもやって来ないことを教えた後、さらにまた、その方を信じなければならないこと、人間はその方へのまっすぐな信仰から救われることを教えられました。
[8]主の中の人間性が神性にされたことの何らかの観念は、キリスト教の中の多くの者に把握されることができません。特に、人間について、その身体の霊的なものからでなく物質的なものから考える理由からです。そのとき、それでも、霊的であるすべての天使は、さらにまた完全な形の人間です。また、神エホバから発出するすべての神性は、天界の中のその最初のものから、世の中のその最後のものまで、人間の形へ向かいます。
天使が人間の形であること、すべての神性が人間の形へ向かうことは、著作『天界と地獄』(73―77番と453―460番)にあります。そしてさらに主について天使の知恵からのものである続く著作の中で十分に見られます。

主について

32◀︎目次▶︎34

33 (4) 主はご自分に許した試練によって、またその時、絶え間のない勝利によって人間性を神的なものにされた
 このことは、前に述べました(12―14番)。それらに次のことだけを付け加えなくてはなりません。
試練は、悪と虚偽に対する闘争以外の何ものでもなく、悪と虚偽は地獄からであるので、地獄に対する闘争でもあります。霊的な試練を受けている人間のもとにも、それらをひき起こす地獄からの悪霊がいます。
悪霊が試練をひき起こすことを人間は知りません。それでもそうであることを、私は多くの経験から知ることが与えられました。
[2]人間が主から試練の中で勝利する時、地獄から引き出され、そして天界へ上げられるのはそのことからです——ここから、人間が試練または悪に対する闘争によって霊的に、このように天使になります。
けれども、主はプロリウム(固有のもの)からの力ですべての地獄に対して闘争し、それらを完全に支配し、征服されました。またそのことによって、同時に、自分の人間性を栄化し、地獄を永遠の支配と服従の中に保たれています。
[3]というのは、主の来臨の前の地獄は、天界の天使そのものを、同様に世に生まれて世から去るすべての人間を攻撃し始めるような高みにまでも上がったからです。
地獄がこのような高みに上がったことの理由は、教会が完全に荒され、世の人間が偶像崇拝から虚偽と悪そのものの中にいたからです。〔このような〕人間から地獄があります——ここから、主が世にやって来られなかったなら、だれも人間は救われることができませんでした。
これらの主の闘争について、「ダビデの詩篇」と「預言書」に多く扱われています、しかし、「福音書」にはわずかです。
主の受けた試練によって意味されるものはそれらの闘争であり、それらの最後のものは十字架の受難でした。
それらから、主は救い主とあがない主と呼ばれます。
[4]このことは教会の中で、主は死または悪魔、すなわち、地獄に勝利した、勝利とともによみがえった——さらにまた、主なしに何も救いはない、と言われるように、これほどによく知られています。
さらにまた、ご自分の人間性を栄化されたこと、またそのことによって、永久に救い主・あがない主・改革者・再生者になられたことが続きの中に見られます。
主が闘争または試練によって救い主となったことは、前に示された豊富なものの箇所(12―14番)から明らかです——また「イザヤ書」の次のことから、

 復讐の日がわたしの心に〔ある〕、またわたしのあがないの年が来た。……わたしの怒りの中で(彼らを)踏みつぶし、わたしは彼らの勝利を地に下げた。……それゆえ、彼らに、救い主となった(63・4、6、8)。

その章では主の闘争について扱われています。
また、「ダビデの書」に、

 門よ、あなたがたの頭を上げよ……世の戸よ、上がれ、栄光の王が入るために。この栄光の王はだれか? 力あるエホバまた英雄、戦いの英雄エホバ(詩篇24・7、8)。

これらもまた主について扱われています。

主について

33◀︎目次▶︎35

34 (5) ご自分の中の神性と人間性の完全な結合は、最後の試練であった十字架の受難によってなされた
 このことは、前のその節の中で論証しました。その中に、主が地獄を征服し、ご自分の人間性を栄化するために世にやって来られたこと、十字架の受難が最後の闘争であり、それによって完全に地獄に勝利し、完全にご自分の人間性を栄化されたことが示されています。
さて、主は十字架の受難によって自分の人間性を完全に栄化されたので、すなわち、それを自分の神性と結合し、このようにご自分の人間性もまた神的なものにされたので、その方はエホバまた神であることがいえます——それゆえ、みことばの多くの箇所の中で、エホバ・神、またイスラエルの聖なる者・あがない主・救い主・形成者と呼ばれています。
[2]例えば、続くこれらのものの中に——

 マリヤは言った。「私の魂は主をあがめ、私の霊は私の救い主なる神を小躍りして喜びます」(ルカ1・46、47)。
 羊飼いたちに「天使は言った……見よ、私はあなたがたにすべての民に起こる大いなる楽しさの福音をもたらします。今日……ダビデの都に救い主、主キリストが生まれました」(ルカ2・10、11)。
 彼らは言った……「この方は世のほんとうの救い主、キリストです」(ヨハネ4・42)
神エホバは「わたしは、あなたを助ける……あがない主……イスラエルの聖なる者」
(イザヤ41・14)。
 ヤコブよ、あなたの創造者エホバは言われた。イスラエルよ、あなたの形成者は言われた。……なぜなら、わたしはあなたをあがなったから。……わたしはあなたの神エホバ、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主」(イザヤ43・1、3)。
 あなたがたのあがない主、イスラエルの聖なる者、エホバは言われた。……わたしエホバは、あなたがたの救い主、イスラエルの創造者、あなたがたの王(イザヤ43・14、15)。
 イスラエルの聖なる者、またその創造者(……救い主)はこのように言われた(イザヤ45・11、15)。
 あなたのあがない主、イスラエルの聖なる者、主はこのように言われた(イザヤ48・17)。
 すべての肉が、わたしエホバがあなたの救い主、あなたのあがない主、ヤコブの力強き者であることを知る(イザヤ49・26)。
 その時、シオンにあがない主が来る(イザヤ59・20)。
 あなたは、わたしエホバがあなたの救い主、あなたのあがない主、ヤコブの力ある者であることを知る(イザヤ60・16)。
 エホバは胎内からあなたの形成者(イザヤ49・5)。
 エホバよ、私の岩、私のあがない主(詩篇19・15)。
 彼らは、神が彼らの岩であること、高い神が彼らのあがない主であることを思い出した(詩篇78・35)。
 胎内からあなたのあがない主、あなたの形成者、エホバは言われた(イザヤ44・24)。
 私たちのあがない主について、その方の名前は万軍の主、イスラエルの聖なる者(イザヤ47・4)。
 永遠の慈悲をもって、わたしはあなたを哀れむ、このようにあなたのあがない主、エホバは言われた(イザヤ54・8)。
 彼らのあがない主は強い、その方の名前は(万軍の)エホバ(エレミヤ50・34)。
 イスラエルよ、エホバに期待せよ。エホバに慈悲があり……その方に多くのあがないがあるからである。……その方はイスラエルのそのすべての不法からあがなわれる(詩篇130・7、8)。
 神「エホバは私の岩……私のとりで……私の救いの角……私の救い主」(サムエル記Ⅱ 22・2、3)。
 イスラエルのあがない主、その聖なる者、エホバはこのように言われた。「王たちは見、とどまる……忠実である〕エホバのために、あなたを選んだイスラエルの聖なる者のために」(イザヤ49・7)。
 神はただあなたの間にだけ〔おられ〕、ほかに他の神はいない。確かに、あなたは隠れた神、イスラエルの神、救い主(イザヤ45・14、15)。
 イスラエルの王、エホバ、またそのあがない主、万軍の主、エホバは言われた……わたしのほかに神はいない(イザヤ44・6)。
 わたしはエホバ、わたしのほかに救い主はいない(イザヤ43・11)。
 わたし、エホバではないか?わたしのほかにさらにいない、救い主はわたしのほかにいない(イザヤ45・21)。
 わたし、エホバはあなたの神〔である〕、わたしのほかに神をあなたは知らない、わたしのほかに救い主はいない(ホセア13・4)。
 わたし、エホバではないか?わたしのほかにさらに神はいない。わたしのほかに正義の神また救い主はいない。わたしを顧みよ、救われるために、地のすべての端よ。わたしは神、ほかにいないからである(イザヤ45・21、22)。
 その方の名前は万軍のエホバ、またあなたのあがない主は、イスラエルの聖なる者、全地の神と呼ばれる(イザヤ54・5)。

[3]これらから、父と呼ばれる主の神性は、ここにエホバと神であり、そして子と呼ばれる神的人間性は、ここにあがない主と救い主、なおまた形成者、すなわち、改革者と再生者であり、〔それらは〕二つではなく、一つであることを見ることができます。なぜなら、神とイスラエルの聖なる者、あがない主と救い主エホバと言われているだけでなく、あがない主と救い主エホバともまた言われているからです。それどころか、「救い主エホバ、わたしのほかにいない」ともまた言われています。それらから、主の中の神性と人間性が一つの位格(ぺルソナ)であること、人間性もまた神性であることがはっきりと明らかです。なぜなら、世のあがない主と救い主は、子と呼ばれる神的人間性に関する主にほかならないからです。
というのは、あがないと救いは、功績と義と呼ばれるその方の人間性のプロプリウム(固有のもの)の属性であるから。なぜなら、人間性そのものは試練と十字架の受難を受けたからです。このように、人間性によって、あがない、救いました。
[4]そこで、キリスト教界の教えにしたがって、人間のもとの霊魂と身体のようであった人間性がご自分の中の神性と結合した後は、もはや二つではなく、一つの位格(ペルソナ)であり、それゆえ、主は両方のものに関してエホバと神です。それゆえ、示された箇所から見られることができるように、時には、エホバとイスラエルの聖なる者、あがない主と救い主、時には、あがない主と救い主エホバと言われます——そのことはここに言われています、

 救い主キリスト(ルカ2・10、11、ヨハネ4・42)。
 神、またイスラエルの神、救い主、またあがない主(ルカ1・47。イザヤ45・15、54・5。詩篇78・35)。
 イスラエルの聖なる者エホバ、救い主、またあがない主(イザヤ41・14、43・3、11、14、15、48・17、49・7、54・5)。
 救い主、あがない主、形成者エホバ(イザヤ44・6、47・4、49・26、54・〔5、〕8、63・16。エレミヤ50・34。詩篇19・14、詩篇130・7、8。サムエル記Ⅱ 22・2、3)。
 あがない主また救い主〔なる〕神エホバ、わたしのほかに他の者は(い)ない(イザヤ43・11、44・6、45・14、 15、21、22。ホセア13・4)。

主について

34◀︎目次▶︎36

35 (6) 母から受けた人間性を連続的に脱ぎ捨て、神的人間性であり、神の子である神性からの人間性をご自分に着せられた
 主に神性と人間性があったこと、父エホバからの神性と処女マリアからの人間性があったことはよく知られています。ここから、神と人でした、このようにその方に神的な本質と人間的な性質がありました。父からの神的な本質と母からの人間的な性質です。ここから神性に関して父と同等であり、人間性に関して父に劣っています。なおまた、アタナシウスのものと呼ばれる信仰の教え〔信条〕が教えるように、母からの人間性は、この人間性を、神的な本質の中で変えず、それに混ぜませんでした。なぜなら、人間的な性質は神的な本質に変えられることも、それに混ぜられることもできないからです。
[2]それでも、同じ私たちの教えから、神性は人間性をまといました、すなわち、霊魂がそれ自体を身体にまとったように、神性自体を人間性に結合させました、それでも二つの位格(ペルソナ)でなく、しかし一つの位格のように〔結合させました〕。
そのことから、本質的に他の人間の人間性に似ていた母からの、このように物質的であった人間性を脱ぎ捨てたことがいえます。そして、本質的に自分の神性と似ていた父からの、このように実体的であった人間性をおび、そのことから人間性もまた神的なものになりました。
ここから、主は預言者のみことばの中で、人間性に関してエホバと神と言われ、そして福音書記者のみことばの中でも、主・神・メシアまたはキリスト・神の子と言われており、その方を信じ、その方から救われなければなりません。
[3]さて、主は始めに母からの人間性をとり、これを連続的に脱ぎ捨てたので、それゆえ、世におられた時、ご自分に二つの状態がありました。卑下の状態または空にした状態と呼ばれるものと、父と呼ばれる栄化の状態または神性と結合した状態です——母からの人間性の中にいるかぎり、その時、卑下の状態であり、父からの人間性の中にいるかぎり、その時、栄化の状態でした。
卑下の状態の中で、自分自身から他の者へ祈るように父に祈りました。けれども、栄化の状態の中で、自分自身と話すように父と話されました。
この状態の中で、父はご自分の中に、ご自分は父の中に、また父とご自分は一つである、と言われました。けれども、卑下の状態の中で、試練を受け、十字架を被り、父がご自分を見捨てないよう祈りました。なぜなら、神性は誘惑されることが、ましてなおさら十字架を被ることができないからです。
これらから、前に示されたように、試練とその時の絶え間のない勝利によって、そして最後の試練であった十字架の受難によって、完全に地獄に勝利し、完全に人間性を栄化されたことが、今や明らかです。
[4]主が母からの人間性を脱ぎ捨てたこと、父と呼ばれるその方の中の神性から人間性をまとったことは、ご自身が自分の口から母と話すたびごとに、彼女を母と呼ばず、女と呼ばれたことからもまた明らかです。
「福音書」に三度だけ、ご自分の口から母について話したこと、その時、二度、彼女を女と呼んだこと、一度は彼女を母として認めなかったことがあります。
二度、彼女を「女」と呼んだことは——「ヨハネ福音書」にあります、

 イエスの母がその方に言った。「ぶどう酒がありません」。イエスは彼女に言われた。「わたしとあなたに何が〔ありますか〕?女よ、わたしの時はまだ来ていません」(2・3、4)。

また同書に、

 イエスは……十字架から女を、またそばにいる愛する弟子を見られた。自分の母に言われた。「女よ、見よ、あなたの息子」。続いて、弟子に言われた。「見よ、あなたの母」(19・26、27)。

一度は、彼女を〔母として〕認めなかったことは——「ルカ福音書」に、

 イエスは、「あなたの母とあなたの兄弟が外に立っています。あなたを見ることを欲しています」と言われ、知らされた。イエスは、彼らに答えて言われた。「わたしの母とわたしの兄弟は、神のことばを聞き、それを行なう者です」(8・20、21。マタイ12・46―49。マルコ3・31―35)。

他の箇所にマリアがその方の母と呼ばれています、しかしその方の口からではありません。
[5]このこともまた、ご自分をダビデの子であると認めなかったことによって確証されます。  「福音書」にもまたあります、

 パリサイ人たちに……イエスは、「あなたがたはキリストについてどう思いますか?だれの子ですか?」と言って、質問された。〔彼らは〕その方に言った、「ダビデの〔子です〕」。〔イエスは〕彼らに言われた、「それでは、なぜダビデはその方を霊の中で、『主は私の主に言いわれた。わたしがあなたの敵をあなたの足の足台に置くまで、わたしの右に座れ』と言って、自分の主と呼ぶのですか。それゆえ、ダビデがその方を主と呼んでいるなら、なぜ彼の子なのですか?」 それで、だれもその方に言葉で答えることができなかった」(マタイ22・41―46。マルコ12・35―37。ルカ20・41―44。詩篇110・1)。

これらから、主は栄化された人間性に関してマリアの子ではなく、ダビデの子でもなかったことが明らかです。
[6]栄化されたご自分の人間性がどんなものであったか、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの前で変容したときに彼らに示しました。

 その方の顔が太陽のように輝き、その方の衣服が光のようであったこと——また、その時、雲から声が言った。「これはわたしの愛する子であり、その者をわたしは喜ぶ。その者に聞け」(マタイ17・1―8。マルコ9・2―8。ルカ9・28―36)。

主はまたヨハネに、「輝く太陽のように、その強さの中で」見られました(黙示録1・16)。

[7]主の人間性が栄化されたことは、その方の栄化について福音書記者のもとに言われていることからも明らかです。
例えばこれらから——「ヨハネ福音書」に

 「人の子が栄化される時が来ました」。言われた、「父よ、あなたの名前を栄化してくだい」。……天から声がした。「わたしは栄化したし、また再びわたしは栄化する」(12・23、28)。

主は連続的に栄化されたので、それゆえ、「わたしは栄化したし、また再びわたしは栄化する」と言われています。
同書に、

 ユダが出て行った後に、イエスは言われた。「今、人の子は栄化されました。神はその方の中で栄化されました。……神もまたご自身でその方を栄化されます。直ちに、その方を栄化されます」(13・31、32)。

同書に、

 イエスは言われた。「父よ、あなたの子の栄化の時が来ました。子もまたあなたを栄化するために、あなたの子を栄化してください」(17・1、5)。

また「ルカ福音書」に

 キリストはこのことを受けて、自分の栄光の中に入ならくてはならなかったのではありませんか?(24・26)。

これらはその方の人間性について言われました。
[8]主は、「神はその方の中で栄化された」、「神もまたご自身でその方を栄化される」、なおまた、「子もまたあなたを栄化するために、あなたの子を栄化してください」と言われました——これらを主は、結合が人間性と神性そして神性と人間性の相互のものであったので言われたのです。}  それゆえ、さらにまた言われました、

 わたしは父の中に、父はわたしの中に〔います〕(ヨハネ14・10、11)。

なおまた、

 わたしのすべてのものはあなたのもの、あなたのすべてのものはわたしのものです(ヨハネ17・10)。

ここから結合は完全でした。
すべての結合に同様です。それは相互のものでないなら、完全ではありません——さらにまた、「ヨハネ福音書」で教えられているように、人間と主また主と人間の結合のようなものでした。

 その日に、あなたがたは……あなたがたがわたしの中に、わたしがあなたがたの中にいることを知ります(14・20)。

また他の箇所に、

 わたしの中にとどまりなさい、わたしもあなたがたの中にとどまります。……わたしの中に、またわたしが彼の中にとどまる者は、多くの実を結びます(15・4、5)

[9]主の人間性が栄化された、すなわち、神的なものにされたので、それゆえ、死後、三日目に全身とともによみがえられました。このことは人間のだれかに生じることではありません、なぜなら、人間は身体に関してよみがえらず、霊に関してだけよみがえるからです。
主が全身とともによみがえったことを、人間が知って、だれも疑わないように、墓の中にいた天使によってそのことを言われただけでなく、弟子たちの前でその人間性の身体で、ご自分を示されました。〔弟子たちが〕霊を見たと信じたとき、彼らに言われて、

 わたしの手とわたしの足を見なさい。わたしそのものです——わたしに触れ、見なさい。なぜなら、霊は、わたしが持っていて、あなたがたが見ているのような肉と骨を持たないからです。そしてこれを言われたとき、彼らに手と足を示された(ルカ24・39、40。ヨハネ20・20)。

またさらに、

 イエスはトマスに言われた、「あなたの指をここに伸ばし、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸し、そしてわたしの脇の中に入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」——その時、トマスは言った、「私の主、私の神」(ヨハネ20・27、28)。

[10]霊でなく、人間であることをさらに確信させるために、主は弟子たちに言われました、

 「ここに何か食べられるものがありませんか?」……彼らはその方に焼いた魚の一部を、またミツバチの巣から与えた。それらを受け取って、彼らの前で食べられた(ルカ24・41―43)。

 その方の身体は今や物質的でなく、神的な実体的なものであったので、それゆえ、閉ざされた戸から弟子たちにやって来られました(ヨハネ20・19、26)。
また、見られた後、目に見えなくなられました(ルカ24・31)。

そこで、このように主は取り上げられて、神の右に着席しました。なぜなら、「ルカ福音書」に言われているからです、

 イエスが弟子たちを「祝福している時、彼らから離れ、天に取り上げられることが起こった」(24・51)。

また「マルコ福音書」に、

 彼らに話した後、天に取り上げられ、神の右に着席した(16・19)。

「神の右に座ること」は神的全能を意味します。
[11]主は神性と人間性の結合とともに一つのものの中で天に上り、神の右に座られたので、そのことによって神的全能が意味され、人間性の実体または本質ものものが神性そのもののようであることがいえます。
もし人間が〔これと〕異なって考えるなら、人間性と一緒でなく、神性そのもの〔だけ〕が天に取り上げられ、そして神の右に座る、と考えるようになってしまいます。このことは聖書に反し、そしてまた、キリストの中に霊魂と身体のように神と人間がいることであるキリスト教の教えに反し、それらを分離することは健全な理性に反します。
子との父の結合すなわち人間性との神性の結合は次の続くものの中でもまた意味されています——

わたしは父から出て、世に来ました。再び、世を残し、父へ行きます(ヨハネ16・28)。
わたしは去り、わたしを遣わした者へ行きます(ヨハネ7・33、16・5、16、17・11、13)。
それゆえ、もしあなたがたが人の子が前にいたところに上るのを見るなら(ヨハネ6・62)。
天から下った者でないなら、だれも天に上らなかった(ヨハネ3・13)。

だれでも救われる人間は天に上ります。しかし自分自身からでなく主からです——主おひとりがご自分から上りました。

主について

35◀︎目次▶︎37

36 (7) このように神は最初のものの中のように最後のものの中でもまた人となられた
神が人であること、また神からすべての天使と霊は人間であることは、著作『天界と地獄』の中にいくらか示されています。またこのあと小著『天使の知恵』の中で示されます。
しかし神は、最初のものの中で始めから人でしたけれども、最後のものの中で人ではありませんでした。しかし、世で人間性をとられた後に、最後のものの中でもまた人となりました——主が自分の人間性を自分の神性に結合させられたこと、このように自分の人間性もまた神的なものにされたことは前に確証されたものからいえます。
そのことから、神は、最初と最後、初めと終わり、そしてアルファとオメガと呼ばれます。
このことは「黙示録」の中に〔あります〕、

 〔常に〕いる者、〔昔〕いた者、また〔後に〕やって来る者、全能の主は言われた。「わたしはアルファであり、オメガである、最初であり、最後である」(1・8、11)。

 ヨハネは七つの燭台の真ん中に「人の子」を見たとき、

 その方の足もとに、死者のように倒れた。しかしその方は自分の右手を彼の上に置いて、言われた。「……わたしは初めであり、終わりである」(1・13、17、2・8、21・6)。
 見よ、わたしはすぐに来る……わたしはそれぞれの者に彼の働きにしたがって与えるために……わたしはアルファであり、オメガである、最初であり、最後である、初めであり、終わりである(22・12、13)。

また「イザヤ書」に〔あります〕、

 このようにイスラエルの王エホバ、そのあがない主、万軍のエホバは言われた。「わたしは初めであり、終わりである」(44・6、48・12)。

主について

36◀︎目次▶︎38

(8)主は神ご自身であられ、みことばは、その方からあり、その方についてである

37 第一章で、「聖書全体は主についてであり、主はみことばであられる」を示すことを始めました——このことをさらに、みことばから、そこに主が、〔1〕エホバ、〔2〕イスラエルとヤコブの神、 〔3〕イスラエルの聖なる者、〔4〕主と神、そのようにまた、〔5〕王とエホバの油を注がれた者、〔6〕ダビデ、と呼ばれる箇所から示します。
すべての預言書とダビデの詩篇にざっと目を通し、そしてそこに扱われている個々の節について調べ、見ることが与えられた、また、設立され、これから設立される主からの教会について、主の来臨について、闘争・栄化・あがない・救い、その方からの天界についてと同時にその反対のものについて、それら以外の他の事柄については扱われていないことも見られた、とあらかじめ述べることが私に許されています。
それらすべてのものが主の働きであるので、聖書全体が主についてであること、またここから主がみことばであることが明らかです。
[2]けれども、このことは、主からの照らしの中にいて、みことばの霊的な意味もまた知っている者によらなければ、見ることができません。
天界のすべての天使はこの意味の中にいます。それゆえ、彼らは、みことばが人間により読まれるとき、他のものを把握しません——というのは、霊と天使たちは常に人間のもとにいて、彼らは霊的であるので、人間が自然的に理解するすべてのものを霊的に理解するからです。
聖書全体が主についてであることは、前の第一章(1から6番)の中でみことばから示されたものから、また今、主について示されるものから、しばしば「主」と「神」と言われていることをただあいまいに、格子の仕切りを通してかのように見ることができます。それらから、預言者たちによって、「エホバが話された」、「エホバが言われた」、また「エホバの言われたこと」と言われているどこでも、主について語られていることを明らかにすることができます。
[3]主は世にご自分の来臨の前に存在された
このことは、これらから明らかです——

 バプテスマのヨハネは主について言った、「私の後に来られる、私の前におられた者はその方です。私はその方の履き物のひもを解くにも値しません。……私が『その者は私の後に来る、その者は私の前にいた、またその者は私の先にいた』と言った者は、この方です」(ヨハネ1・27、30)。

 「黙示録」に、

 〔彼らは〕主がおられた王座の前に伏せて、言った。「私たちは、〔常に〕いる、〔昔〕いた、やって来られる全能の主なる神、あなたに感謝します」(11・16、17)。

なおまた「ミカ書」に、

 ベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの数千のものの間でのように小さいものである。あなたから、わたしのために出る、その者はイスラエルの中で支配者となる、またその出ることは昔から、永遠の日からである(5・2)。

さらに、福音書記者たちのもとの主のことばから、アブラハムの前にいたこと、世の創造以前に父のもとで栄光を持っていたこと、父から出たこと、初めに神のもとのみことばであったこと、神はみことばであったこと、これは「肉」となったこと〔が明らかです〕。
主が、エホバ、イスラエルとヤコブの神、イスラエルの聖なる者、神と主、なおまた、王とエホバの油を注がれた者、ダビデと言われたことは、続くものから明らかにすることができます。

主について

37◀︎目次▶︎39

38 (1) 主はエホバと言われている
このことは、これらから明らかです——

 ヤコブよ。あなたの創造者、エホバは言われた。イスラエルよ。あなたをつくった者は言われた、……なぜなら、わたしはあなたをあがなったから。……わたし、エホバは、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主である(イザヤ43・1、3)。
 わたしエホバは、(あなたがたの)聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。イスラエルの聖なる者、その形成者(イザヤ43・15、45・11)。
 わたし、エホバがあなたの救い主、あなたのあがない主、ヤコブの力強い者であることを、すべての肉が知るために(イザヤ49・26)。
 あなたが、わたしがあなたの救い主、あなたのあがない主、ヤコブの力ある者であることを知るために(イザヤ60・16)。
 エホバ、母胎からのあなたの形成者(イザヤ49・5)。
 エホバ、私の岩、私のあがない主(詩篇19・14)。
 エホバは言われた、あなたをつくる者、母胎から……あなたの形成者。……このようにエホバは、イスラエルの王、そのあがない主、万軍のエホバは言われた(イザヤ44・2、6)。
 私たちのあがない主について、その方の名前は万軍のエホバ、イスラエルの聖なる者である(イザヤ47・4)。
 永遠の慈悲をもって、わたしは〔あなたを〕哀れむ……このようにあなたのあがない主エホバは言われた(イザヤ54・8)。
 彼らのあがない主は力強い、その方の名前は万軍のエホバ(エレミヤ50・34)。
 神「エホバは、私の岩、私のとりで……私の救いの角、私の救い主」(サムエル記Ⅱ22・2、3)。
 あなたがたのあがない主、イスラエルの聖なる者、エホバは言われた(イザヤ43・14、48・17)。
 イスラエルのあがない主、その聖なる者、エホバはこのように言われた……王たちは見る(イザヤ49・7)。
 わたしはエホバ、わたしのほかに救い主はいない(43・11)。
 わたしはエホバではないか?もはや……わたしのほかにいない。……わたしのほかに救い主はいない。わたしを眺めよ、地のすべての果てが救われるために(イザヤ45・21、22)。
 わたしは、あなたの神、エホバ……わたしのほかに救い主はいない(ホセア13・4)。
 真実の神、エホバ。あなたは私をあがなわれた(詩篇31・5)。
 イスラエルよ、エホバを待ち望め、エホバに慈悲があり……その方に最も多くのあがないがあるからである。その方はそのすべての不正からあがなう(詩篇130・7、8)。
 その方の名前は万軍の主、あなたのあがない主、イスラエルの聖なる者。全地の神と言われる(イザヤ54・5)。

 これらの箇所でエホバはあがない主と救い主と呼ばれています。また、エホバだけがあがない主と救い主であるので、エホバによって意味されるのはその方です。
主がエホバであること、すなわち、エホバが主であることは、これらからもまた明らかです——

 エッサイの幹から若枝が出てくる、その根から若枝が実を結ぶ。……その上にエホバの霊が休む(イザヤ11・1、2)。
 その日に言われる、見よ、これが私たちの神、その者を私たちは待ち望んだ、私たちを救うよう……エホバ、その者を私たちは待ち望んだ、わたしたちはその方の救いに小躍りして喜ぶ(イザヤ25・9)。
 荒野の中に叫ぶ声、エホバの道を備えよ、荒地に私たちの神の小道を地ならしせよ。……というのは、エホバの栄光が現わされ、すべての肉に見られるから。……見よ、主エホビは力強さの中にやって来られる、その方の腕はその方に支配される(イザヤ40・3、5、10)。
 わたし、エホバは……あなたを民の契約として、国々の光として与える。……わたし、エホバは、これがわたしの名前、わたしの栄光を他の者に与えない(イザヤ42・6、8)。
 見よ、日を……そのとき、わたしはダビデに正しい若枝を起こす、その者は王となって支配し、栄え、地に審判と義を行なう。この方の名前は「エホバは私たちの正義」、その方を〔そのように〕呼ぶ(エレミヤ23・5、6、33・15、16)。
 ベツレヘム・エフラタよ。あなたは……あなたから、わたしのために出る、その者はイスラエルの支配者である。……イスラエルの力強さの中で立ち、〔羊を〕飼う(ミカ5・2、4)。
 私たちに少年が生まれ、私たちに子が与えられ、その者の肩の上に支配権があり、その方の名前は……神、英雄、永遠の父と呼ばれる。……ダビデの王座の上に〔着いて〕……それを堅く建て、基礎を据えるために、さばきの中で、また義の中で、今から永遠にまで(イザヤ9・6、7)。
 エホバは出て、国々に対して戦われる。……その方の足は立つ……エルサレムの顔の前のオリーブ山の上に(ゼカリヤ14・3、4)。
 門よ、おまえのかしらを上げよ。世の戸よ、上がれ、栄光の王が入って来られるために。この栄光の王は、だれか?エホバ、力強い英雄、エホバ、戦いの英雄(詩篇24・7―10)。
 その日に、万軍のエホバは、自分の民の残りの者に、飾りの冠、美しい頭飾りとなられる(イザヤ28・5)。
 わたしは、エホバの大いなる日が来る前に預言者エリヤをあなたがたに遣わす(マラキ4・5)。

 ほかに、そこに「エホバの偉大な日、近い日」と言われている他の箇所に(例えば、エゼキエル30・3。ヨエル2・11。アモス5・18、20。ゼパニヤ1・7、4、15、18)。

主について

38◀︎目次▶︎40

39 (2) 主はイスラエルの神とヤコブの神と言われている

このことは、これらから明らかです——

 モーセは血を取り、民の上に振りかけ、言った。見よ、エホバがあなたがたに行なった契約の血を。……彼らはイスラエルの神を見た。その足の下に、あたかもサファイアの石の作品のようなもの、あたかも天の実体のようなものがあった(出エジプト記24・8、10)。
 群衆は、おしが話し……びっこの者が歩き、めくらの者が見ているのを見た時、驚いた。そしてイスラエルの神を賛美した(マタイ15・31)。
 祝福された主、イスラエルの神。訪れて、そのとき自分の民(イスラエル)に解放を行ない、私たちの救いの角をダビデの家の中に立てられた(ルカ1・68、69)。
 わたしはあなたに暗やみの宝物を、隠れ場の隠された富を与える。わたしがエホバ、わたしがあなたの名前を呼んだ者、イスラエルの神〔である〕ことをあなたが知るために(イザヤ45・3)。
 ヤコブの家よ……その者はエホバの名前として誓う……イスラエルの神。なぜなら、聖なる都から呼ばれ、イスラエルの神に、万軍の主はその方の名前、寄りかかるから(イザヤ48・1、2)。
 ヤコブは見た「自分の息子を……その真ん中で彼らは私の名前を聖とした、ヤコブの聖なる者を聖とした、そしてイスラエルの神を恐れる」(イザヤ29・23)。
 日々の終わりの時に……多くの民が行き、言う。「〔あなたがたは〕行け。私たちはエホバの山に、ヤコブの神の家に上る、その者は私たちに自分の道について、私たちがその方の小道の中を行くために教えてくださる」(イザヤ2・2、3。ミカ4・1、2)。
 わたし、エホバがあなたの救い主、あなたのあがない主、ヤコブの力強い者〔である〕ことをすべての肉が知るために(イザヤ49・26)。
 わたし、エホバがあなたの救い主、あなたのあがない主、ヤコブの力強い者〔である〕(イザヤ60・16)。
 地よ、あなたは産みの苦しみをする、主の前から、ヤコブの神の前から(詩篇114・7)。
 ダビデは、「エホバに誓った、ヤコブの力ある者に誓った、たとえ、私が私の家の天幕の中に入っても……私がエホバの場所を、ヤコブの力ある者の住まいを見つけるまで。……私たちはエフラタ(ベツレヘム)の中でそれを聞いた」(詩篇132・2、3、5、6)。
 祝福された……イスラエルの神。……すべての地がその方の栄光で満たされる(詩篇77・18、19)。

ほかに、そこに主がイスラエルの神、あがない主と救い主と呼ばれている他の箇所に(例えば、ルカ1・47。イザヤ45・15、54・5。詩篇78・35)。
そして、そこに単にイスラエルの神と言われている他の多くの箇所の中に(例えば、イザヤ27・6、21・10、 17、24・15、29・23。エレミヤ7・3、9・15、11・3、13・12、16・9、19・3、15、23・2、24・5、25・15、27、29・4、8、21、25、30・2、31・23、32・14、15、36、33・4、34・2、13、35・13、17—19、37・7、38・17、39・16、42・9、15、18、43・10、44・2、7、11、25、48・1、50・18、51・33。エゼキエル8・4、9・3、10・19、20、11・22、43・2、44・2。ゼパニヤ2・9。詩篇41・13、詩篇59・5、詩篇68・8)。

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39◀︎目次▶︎41

40 (3) 主はイスラエルの聖なる者と言われている
 このことは、これらから明らかです——

 マリヤに「天使は言った……聖なる者があなたから生まれ、神の子と呼ばれます」(ルカ1・35)。
 幻の中で、私は見た。……見よ、見張る者と聖なる者が天から下る(ダニエル4・13、23)。
神はテマンから、聖なる者はパランの山から来る(ハバクク3・3)。
 わたしはエホバ、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王(イザヤ43・15)。
 イスラエルの聖なる者、その形成者〔エホバはこのように言われた〕(イザヤ45・11)。
 このようにエホバは言われた、「イスラエルのあがない主、その聖なる者」(イザヤ49・7)。
 わたしが、あなたの神エホバ、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主〔である〕(イザヤ43・1、3)。
 私たちのあがない主について、その方の名前は万軍の主、イスラエルの聖なる者(イザヤ47・4)。
 あなたがたのあがない主、イスラエルの聖なる者、エホバが言われた(イザヤ43・14、48・17)。
 その方の名前は万軍の主、あなたのあがない主はイスラエルの聖なる者(イザヤ54・5)
彼らは、神を、イスラエルの聖なる者を試みた
(詩篇78・41)。
 彼らはエホバを見捨てた、イスラエルの聖なる者を怒らせた(イザヤ1・4)。
 彼らは言った、「私たちの顔からイスラエルの聖なる者をやめることをせよ」。それゆえ、イスラエルの聖なる者はこのように言われた(イザヤ30・11、12)。
 彼らは言う……「その方の働きを急せよ、私たちが見、イスラエルの聖なる者の思慮が近づき、やって来るために」(イザヤ5・19)。
 その日に……真理として、エホバに、イスラエルの聖なる者にたよる(イザヤ10・20)。
 シオンの娘よ、叫び、歓呼せよ、あなたの真ん中でイスラエルの聖なる者は偉大〔であられる〕からである(イザヤ12・6)。
 イスラエルの神の言われたこと……その日に、人間は自分の形成者を眺め、その目をイスラエルの聖なる者に〔向ける〕(イザヤ17・6、7)。
 柔和な者にエホバの中で楽しさが加わり、人々の乏しい者たちはイスラエルの聖なる者に小躍りして喜ぶ(イザヤ29・19、41・16)。
 国民があなたへ走る、あなたの神エホバのために、またイスラエルの聖なる者のために(イザヤ55・5)。
 島々はわたしに信頼する……あなたの息子を遠方から……万軍のエホバの名前に、イスラエルの聖なる者に連れて来るために(イザヤ60・9)。
 地はイスラエルの聖なる者からの罪に満ちている(エレミヤ51・5)。
 (エホバに対して傲慢に振る舞った、)イスラエルの聖なる者に対して(エレミヤ50・29)。

(また多くの他の箇所に。)

イスラエルの聖なる者」によって人間性に関する主が意味されます。なぜなら、天使ガブリエルがマリヤに言ったからです、

 聖なる者があなたから生まれ、神の子と呼ばれます(ルカ1・35)。

エホバとイスラエルの聖なる者はひとつであることが、たとえ区別して呼ばれていても、ここに示されたエホバがイスラエル聖なる者であると言われている箇所からもまた明らかにすることができます。

主について

40◀︎目次▶︎42

41 (4) 主は主と神と言われている
 このことは、もし示されるなら、ページを満たすようにも多くの箇所から明らかです。
これらわずかなもので十分です。
「ヨハネ福音書」に、

 トマスは主の命令によりその方の手を見た、またその方の脇を触れ、言った。「私の主、私の神」(20・27、28)。

「ダビデの書」に、

 彼らは、神が自分たちの岩であり、いと高き神が自分たちのあがない主だったことを思い出した(詩篇78・35)。

また「イザヤ書」に、

 その方の名前は万軍のエホバ、あなたのあがない主、イスラエルの聖なる者。全地の神と呼ばれる(54・5)。

このこともまた、その方を崇拝し、その方の前に自分の顔を伏せたことから明らかです(マタイ9・18、14・33、15・25、28・9。マルコ1・40、5・22、7・25、10・17。ルカ17・15、16。ヨハネ9・38)。

また「ダビデの書」に、

 私たちはその方についてエフラタの中で聞いた。……私たちはその方の住まいの中に入り、その方の足台に腰をかがめよう(詩篇132・6、7)。

天界の中でも同様であり、それについては「黙示録」の中に、

 私は霊の中にいた。見よ、天の中に置かれた王座を、王座の上に座っている者を……碧玉や赤めのうに似ていた。王座のまわりに緑玉の外観に似た虹を。……二十四の長老たちが王座の上に座っている者の前に伏せ、永遠に生きている方を崇拝し、自分の冠を王座の前に投げ出した(4・2、3、10)。

また他の箇所に、

 私は、王座の上に座っている者の右手に内側にまた背に書かれ、七つの封印で封じられた巻き物を見た。だれもそれを開くことができなかった。その時、長老たちからのひとりが言った。見よ、ユダの種族から、ダビデの根である獅子が、巻き物を開き、その七つの封印を解くために勝った。また私は見た……王座の真ん中に……小羊が立っているのを。……この者は来て、巻き物を取った。また小羊の前に伏し、永遠に生きている方を崇拝した(5・1、3、5―8、14)。

主について

41◀︎目次▶︎43

42 (5) 主は王と油を注がれた者と言われている
 このことは、メシアすなわちキリストであったからです。そしてメシアすなわちキリストは王と油を注がれた者を意味します。
ここから、主もまた、みことばの中で「王」によって——同様にユダまたイスラエルの王であった「ダビデ」よって意味されます。
主が「王」と「エホバの油を注がれた者」と言われたことは、みことばの中の多くの箇所から明らかです。
それゆえ「黙示録」の中に言われています、

 小羊は彼らに勝つ、主の主、王の王であるから(17・14)。

また他の箇所に、

 白い馬の上に乗る者には「着物の上に……王の王また主の主と書かれた自分の名前」があった(19・16)。

そのことから、主が「王」と言われ、天界と教会が「その方の王国」と言われ、また世へのその方の来臨が「王国の福音」と言われます。
天界と教会が「その方の王国」と言われることは、マタイ12・28、16・28。マルコ1・14、15、9・1、 15・43。ルカ1・33、4・43、8・1、10、9・2、11、60、10・11、16・16、19・11、21・31、22・18、23・51にあります。
また「ダニエル書」に、

 神は国を起こされる、それは永遠に滅びない。……他のすべての国を粉砕し、消滅させる、けれどもその国は永遠に立つ(2・44)。

同書に、

 私は夜の幻の中を見ていた。見よ、天の雲とともに人の子が来た。……この者に、すべての民、国民と言語がその方を礼拝するよう主権と栄光と王国が与えられた。その方の主権は永遠の主権……その方の王国は滅びない(7・13、14、27)。

その方の来臨が「王国の福音」と言われていることは、マタイ4・23、9・35、24・14にあります。

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42◀︎目次▶︎44

43 (6) 主はダビデと言われている
 このことは、これらから明らかです——

 その日に……〔彼らは〕自分たちの神エホバに、わたしが彼らに起こす自分たちの王ダビデに仕える(エレミヤ30・8、9)。
 その後、イスラエルの息子たちは戻り、自分たちの神エホバを、自分たちの王ダビデを求める。終わりの日に、恐れをもってエホバに、その方の善へ来る(ホセア3・5)
 わたしは彼らの上に彼らを養うひとりの羊飼い、わたしのしもべダビデを起こす、この者は彼らを養う、彼らに羊飼いとなる。わたしエホバは彼らに神となり、ダビデは彼らの真ん中で君主となる(エゼキエル34・23、24)。
 〔彼らは〕わたしの民となり、わたしは彼らに神となる。……わたしのしもべダビデが彼らの王、彼らすべてにひとりの羊飼いであるために。……その時、……彼らと彼らの息子たち、そして彼らの息子たちの息子たちは、永遠に地の上に住む。ダビデは……永遠に彼らに君主〔となる〕。わたしは平和の契約を結び、永遠の契約が彼らとともにある(エゼキエル37・23―26)。
 わたしはあなたがたと永遠の契約、ダビデの強固な慈悲(の契約)を結ぶ。見よ、わたしは民にその方を証人とし、国民の君主と立法者を与えた(イザヤ55・3、4)。
 その日に、わたしはダビデのつぶれた天幕を起こし、その破れをふさぎ、その破壊されたものを再建し、それを永遠の日のように建てる(アモス9・11)。
 ダビデの家は神のように、彼らの前にエホバの天使のように〔なる〕(ゼカリヤ12・8)。
 その日に、ダビデの家に泉が開かれる(ゼカリヤ13・1)。

主について

43◀︎目次▶︎45

44 「ダビデ」によって主が意味されることを知っている者は、なぜダビデが自分の「詩篇」の中で、自分自身について書いているとき、これほど主について書いたか知ることができます——例えば「詩篇」八十九編の中に、そこにこれらが——

 わたしは、わたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデと誓った。永遠に、わたしはあなたの裔を堅く立て、あなたの王座を代々限りなく建てる。天はあなたの驚くべきことをほめたたえる……真実もまた……聖徒たちの集まりの中で。……その時、あなたは、幻の中で、あなたの聖徒と話し、あなたは言われた、「わたしは力〔ある者〕の上に助けを置き、わたしは民から選ばれた者を上げた。わたしは、わたしのしもべダビデを見つけ、わたしの最も聖なる油を彼に注いだ。その者とともにわたしの手は堅く立てられ、わたしの腕もまた彼を強くする。……わたしの真実とわたしの慈悲が彼とともに〔あり、〕わたしの名前によって彼の角は高められる。わたしは彼の手を海の中に、彼の右手を流れの中に置く。彼はわたしを、『わたしの父、わたしの神、わたしの救いの岩』と呼ぶ。わたしもまた彼に長子の権利を与え、地の王たちに〔対して〕高いもの〔とする〕。……わたしの契約は彼に堅く立っている〔ものになる〕。……わたしは永遠に彼の裔を置き、彼の王座を天の日のように〔する〕。……かつて、わたしはわたしの神聖なものによって誓った。わたしは決してダビデに偽らない。彼の裔は永遠にあり、彼の王座は太陽のようにわたしの前に〔あり〕、月のように、また雲の中の忠実な証人〔のように〕永遠に堅く立てられる」(3―5、19―21、24―29、35―37)。

同様に、他の「詩篇」の中で(例えば、詩篇45・1―17、詩篇122・4、5、詩篇132・8―18)。

主について

44◀︎目次▶︎46

(9)神はひとりであられ、主はその神であられる

45 すぐ前の章の中に、みことばから示されたおびただしいものから、主が「エホバ」「イスラエルとヤコブの神」「イスラエルの聖なる者」「主」「神」、なおまた「王」「油を注がれた者」「ダビデ」と言われることを明らかにすることができます。それらから、主は神ご自身であり、みことばは主からあり、主についてであることを見ることができます、しかし依然として格子の仕切りを通してかのようにです。
それでもやはり、世界の全地に、神はひとりであることがよく知られています。そのことを健全な理性をもつ人間はだれも否定しません。
それで今から、そのことと、それに加えて、主はその神であられることを、みことばから証明することが残されています。
[2](1) 神はひとりであられる  このことは、これらのみことばから証明することができます——

 イエスは言われた、「戒めのすべてで第一のもの〔はこれ〕です。『イスラエルよ、聞け、私たちの神〔である〕主はひとりである。それゆえ、あなたの神〔である〕主を、全心から、全霊魂から愛せよ』」(マルコ12・29、30)。
 聞け、イスラエル。エホバは私たちの神、エホバはひとりである。……あなたの神エホバを、あなたの全心から、あなたの全霊魂から愛せよ(申命記6・4、5)。
 ひとりの者がイエスに近づいて言った、「善い先生。私が永遠のいのちを持つために、私はどんな善をするべきですか?」 イエスは彼に言われた。「なぜ、あなたはわたしを善いと言うのですか?ひとりの神以外にだれも善ではありません」(マタイ19・16、17)。
 地のすべての王国が、あなただけがエホバ〔である〕ことを知るために(イザヤ37・20)。
 わたしがエホバ、ほかにいない。わたしのほかに神はいない。……太陽の上る〔ところ〕から、入り(西)から、わたしのほかに神はいないことを知るために。わたしがエホバ、ほかにいない(イザヤ45・5、6)。
 ケルビムの上に住んでいるイスラエルの神、万軍のエホバよ。あなただけが地のすべての王国の上の神です(イザヤ37・16)。
 わたしのほかに神がいるのか?また岩〔であるのか?〕、わたしは知らない(イザヤ44・8)。
 エホバのほかにだれが神なのか?私たちの神でないなら、それは岩なのか?(詩篇18・31)。

[3](2)主はその神であられる
 このことは、これらのみことばから証明することができます——

 神はただあなたの中にだけにいて、ほかにいない、神はいない。まことに、あなたは隠れた神、イスラエルの神、救い主(イザヤ45・14、15)。
 わたしがエホバではないのか、わたしのほかにもはや神はいないのではないのか?わたしのほかに正義の神と救い主はいない。わたしを眺めよ、地のすべての端が救われるために、わたしが神であり、ほかにいないからである(イザヤ45・21、22)。
 わたしがエホバ、わたしのほかに救い主はいない(イザヤ43・11)。
 わたしはあなたの神エホバである……あなたはわたしのほかに神を知らない、わたしのほかに救い主はいない(ホセア13・4)。
 イスラエルの王、エホバ、そのあがない主、万軍のエホバはこのように言われた。「わたしは初めと終わりである、わたしのほかに神はいない」(イザヤ44・6)。
 その方の名前は万軍のエホバ、あがない主……イスラエルの聖なる者、全地の神と呼ばれる(イザヤ54・5)。
 その日に……エホバは全地の上に王となる。その日にエホバはひとりである、その方の名前はひとつである(ゼカリヤ14・8、9)。

主おひとりが救い主とあがない主であられるので、エホバがその方であり、その方のほかにいない、と言われるので、ひとりの神は主以外の他の者ではないことがいえます。

主について

45◀︎目次▶︎47

(10)聖霊は主から発出している神性であり、それは主ご自身である

46 イエスは「マタイ福音書」で言われました、

 わたしに、天の中でまた地上で、すべての権力が与えられています。それゆえ、(あなたがたは)行って、すべての国民を弟子としなさい。父、子、聖霊の名前によって彼らに洗礼を授け、わたしがあなたがたに命じたどんなことでもすべてを守ることを彼らに教えなさい。見よ、わたしはすべての日々、世代の完了まで、あなたがたとともにいます(28・18―20)。

以前に、父と呼ばれる神性、子と呼ばれる神性が、主の中で一つであることが示されました。そこで今から、聖霊が主と同じでものあることを示します。
[2]主が、「父、子、聖霊の名前によって洗礼を授ける」ようにと言われたのは、主の中に三重の存在すなわち三一性があるからです。というのは、神性は父、子は神的人間性、発出している神性は聖霊と呼ばれるからです——父である神性、子である神性は、もととなる神性です。そして、聖霊である発出している神性は、手段となる(働く)神性です。
主から発出する神性は主の神性以外の何ものでもないことは、小著『神的な摂理・全能・遍在・全知について』に見られるでしょう。というのは、さらに深い研究を要するものであるからです。
[3]主の中に三重の存在があることは天使と比較することによって説明ができます——天使には霊魂と身体そしてまた発出しているものがあります。天使から発出するものは、その外にあります——この発出しているものについて多くのことを知ることが与えられました、しかしこの場ではそれらを示すことはしません。
[4]神へ目を向ける人間はだれも、死後、天使たちから最初に、聖霊は主からものでしかないこと、また「出ること」や「発出すること」は〔主の〕臨在によって照らされ、教えられること以外のものではなく、それは主のものの受け入れにしたがっていることを教えられます。それゆえ、大部分の者は、死後、世で聖霊について抱いた観念を捨て、〔聖霊とは〕天使と霊を通して人間のもとに主が臨在されることであり、そのことから、またそれにしたがって、人間は照らされ、教えられるという観念を受けます。
[5]さらに、みことばの中で、二つの神性、また時々、三つの神性の名前が挙げられることがよくあり、それでもそれらは一つです。例えば「エホバと神」、「エホバとイスラエルの聖なる者」、「エホバとヤコブの力ある者」、なおまた「神と小羊」です。それらは一つであるので、さらにまた他の箇所に「エホバだけが神である」、「エホバだけが聖なる者である」、その方は「イスラエルの聖なる者」また「その方のほかにいない」と言われています——なおまた時には神に代わりに「小羊」、小羊の代わりに「神」と言われます——神は「預言書」に、小羊は「黙示録」にあります。
[6]「父、子、聖霊」(マタイ28・19)によって意味される者が主だけであることは、そこの前のものや続くものから明らかです。前の節〔18節〕の中で主は、「わたしに、天の中でまた地上で、すべての権力が与えられている」と言い、続く節の中で主は、「見よ、わたしはすべての日々、世代の完了まで、あなたがたとともにいる」と言われました。このようにその方についてだけ言われており、それゆえ、その方の中に三一性があることを〔弟子たちが〕知るために、そのことを言われたのです。
[7]聖霊が主ご自身以外の何らかの神性でないことが知られるために、みことばの中の「霊」によって何が意味されるか示します。
「霊」によって
(1) 人間のいのちが全般的に意味される。
(2) 人間のいのちはその状態にしたがってさまざまであるので、それゆえ「霊」によって人間のもとのいのちのさまざまな情愛が意味される。
(3) なおまた、再生したいのち〔が意味され〕、それは霊的ないのちと呼ばれる。
(4) けれども、「霊」が主について言われるところに、その方の神的いのちが、そのように主ご自身が意味される。
(5) 特に、神的真理と呼ばれるその方の知恵のいのち〔が意味される〕。
(6) エホバご自身が、すなわち、主が預言者を通して、みことばを話された。

主について

46◀︎目次▶︎48

47 (1) 「霊」によって人間のいのちが意味される
 このことは、人間は死ぬとき霊を送り出す、と言われる普通の会話から明らかにすることができます。それゆえ、この意味で「霊」によって呼吸のいのちが意味されます。霊という言葉もまたその語源を呼吸〔吹き込むこと〕から得ています。ここから、へブル語で霊と風(息)は一つの言葉です。
人間に二つのいのちの源泉があります。一つは心臓の動きであり、もう一つは肺の呼吸です。
「霊」によって、そしてまた「霊魂」によって正しく意味されるものは、肺の呼吸からのいのちです。それは理解力からの人間の思考と一つのものとして活動します、しかし、心臓の動きからのいのちは人間の意志の愛と一つのものとして活動することは、その箇所に見られます。
みことばの中で「霊」によって人間のいのちが意味されることは、これらから明らかです——

 あなたが彼らの息を集めると、彼らは息絶え、ちりに戻る(詩篇104・29)。
 〔神は〕彼らが肉であり、立ち去り、戻らない霊〔であることを〕思い出された(詩篇78・39)。
 彼の息が出て行ったとき、地の中に戻る(詩篇146・4)。
 ヒゼキヤは、自分の霊のいのちが去ることを嘆いた(イザヤ38・16)。
 ヤコブの霊は生き返った(創世記45・27)。
 鋳造は……偽りのものである、その中に息はない(エレミヤ51・17)。
 主エホビは〔乾いた〕骨に言われた……わたしは、あなたがたが生きるようにあなたがたの中に息をもたらす。……風(息)よ、四つの方向からやって来い、この殺された者の中に吹き込め、生きよ。……息が彼らの中にやって来て、生き返った(エゼキエル37・5、6、9、10)。
 イエスは娘の手をつかんで……彼女の霊が戻り、直ちに起き上がった(ルカ8・54、55)。

主について

47◀︎目次▶︎49

 48 (2) 人間のいのちは彼の状態にしたがってさまざまであるので、それゆえ、「霊」によって人間のもとのいのちのさまざまな情愛が意味される
 例えば (1)知恵のいのち——

 ベツァルエルは、知恵、知性、知識の霊に満ちていた(出エジプト記31・3)。
 あなたは、心に知恵のあるすべての者に、知恵の霊に満たされただれにでも、話さなければならない(出エジプト記28・3)。
 ヨシュアは……知恵の霊で満ちていた(申命記34・9)。
 ネブカデネザルはダニエルについて〔言った、「その者の中に神の聖なる霊がある」。女王は言った、〕知識、知性、知恵のすぐれた霊が彼の中にあったこと(ダニエル4・8、5・12)。
 霊で迷っている者は知性を知る(イザヤ29・24)。

[2](2)いのちの奮起——

 エホバはメディア人の王たちの霊を奮起させた(エレミヤ51・11)。
 エホバはゼルバベルの霊を……民のすべての残りの者の霊を奮起させた(ハガイ1・14)。
 わたしはアッシリヤの王の中に「うわさを聞き、自分の地に帰るような霊」を置く(イザヤ37・7)。
 エホバは王シホンの霊を重くした(申命記2・30)。
 あなたがたの霊にのぼることは、決して起こらない(エゼキエル20・32)。

[3](3)いのちの自由——

 「霊がどこに行くようであっても、行く」四つの生き物が(それはケルブであった)預言者に見られた(エゼキエル1・12、20)。

[4](4)恐れ・苦痛・怒りの中のいのち——

 すべての心が溶け、すべての手がゆるめられ、すべての霊が縮められるために(エゼキエル21・7)。
 私の霊は私の上で衰えた。私の真ん中で私の心は驚いた(詩篇142・3、詩篇143・4)。
 私の霊は消耗した(詩篇143・7)。
 私、ダニエルに関して、私の霊は悲しんだ(ダニエル7・15)。
 パロの霊は乱された(創世記41・8)。
 ネブカドネザルは言った。「私の霊は乱されている」(ダニエル2・3)。
 私の霊の憤りの中で、私は行った(エゼキエル3・14)。

[5](5)いろいろな悪の情愛のいのち——

 彼の霊の中に欺きがないかぎり(詩篇32・2)。
 エホバは彼らの真ん中にひねくれた霊を混入された(イザヤ19・14)。
 愚かな預言者たちに言った、「その者は自分の霊の後ろを行く」(エゼキエル13・3)。
預言者は愚か者、霊の男は気が狂っている(ホセア9・7)。
 あなたがたはあなたがたの霊によって見張れ、裏切ってもならない(マラキ2・16)。
 淫行の霊が惑わせた(ホセア4・12)。
 淫行の霊が彼らの真ん中に〔あった〕(ホセア5・4)。
 ねたみの霊が彼に移ったとき(民数記5・14)。
 男、その者は霊でさまよって、うそをしゃべりまくる(ミカ2・11)。
 世代の者……その霊は神に定まっていない(詩篇78・8)。
 眠気の霊が彼らの上に注がれた(イザヤ29・10)。
 あなたがたはくずをはらめ、切り株を生め。あなたがたの霊については、火はあなたがたを食い尽くす(イザヤ33・11)。

[6](6)地獄のいのち——

 わたしは汚れた霊を地から移す(ゼカリヤ13・2)。
 汚れた霊が人間から出て行き、渇いた場所をさまようとき……。その後、自分に七つ……自分よりもさらに悪い霊を結びつけ、そこに入って住む(マタイ12・43―45)。
 バビロンは「汚れた霊の牢となった」(黙示録18・2)。

[7](7)加えて、人間が悩まされる地獄の霊そのもの——

(マタイ8・16、10・1、12・43—45。マルコ1・23―27、9・17―29。ルカ4・33、36、6・17、18、7・21、8・2、29、9・39、42、55、10・24―26、13・11。黙示録13・15、16・13、14)。

主について

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49 (3) 「霊」によって霊的ないのちと呼ばれる再生したいのちが意味される——

 イエスは言われた、「だれかが水と霊から生まれなかったなら、神の王国の中に入ることはできません」(ヨハネ3・5)。
 わたしはあなたがたに新しい心と新しい霊を与える。……わたしの霊をあなたがたの真ん中に与える。わたしの法の中をあなたがたが歩くようにする(エゼキエル36・26、27)。
 新しい心と新しい霊を与えること(エゼキエル11・19)。
 清潔な心を私の中に造ってください、神よ、私の真ん中に強固な霊を新たにしてください。私にあなたの救いのうれしさを戻してください。自発的な霊が私を支えますように(詩篇51・10―12)。
 あなたがたに新しい心と新しい霊をつくれ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか?(エゼキエル18・31)。
 あなたが、あなたの霊を送られると、彼らは創造される。あなたは地の面を新しくされる(詩篇104・30)。
 時が来る。今が、真の礼拝者たちが霊と真理の中で父を崇拝する時である(ヨハネ4・23)。
 神エホバは……民に息(魂)を……その中を歩む者に霊を与えられる(イザヤ42・5)。
 エホバは「人間の霊を彼の真ん中に形作られる」(ゼカリヤ12・1)。
 私の魂は、夜に、あなたを待ち望んだ……私の霊は、朝に、私の真ん中であなたを待ち望んだ(イザヤ26・9)。
 その日に、エホバは……審判の中に座る者に審判の霊となる(イザヤ28・5、6)。
 私の霊は、私の救いの神を小躍りして喜んだ(ルカ1・47)。
 北の地で、わたしの霊を休ませる(ゼカリヤ6・8)。
 あなたの手の中に私の霊をゆだねます、あなたは私をあがなわれます(詩篇31・5)。
 彼は一つを作ったのではないか、またそれに霊の残りのもの〔がある〕(マラキ2・15)。
 獣により殺されたふたりの証人の中に「三日半の後、神からのいのちの霊(息)が入った」(黙示録11・11)。
 わたしエホバは「山々の形成者、霊(風)の創造者〔である〕」(アモス4・13)。
 神。すべての肉に関する霊の神よ(民数記16・22、27・16)。
 「わたしはダビデの家の上に、またエルサレムの住民の上に、霊を注ぎ出す」高いところから(ゼカリヤ12・10)。
 高いところから私たちの上に霊を注ぐ〔その時〕まで(イザヤ32・15)。
 わたしは渇いている者の上に水を、また乾いたところの上に流れを注ぎ、わたしはあなたの子孫の上にわたしの霊を注ぐ(イザヤ44・3)。
 わたしはわたしの霊をすべての肉の上に注ぐ……さらにまた召使いと女召使いの上に、その日、わたしは霊を注ぐ(ヨエル2・28、29)。

霊を注ぐこと」によって、同様に、「新しい心と新しい霊を与えること」によって再生させることが意味されます。
[2]「霊」によって、卑下の中にいる者の霊的ないのちが意味される——

 わたしは、砕かれて、へりくだった霊の中に住む。へりくだった霊を生かし、砕かれた心を生かすために(イザヤ57・15)。
 神へのいけにえは、砕かれたたましい、砕かれた罪を悔いた心、〔それを〕神は軽蔑されません(詩篇51・17)。
 「嘆きの代わりに嬉しさの油を、ふさぎ込んだ霊の代わりに称賛の外套を」与えられる(イザヤ61・3)。
 捨てられ、霊で苦しめられた女(イザヤ54・6)。
 霊で貧しい者たちは幸いです、天の王国は彼らのものであるからです(マタイ5・3)。

主について

49◀︎目次▶︎51

50 (4) 「霊」が主について言われているところに、その方の神的いのちが、そのように主ご自身が意味される
 このことは、これらから明らかです——

 父が遣わされた者は神のことばを話す。神はその方に霊を量って与えられない。父は子を愛し、すべてのものをその方の手に与えられた(ヨハネ3・34、35)。
 エッサイの幹から若枝が出た……その方の上にエホバの霊が、知恵と知性の霊、助言と力の霊が休む(イザヤ11・1、2)。
 わたしは彼の上にわたしの霊を与えた、彼は国々に審判をもたらす(イザヤ42・1)。
 狭い流れのようにやって来る、エホバの霊はその中にしるしを持ち込む。その時、シオンにあがない主がやって来る(イザヤ59・19、20)。
 主エホビの霊がわたしの上に〔ある〕……エホバはわたしに、貧しい者に良い知らせ(福音)をもたらすために油を注がれた(イザヤ61・1。ルカ4・18)。
 イエスは、自分の霊で彼らがそのように自分たちの間で考えていたことを知って……(マルコ2・8)。
 イエスは霊で小躍りして喜び、言われた……(ルカ10・21)。
 イエスは自分の霊で乱れて(ヨハネ13・21)。
 イエスは自分の霊で嘆息して(マルコ8・12)。

[2]エホバご自身すなわち主としての霊——

神は霊である(ヨハネ4・24)。
 だれがエホバの霊を導いたのか、あるいは、だれがその方の助言の男なのか?(イザヤ40・13)。
 エホバの霊はモーセの手によって彼らを導いた(イザヤ63・12)。
 私はあなたの霊から、どこへ立ち去るのか、私は……どこへ飛び去るのか?(詩篇139・7)。
 エホバは言われた、「力によってではない、しかしわたしの霊によって彼は行なう」(ゼカリヤ4・6)。
 彼らはその方の霊なる霊を怒らせた。そこから、彼らに向きを変え、敵と〔なられた〕(イザヤ63・10。詩篇106・33)。
 わたしの霊は永久に人間を責めない、肉であるからである(創世記6・3)。
 わたしは永久に争わない……わたしの前に霊は弱るからである(イザヤ57・16)。
 聖霊に逆らう冒涜は赦されない。しかし人の子に逆らうことばを言った者は赦される(マタイ12・31、 32。マルコ3・28―30。ルカ12・10)。

聖霊に逆らう冒涜」は主の神性に対する冒涜です——「人の子に逆らうことば」は、その意味を異なって解釈しているみことばに対する何らかのものです。というのは、前に示されたように、「人の子」は、みことばに関する主であるからです。

主について

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51 (5) 「霊」によって、そこに主について〔述べられているとき〕、特に、神的真理であるその方の知恵のいのちが意味される——

 わたしはあなたがたに真実を言います。わたしが立ち去ることはあなたがたに益です——というのは、もしわたしが立ち去らないなら、パラクレートスはあなたがたにやって来ないからです。けれども、もしわたしが立ち去ったなら、わたしは彼をあなたがたに遣わします(ヨハネ16・7)。
 彼が、真理の霊がやって来る時、あなたがたをすべての真理の中に導きます。自分自身からは話しません。しかしどんなものでも聞いた〔ことを〕話します(ヨハネ16・13)。
 彼はわたしを栄化します、わたしから受け入れて、あなたがたに知らせるからです。父が持っているどんなものでも、すべてのものはわたしのものです。わたしについて受け入れ、あなたがたに知らせるために、わたしは言いました(ヨハネ16・14、15)。
 わたしは父にお願いします。あなたがたにもうひとりの助け主(パラクレートス)を与えてくださることを……真理の霊、それを世は受け入れることができません、それを見ないし、それを知りもしないからです。けれども、あなたがたはその方を知っています。あなたがたのもとにとどまり、あなたがたの中にいるからです。わたしはあなたがたを、孤児を、置き去りにしません。わたしはあなたがたのところにやって来ます、あなたがたはわたしを見ます(ヨハネ14・16―19)。
わたしはあなたがたに父から遣わす助け主(パラクレートス)がやって来る時、真理の霊が……わたしについて証言します(ヨハネ15・26)。
 イエスは叫んで、言われた、「だれかが渇いたなら、わたしにやって来て飲みなさい。わたしを信じるだれでも、聖書が言っているように、その方の腹から、生きている水の川が流れ出ます」。これを……その方を信じる者が受け入れることになる霊について言われた。イエスはまだ栄化されていなかったので、聖霊はまだなかったからである(ヨハネ7・37―39)。
 イエスは弟子たちの中に息を吹き込み、言われた、「聖霊を受けよ」(ヨハネ20・22)。

[2]「助け主(パラクレートス)」、「真理の霊」、「聖霊」によって、主が自分自身を意味したことは、「世は彼をまだ知らなかった」という主のことばから明らかです。というのは〔彼らは〕まだ主を知らず、「その方を遣わす」と言ったとき、〔次のことばを〕と言い足したからです、

 わたしは、あなたがたを、孤児を、置き去りにしません。わたしはあなたがたのところにやって来ます、あなたがたはわたしを見ます(ヨハネ14・16―19、26、28)。

また他の箇所に、

 見よ。わたしはすべての日々に、世代の完了まで、あなたがたといます(マタイ28・20)。
 トマスが、「私たちはあなたがどこへ行くか知りません」と言ったとき、イエスは、「わたしは道と真理です」と言われた(ヨハネ14・5、6)。

[3]「真理の霊」または「聖霊」は、真理そのものである主と同じものであるので、それゆえ、さらにまた言われました、

 イエスはまだ栄化されていなかったので、聖霊はまだなかった(ヨハネ7・39)。

なぜなら、栄化すなわち父との完全な結合の後、それは十字架の受難によって行なわれましたが、その時、主は神的知恵と神的真理、このように聖霊であられたからです。
主が弟子たちの中に息を吹き込み、「聖霊を受けよ」と言われたのは、天界のすべての呼吸は主からであったからです——というのは、天使に人間と等しく呼吸と心臓の振動があるからです。主からの神的知恵の受容にしたがって彼らに呼吸があり、主からの神的愛の受容にしたがって彼らに心臓の振動または鼓動があります——このようであることは、その箇所に見られます。
[4]聖霊が主からの神的真理であることは、これらの箇所からさらに明らかです——

 彼らがあなたがたを会堂に引き渡した時……何を言ったらよいか心配してはなりません。その時、聖霊が、あなたがたが言うべきことを教えてくださいます(ルカ12・11、12、21・14。マルコ13・11)。
 エホバは言われた、「わたしの霊はあなたの上に〔ある〕、わたしがあなたの口の中に置いたわたしのことばは、あなたの口から去らない」(イザヤ59・21)。
 エッサイの幹から若枝が出る……自分の口の杖で地を打ち、自分の唇の霊で不信心な者を殺す……真理はその方の腰の帯となる(イザヤ11・1、4、5)。
 今や、口で命じ、その方の霊がそれらを集めた(イザヤ34・16)。
 神を崇拝する者は、霊と真理の中で崇拝するべきです(ヨハネ4・24)。
 生かすものは霊であり、肉は何も生み出しません。わたしがあなたがたに話すことばは、霊といのちです(ヨハネ6・63)。
 ヨハネは言った。「私はあなたがたに悔い改めへ向けて、水で洗礼を授けます。けれども、私のあとにやって来る者は……聖霊と火の洗礼を授けます」(マタイ3・11。マルコ1・8。ルカ3・16)。

「聖霊と火で洗礼を授けること」は、信仰のものである神的真理によって、また愛のものである神的善によって再生させることです。

 イエスは、洗礼を受けたとき、天が開き、聖霊が鳩のように下るのを見られました(マタイ3・16。マルコ1・10。ルカ3・21、22。ヨハネ1・23、33)。

鳩は神的真理による清めと再生の表象です。
[5]そこに主について〔述べられている〕「聖霊」によって、神性そのもののいのちが意味されるので、このようにその方が——特に、神的真理と呼ばれるその方の知恵のいのちが意味されるので——それゆえ、預言書の「霊」によって、それは「聖霊」とも呼ばれますが、主からの神的真理が意味されます。続く次のものの箇所でのように——

 霊は諸教会に言われた(黙示録2・7、11、29、3・1、3、6、13、22)。
 王座の前で燃えている七つの明かりの火は……神の七つの霊である(黙示録4・5)。
 長老たちの真ん中に小羊が立っている……七つの目を持って、それらは全地に遣わされた神の七つの霊である(黙示録5・6)。

明かりの火」と「主の目」は神的真理を意味し、そして「七つ」は聖なるものを意味します。

 霊は言われた、「自分たちの労苦から休むように」(黙示録14・13)。
 霊と花嫁は言った、「来てください」(黙示録22・17)。
 エホバがご自分の霊の中に、預言者の手を通して送った律法またはことばを聞かないように、〔彼らは〕自分たちの心をダイヤモンドとした(ゼカリヤ7・12)。
 エリヤの霊がエリシャの上にやって来た(列王記Ⅱ2・15)。
 ヨハネは「エリヤの霊と力の中で」前を行った(ルカ1・17)。
 「エリサベツは聖霊に満たされて」預言した(ルカ1・41)。
 ザカリヤは聖霊に満たされて預言した(ルカ1・67)。
 ダビデは聖霊の中で言った。「主は私の主に言われた。わたしの右に座りなさい」(マルコ12・36)。
 イエスの証しは預言の霊です(黙示録19・10)。

それで、「聖霊」によって、特に、神的知恵に関する主が、またここから神的真理に関する主が意味されるので、聖霊について、照らす、教える、吹き込むことがどこから言われているか明らかです。

主について

51◀︎目次▶︎53

52 (6) エホバご自身が、すなわち、主が預言者を通して、みことばを話された——
預言者たちについて、「幻(幻視)の中に」いた、「エホバが彼らと話した」とあります。
幻(幻視)の中にいたとき、自分の身体の中にいないで、自分の霊の中にいたのです。その状態の中で、天界の中にあるようなものを見ました——けれども、エホバが彼らと話されたとき、その時、自分の身体の中にいて、エホバが話されるのを聞きました。
預言者たちのこれらの二つの状態は正しく区別されなければなりません。
幻(幻視)の状態の中で、彼らの霊の眼が開かれ、彼らの身体の目は閉ざされ、そしてその時、自分自身にもまた、自分の身体の中にとどまって場所から場所の中へ連れ去られることが見られました。
この状態の中に、時々、エゼキエル、ゼカリヤ、ダニエルが、また「黙示録」を書いたときヨハネがいました——またその時、「幻の中に」すなわち「霊の中に」いたと言われています。
というのは、エゼキエルは言ったからです、

 霊は私を持ち上げた、また(神の)幻の中で、神の霊の中でカルデヤの捕囚〔の民〕へ戻した。このように私の上に幻は上った、それを私は見た(エゼキエル11・1、24)。

〔また〕言いました、

 霊は彼を持ち上げ、私の後ろで地震を、他のものを聞いたこと(3・12、14)。
 なおまた、霊は彼を地と天の間に持ち上げ、神の幻の中でエルサレムの中に連れ去り、忌まわしいものを見たこと(8・3以降)。

それゆえ、同様に、神の幻の中で、すなわち、霊の中で、見ました、

 四つの生きものを、それらはケルビムでした(第1章、第10章)。
 なおまた、新しい地と新しい神殿を、またそれを測っている天使を(それらについて第40章から48章の中に)。

その時、神の幻の中にいた、と言ったことは第40章2に——また、その時、霊が彼を持ち上げたことは第43章5にあります。
ゼカリヤも同様であり、その時、その中に天使がいました、

 ミルトスの木の間に馬に乗っている男を見たとき(ゼカリヤ1・8以降)。
 四つの角を、またその後、男を、その者の手の中に測り綱を見たとき(1・18、2・1)。
 大祭司ヨシュアを見たとき(3・1以降)。
 燭台と二つのオリーブの木を見たとき(4・1以降)。
飛んでいる巻き物とエパを見たとき(5・1、6)。
 二つの山の間から出て来る四つの戦車を、また馬を見たとき(6・1以降)。

同様の状態の中にダニエルはいました、

 海から上がって来る四つの獣を見たとき(ダニエル7・3)。
 雄羊と雄ヤギの戦いを見たとき(8・1以降)。

幻の中でそれらを見たことは7・1、2、7、13、8・2、10・1、7、8に、天使ガブリエルが幻の中で彼に見られ、また彼と話したことは9・21、22にあります。
似たことが、「黙示録」を書いたときヨハネに起こりました。彼は言いました、

 自分自身が「主の日に霊の中に」いた(黙示録1・10)。
 霊の中で荒野の中に追い払われたこと(17・3)。
 霊の中で高い山の中に(21・10)。
 幻の中で馬を見たこと(9・17)。

(また他の箇所に、1・12、4・1、5・1、6・5で述べたそれらを、このように、霊の中で、または幻の中で見たこと。また続く個々のものの中で)。

主について

52◀︎目次▶︎54

53 けれども、みことばそのものについては、「預言書」に、それが聖霊から語られたと言われていないで、それはエホバから、万軍のエホバ、主エホビから語られたと言われています。なぜなら、「みことばがエホバから私にあった」なおまた、きわめてしばしば「エホバが言った」、「エホバの言われたこと」とあり、主はエホバであるからです。
前に示されたように、それゆえ、すべてのみことばはその方により言われました。
そのようでないことをだれも疑わないように、私は「エレミヤ書」だけから、そこに「みことばがエホバから私にあった」、「エホバが私に語られた」、「エホバが言われた」、「エホバの言われたこと」と述べられて箇所を示します。例えば、「エレミヤ書」のこれらの中です——

1・4、7、11―14、19、2・1―5、9、19、22、29、31、3・1、6、10、12、14、16、4・1、3、9、17、27、5・11、14、18、22、29、6・6、9、12、15、16、21、22、7・1、3、11、13、19―21、8・1、3、12、13、9・3、7、9、13、15、17、22、24、25、10・1、2、18、11・1、6、9、11、17、18、21、22、12・14、17、13・1、6、9、11―15、25、14・1、10、14、15、15・1―3、6、11、19、20、16・1、3、5、9、14、16、17・5、19、20、21、24、18・1、5、6、11、13、19・1、3、6、12、15、20・4、21・1、4、7、8、11、12、22・2、5、6、11、16、18、24、29、30、23・2、5、7、12、15、24、29、31、38、24・3、5、8、25・1、3、7―9、15、27―29、32、26・1、2、18、27・1、2、4、8、11、16、19、21、22、28・2、12、14、16、29・4、8、9、16、19―21、25、30―32、30・1―5、8、10―12、17、18、31・1、2、7、10、15―17、23、27、28、31―38、32・5、6、14、15、25、26、28、30、36、42、33・1、2、4、10―13、17、19、20、23、25、34・1、2、4、8、12、13、17、22、35・1、13、17―19、36・1、6、27、29、30、37・6、7、9、38・2、3、17、39・15―18、40・1、42・7、9、15、18、19、43・8、10、44・1、2、 7、11、24―26、 30、45・1、2、5、46・1、 23、25、28、47・1、48・1、8、12、30、35、38、40、43、44、47、49・2、5―7、12、13、16、18、26、28、30、32、35、37―39、50・1、4、10、18、20、21、30、31、33、35、40、51・25、33、36、39、52、58。

これらは「エレミヤ書」にだけ〔あるものです〕。
他のすべての預言書に似たことが言われ、また聖霊が語られたことも、エホバが彼らに聖霊を通して語られたことも〔そこに述べられて〕いません。

主について

53◀︎目次▶︎55

54 これらから今や、永遠からの主であるエホバが預言者を通して語られたこと、また、「聖霊」が言われているところでは、その方であることが明らかです。

したがって、神は位格と本質で一つであり、その方は主です。

主について

54◀︎目次▶︎56

(11)アタナシウス信条の教えは、三つの位格の三一性によって 主の中にある一つの位格の三一性が意味されるかぎり、真理と一致している

55 キリスト教徒が三つの神的な位格(ペルソナ)を、そしてこのように三つの神を認めたのは、主の中に三一性があるからであり、そして一つは「父」、もう一つは「子」、また第三のものは「聖霊」と呼ばれ、この三一性は、みことばの中で区別して名づけられています。そのように、霊魂と身体とそれらから発出するものは区別して名づけられていますが、それでもそれらは一つです。
文字どおりの意味のみことばもまた、一つであるものを一つでないかのように区別するようなものです。ここから、永遠からの主であるエホバを、時には「エホバ」、時には「万軍の主」、時には「神」、時には「主」、また同時に「創造者」「救い主」「あがない主」「形成者」、それどころか「シャダイ(全能者)」と呼んでいます。そして世でまとった人間性そのものを「イエス」「キリスト」「メシヤ」「神の子」「人の子」と呼んでいます。また旧約のみことばの中で、「神」「イスラエルの聖なる者」「エホバの油を注がれた者」「王」「助言者」「天使」「ダビデ」と呼んでいます。
[2]さて、みことばは文字どおりの意味でこのようなものであるので、多くの者であるかのように呼ばれていますが、それでもその方は一つです、それゆえ、単純な者たちであった初期のキリスト教徒は、すべてのものをことばの文字どおりの意味にしたがって理解し、神性を三つの位格に区別しました。このこともまた彼らの単純さゆえに許されました。しかしそれでも、子についてもまた、無限な者・創造されない者・全能(な者)、まったく父と等しい神と主であることが信じられるために、また加えて、二つまたは三つでなく、一つの本質・威厳・栄光、このように一つの神性であることが信じられるために許されました。
[3]教えにしたがって単純にそれらを信じ、三つの神を自分自身では確信しないけれども、三つから一つとする者は、死後、主から天使を通して、その方がその一つであり、そしてそれが三一性であることが教えられます。〔そのことが〕天界にやって来るすべての者にも受け入れられます——なぜなら、どれほど口で一つと言っても、三つの神を考える者は天界にやって来ることができないからです——というのは、全天界のいのちは、そしてすべての天使の知恵は、一つの神の承認とここからの告白に、また、その一つの神は人でもあり、その方は主であり、同時に神と人であることの信仰に基づくからです。
[4]これらから、初期のキリスト教徒に、主もまた無限な神・全能者・エホバであることが一緒に受け入れられるかぎり、三つの位格についての教えが受け入れられたのは神的許しからなされたことが明らかです——なぜなら、そのこともまた受け入れられないなら、教会は主から教会であり、すべての者の永遠のいのちは主からであり、他の者からではないので、教会について万事休したであろうからです。
[5]教会が主から教会であることは、前に示されているように、みことば全体が始めから終わりまで主おひとりについて扱っていること、またその方を信じなければならないこと、またその方を信じない者に、永遠のいのちがないこと、それどころか、「神の怒りが彼らの上にとどまる」(ヨハネ3・36)こと、そのことだけから明らかにすることができます。
[6]さて、だれでも、神が一つであるなら、位格と本質で一つであることを自分自身で見るので(というのは、だれでも、神が一つであることを考えるかぎり、それと異なって考えません、考えることもできないからです)、今や、私は、アタナシウスの名前に由来する教えをそっくりそのまま示し、その後、そこに言われているそのすべてのものが、三つの位格の三一性の代わりに一つの位格の三一性が理解されるかぎり真理であることを証明します。

主について

55◀︎目次▶︎57

56 教えはこれらです——

救われることを欲する者は……この全教会の(他書に、キリスト教の)信仰を守ることが必要である——だれかがその信仰の全部をそっくりそのまま疑うことなく守らなかったなら、永遠に滅びる。
この全教会の(他書に、キリスト教の)信仰は、三一性の中の一つの神を、また同一性の中の三一性を、三つの位格を混ぜもしないで、実体(他書に、本質)を分離もさせないで私たちが崇拝することである——父の一つの位格、子のもう一つの位格、聖霊のもう一つの位格があるからである。しかし父・子・聖霊の神性は一つの同じものであり、栄光は等しく、威厳は永遠に共存する。
どのような父であるかによって、そのような子があり、そのような聖霊がある。
父は創造されず、子は創造されず、聖霊は創造されない。
父は無限であり、子は無限であり、聖霊は無限である。父は永遠、子は永遠、聖霊は永遠である。それでも、三つの永遠なる者はいない、しかし一つの永遠なる者がいる。三つの無限なる者はない、三つの創造されない者もいない、しかし一つの創造されない者、また一つの無限なる者がいる。
同様に、父が全能であるように、そのように子は全能であり、聖霊は全能であり、それでも、三つの全能なる者はいない、しかし一つの全能なる者がいる。
父が神であるように、そのように子は神である、聖霊は神である、それでも、三つの神はいない、しかし一つの神がいる。
父は主であっても、子は主であり、聖霊は主であり、それでも三つの主はいない、しかし一つの主がいる。
キリスト教の真理から私たちは、それぞれの位格がそれ自体から神と主であることを認めるよう強いられているからであるが、それでもやはり私たちは全教会の宗教によって、三つの神または三つの主が存在する、と言うことを禁じられている(他書に、やはりそれでも私たちはキリスト教信仰から三つの神または三つの主のことを言うことができない)。
父はだれからも作られず、創造されず、生まれもしない。子は父おひとりからであり、作られず、創造もされない、しかし生まれた。聖霊は父から、また子からであり、作られもしない、創造もされない、生まれもしない、しかし発出している。
そのように一つの父であり、三つの父ではない。一つの子であり、三つの子ではない。一つの聖霊であり、三つの聖霊ではない——この三一性の中にだれも最初の者と最後の者ではなく、まただれも最大の者と最小の者ではなく、しかしすべての者は、一緒に永遠なもの、また完全に等しい三つの位格である。
そのように完全であるために、前に言われたように、三一性の中の同一性を、同一性の中の三一性を崇拝しなければならない(他書に、一つの神性の中の三つの位格を、そして三つの位格の中の一つの神を崇拝しなければならない)。そのために、救われることを欲する者は、このように三一性について考えるべきである。
さらにまた、だれかが私たちの主イエス・キリストの受肉を(他書に、だれかが、私たちの主が真の人であることを)正しく信じること(他書に、変わらずに信じること)が必要である。私たちの主イエス・キリストが、神の子、神と人であり、世に生まれる前に父の実体(または本質、他書に、性質)から神であること、母の実体(他書に、性質)から、世に生まれた人であること、理性的な霊魂と人間の身体から構成されている完全な神と完全な人であり、神性に関して父に等く、そして人間性に関して父により劣る(他書に、より低い)ことを私たちが信じ、告白することが真の信仰であるからである。
たとえその方は神と人であっても、それでも二つではなく、しかし一つ〔の神〕の神的な本質を身体としての変化によってでなく、しかし神として人間性をまとわれる(他書に、その者は一つである、それでもこのようにでなく、神性が人間性としての変質によって、しかし神性がご自分に人間性を受け入れた)ことによって一つのキリストであること、実体を混ぜる(他書に、混合)によってでなく、しかし位格の同一性によって(他書に、その方は完全に一つである、それでもこのようにでなく、二つの性質が混ぜられたこと、しかしその方は一つの位格である)完全に一つ〔の神〕である。
理性的な霊魂と身体が一つの人間であるように、そのように神と人は一つのキリストであるからである。その方は私たちの救いのために苦しめられ、地獄に下り、死から三日目によみがえった。また、天に上り、全能の父の右に座った……、そこから、生きている者と死んでいる者を裁くためにやって来る、その来臨の中で、すべての人間は自分の身体とともによみがえる〔また、自己の行為の勘定書きを支払う〕、善を行なった者は永遠のいのちの中に入る、悪を行なった者は永遠の火の中に入る。

主について

56◀︎目次▶︎58

57 この教えのすべてのものは、三つの位格の三一性の代わりに一つの位格の三一性が理解されるかぎりその言葉の個々のものに関して真理であることが、そこにこの三一性が置き換えられて、再び書き写した同じものから見られることができます。
位格の三一性はこれです、「主の神性は父、神的人間性は子、神的な発出するものは聖霊である」。
この三一性が理解される時、人間は一つの神を考えることができ、そしてまた、一つの神を言うことができます——そうでなければ、三つの神を考えることしかできないことを、だれが見ませんか、そしてまたアタナシウスは見ました。それゆえ、その教えに次の言葉が導入されました——

 キリスト教の真理から私たちは、それぞれの位格がそれ自体から神と主であることを認めるよう強いられている、それでもやはり私たちは全教会の宗教(またはキリスト教の信仰)によって、三つの神が、または三つの主が存在する、と言うこと(または名前を呼ぶこと)ができない。

これは事実上、それぞれの者にキリスト教の真理から、三つの神と主を認めることと考えることが許され、やはりそれでも、キリスト教の信仰から、一つの神と一つの主以外に言うことまたは名前を呼ぶことが許されないことです——そのときそれでも、〔その〕承認と考えが、人間を主とまた天界と結合させます、けれども、単に話すことではありません。
さらに、一つである神性が、どのようにそれらのそれぞれが神である三つの位格の中に分割されることができるか、だれも把握しません。というのは、神性は分割されないからです——そして本質または実体によって三つを一つにすることは、三つの神の観念を取り去らないで、それらが一致するという観念だけを与えます。

主について

57◀︎目次▶︎59

58 その教えのすべてのものがその言葉の個々のものに関して真理であることは、三つの位格の三一性の代わりに一つの位格の三一性が理解されるかぎり、再び書き写した同じものから明らかにすることができます、今、それらを続けてみます——

救われることを欲する者はこのキリスト教の信仰を守ることが必要である。このキリスト教の信仰は——
三一性の中の一つの神を、また同一性の中の三一性を、三つの位格の三一性を混ぜないで、本質を分離もさせないで私たちが崇拝することである。
一つの位格の三一性は、父・子・聖霊と呼ばれるものである。
父・子・聖霊の神性は一つの同じものであり、栄光と威厳は等しい。
どのような父であるかによって、そのような子があり、そのような聖霊がある。
父は創造されず、子は創造されず、聖霊は創造されない。父は無限であり、子は無限であり、また聖霊は無限である。それでも、三つの無限なる者はない、三つの創造されない者もない、しかし一つの創造されない者、一つの無限なる者がいる。
同様に、父が全能であるように、そのように子は全能であり、聖霊は全能である、それでも、三つの全能なる者はいない、しかし一つの全能なる者がいる。
父が神であるように、そのように子は神である、聖霊は神である、それでも、三つの神はいない、しかし一つの神がいる。
たとえ父は主であっても、子は主であり、聖霊は主であり、やはりそれでも三つの主ではない、しかし一つの主である。
そこで、キリスト教の真理から私たちが一つの位格の中の三一性を認めるように、それは神と主である、このようにキリスト教の信仰から私たちは一つの神と一つの主を言うことができる。
父はだれからも作られず、創造されず、生まれもしない——子は父おひとりからであり、作られず、創造もされない、しかし生まれた——聖霊は父からである、また子からであり、作られもしない、創造もされない、生まれもしない、しかし発出している——そのように一つの父であり、三つの父ではない、一つの子であり、三つの子ではない、一つの聖霊であり、三つの聖霊ではない——この三一性の中にだれも最大の者と最小の者ではない、しかし完全に等しい。
そのように完全であるために、前に言われたように、三一性の中の同一性を、同一性の中の三一性を崇拝しなければならない。

主について

58◀︎目次▶︎60

59 以上はこの教えの神の三一性と同一性についてです。
以下、その教えで受肉と呼ばれる世で主によりまとわれた人間性について続けます。
それもまた教えの中のすべてと個々のものについて、主がおられた母からの人間性である卑下または空にした状態や試練と十字架を受けた状態と、また、その中におられた父からの人間性である栄化または結合の状態が明確に理解されるかぎり真理です——なぜなら、主は、永遠からの主であるエホバからみごもり、処女マリアから生まれて、世で人間性をとられたからです。ここから、その方は神性と人間性となりました。永遠からのご自分の神性からの神性と時間の中での母マリアからの人間性です。しかしこの人間性を脱ぎ捨て、神的な人間性を着ました——神的人間性(人間的な神性)と呼ばれるもの、みことばの中で「神の子」によって意味されるものは、この人間性です。
そこで、教えの中で受肉について先行する母の人間性について、その中におられた卑下の状態と、そこに続く神的人間性について、その中におられた栄化の状態が理解されるとき、その時、そこにすべてのものもまた一致します。
卑下の状態の中におられたときの母(から)の人間性に、次のものが教えの中にあるものと一致します、

イエス・キリストは神と人であり、父の実体から神、母の実体から世で生まれた人である——理性的な霊魂と人間の身体から構成されている完全な神と完全な人である——神性に関して父に等しい、そして人間性に関して父により劣った。

なおまたこれら、

その人間性を神性に変えたのではなく、それに混合させたのでもない——しかし脱ぎ捨て、その代わりに神的な人間性をとられた。
栄化の状態の中に、また今や永遠の中にいるときの神的な人間性に、教えの中に続く次のものが一致します——

たとえ私たちの主イエス・キリストは、神の子、神と人であっても、それでも二つではなく、しかし一つのキリスト、それどころか完全に一つである、というのは一つの位格であり、霊魂と身体が一つの人間であるように、そのように神と人は一つのキリストであるからである。

主について

59◀︎目次▶︎61

60 〔アタナシウス信条の〕教えにしたがって、主の中の神と人は二つではなく、しかし一つの位格であり、霊魂と身体が一つであるように完全に一つであることは、主が言われた多くのものからはっきりと明らかです——
例えば、父とその方は一つであること。父のすべてのものはわたしのものであり、わたしのすべてのものは父のものであること。その方は父の中に、また父はその方の中におられること。すべてのものはその方の名前の中に与えられていること。その方にすべての力があること。天地の神であること。その方を信じる者は永遠のいのちを持ち、その方を信じない者には神の怒りがその者の上にとどまること。またさらに、〔主の〕神性と人間性が天界に上げられ、両方に関して神の右に座ること、すなわち、全能であることです——また、神的人間性について、前にみことばから数多く示されている多くのことがあります、それらすべてのものが、神は位格も本質も一つであり、その中に三一性があること、またその神は主であることを証言しています。

主について

60◀︎目次▶︎62

61 主についてこれらのことが今、初めて公けにされたことは、『黙示録』第二十一章、第二十二章の中に前の教会の終わりに新しい教会が設立されるべきことが予言されているからであり、その教会の中でこれ〔主についての教え〕は主要なものでした。
この教会がそこの「新しいエルサレム」によって意味され、その中には、天地の神として主だけを認める者でないなら、だれも入ることはできません。
私は、全天界が主だけを認めていること、認めない者が天界に入れられないことを告げることができます——というのは、天界は主から天界であるからです。
主ご自身が「ヨハネ福音書」で教えられているように、愛と信仰からのその承認そのものが、人々を主の中に、また彼らの中に主がいるようにします、

 その日には、あなたがたは、わたしがわたしの父の中に、あなたがたがわたしの中に、わたしがあなたがたの中にいることを知ります(14・20)。

なおまた同書に、

 わたしの中にとどまりなさい、わたしもまたあなたがたの中にとどまります。……わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。わたしの中にとどまり、わたしがその者の中にとどまる者は、多くの実を結びます。なぜなら、わたしなしに、あなたがたは何も行なうことができないからです。だれでも、わたしの中にとどまらないなら、外へ投げ出されます(15・4―6、なおまた17・22、23)。

[2]このことが前に、みことばから見られなかったのは、もし前に見られたなら、やはり受け入れられなかったからです——というのは、まだ最後の審判がなし遂げられていなかったからであり、その前に地獄の力は天界の力にまさっていたからです。人間は天界と地獄の間の真ん中にいて、それゆえ、前に見られたなら、悪魔は、すなわち、地獄はそれを彼らの心から取り去り、なおまたそれを冒涜したでしょう。
地獄の力のこの状態が、今やなし遂げられた最後の審判によって完全に砕かれました——その後、照らされ、賢明になることを欲するすべての人間は、今や、このようにできます。
(その事柄については、著作『天界と地獄』589―596番と597―603番にあります。なおまた、小著『最後の審判』65―72番と73、74番に書かれています)。

主について

61◀︎目次▶︎63

(12)「黙示録」の中の「新しいエルサレム」によって新しい教会が意味される

62 「黙示録」の中で、キリスト教会の状態がその終わりの中でどのようになるか、また今どんなであるか述べられた後に、またその教会から「偽預言者」「竜」「淫婦」によって、「獣」によって意味される者が地獄へ投げ込まれた後に、このように「最後の審判」が行なわれた後に、そこに言われています、

 私は新しい天と新しい地を見た、以前の天は、以前の地は過ぎ去ったからである……。その時、私、ヨハネは聖なる都を……神から天から下って来るエルサレムを見た。また私は、天から大きな声が言っているのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人ともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、彼らの神ご自身は彼らとともにいる」。……王座の上に座っている方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする」。また私に言われた。「書け、これらのことばは真実と忠実であるからである」(黙示録21・1―3、5)。

以前の天と以前の地が過ぎ去った後に見た「新しい天」と「新しい地」によって、人間の目の前に見られる星座と大気の新しい天も人間が住む新しい地も意味されません。しかし霊界の中の教会の新しいものと自然界の中の教会の新しいものが意味されます。
[2]霊的なものも自然的なものも、両方の世界の中の教会の新しいものが、世にいたときの主によりつくられたので、それゆえ、似たものが「預言書」に予言されました。すなわち、新しい天界と新しい地が、その時、存在するようになることです(例えば、イザヤ65・17、66・22、また他の箇所に)。そこで、それらによって目の前に見られる天と人間によって住める地が意味されることはできません。
霊界によってそこに天使と霊たちが住んでいる世界が意味され、自然界によってそこに人間が住んでいる世界が意味されます。
霊界の中の教会の新しいものが近ごろつくられ、自然界の中に教会の新しいものが生じることは、小著『最後の審判に』の中にいくらかに示されており、その『続編』にさらに十分に示されるでしょう。

主について

62◀︎目次▶︎64

63 「聖なる都エルサレム」によって教えに関するその新しい教会が意味されます。それゆえ、それが神より天から下って来るのが見られました。なぜなら、本物の真理の教えは主から天界を通ってしか他の出所からやって来ないからです。
教えに関する教会が聖なる都「新しいエルサレム」によって意味されるので、それゆえ、言われています、

 その夫〔のため〕に飾られた花嫁のように整えられた(21・2)。

またその後、

 七人の天使たちからひとりが私にやって来た……私に、「来なさい。あなたに小羊の妻を見せましょう」と言って、話した——また私を霊の中で……高い山の上に連れて行った。私に、天から神より下って来る大きな都、聖なるエルサレム見せた」(同章9、10節)。

「花婿」と「夫」によって主が意味されるとき、「花嫁」と「妻」によって教会が意味されることは、よく知られています。
教会は、主を受け入れることを欲している時、花嫁です、しかし、受け入れた時、妻です。
そこの「夫」によって主が意味されることは明らかです。なぜなら、「小羊の妻〔である〕花嫁」と言われているからです。

主について

63◀︎目次▶︎65

64 みことばの中の「エルサレム」によって教えに関する教会が意味されることの理由は、そこに、他の場所でなくカナンの地に神殿があり、いけにえが行なわれ、このように神的な礼拝そのものがあったからであり——それゆえ、さらにまた毎年三つの祭りが祝われ、またその祭りへ全地のすべての男性は行くことが命じられました。
そのことから、「エルサレム」によって礼拝に関する教会が、またここから教えに関する教会も意味されます、なぜなら、礼拝は教えの中で定められ、それらにしたがって行なわれたからです——なおまた、主はエルサレムの中におられ、その神殿の中で教え、その後、そこでご自分の人間性を栄化されたからです。
さらに、みことばの中の「都」によってその霊的な意味で、教えが、そこから、「聖なる都」によって主からの神的真理の教えが意味されます(*)。
[2]「エルサレム」によって教えに関する教会が意味されることは、みことばの中の他のものからもまた明らかです。例えば、これらから。
「イザヤ書」に——

 シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、わたしは休まない。その義が輝きのように出て、その救いが明かりのように燃えるまでは。その時、国々はあなたの義を、すべての王はあなたの栄光を見る。あなたに新しい名前が呼ばれ、それをエホバの口が発声する。あなたはエホバの手の中の美しい王冠となり、あなたの神の手の中の王のかぶり物となる。……エホバはあなたを喜び、あなたの地は夫を与えられる。……見よ、あなたの救いがやって来る。見よ、その方の報酬がその方とともにある。……彼らは、聖なる民、エホバにあがなわれた者と呼ばれる——あなたは、求められ、見捨てられない都と呼ばれる(62・1―4、11、12)。

 その全章の中に主の来臨について、またその方による設立されるべき新しい教会について扱われています——この新しい教会は、「エルサレム」によって意味されるものであり、それは「新しい名前が呼ばれ、それをエホバの口が発声し」、そしてそれは「エホバの手の中の美しい王冠、あなたの神の手の中の王のかぶり物となり」、それを「エホバは喜び」またそれは「求められ、見捨てられない都と呼ばれる」——これらによって、主が世にやって来たとき、ユダヤ人がいたエルサレムが意味されることはできません、なぜなら、それはすべての正反対のものであったからです。それはむしろソドムと呼ばれるべきであり、そのようにもまた呼ばれています(黙示録11・8。(また参照)イザヤ3・9。エレミヤ23・14。エゼキエル16・46、48)。
[3]「イザヤ書」の他の箇所に、

 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造している……前のものは思い出されない。……あなたがたは、わたしが創造しているものを、永遠の中で喜べ、小躍りせよ。見よ……わたしは歓喜のエルサレムを創造し、その民を喜び〔とする〕、エルサレムに小躍りし、わたしの民を喜ぶために……。その時、狼と子羊は一緒に食う……わたしの聖なる全山の中で悪は行なわれない(65・17―19、25)。

この章にもまた主の来臨について、またその方により設立されるべき教会について扱われています。それはエルサレムの中にいた者のもとに設立されませんでした、しかしその外にいた者のもとに設立されました——それゆえ、主に歓喜であり、その民はその方に喜びであり、なおまた、そこにオオカミと子羊は一緒に食い、そこに悪は行なわれない「エルサレム」によって、この教会が意味されます。
ここにもまた、「黙示録」の中のように、主が「新しい天と新しい地」を創造されることが言われていて、それらによってもまた似たものが意味されます。そしてまた、「エルサレム」の創造が言われています。
[4]「イザヤ書」の他の箇所に、

 起こされよ、起こされよ、あなたの力をおびよ、シオン。あなたの美しい衣服を着よ、聖なる都エルサレム。あなたの中に、もはや無割礼の汚れた者がやって来るようにしないからである。あなたはちりを振り払え、起き上がり、すわれ、エルサレム。……民はわたしの名前を知るようになる……その日に。なぜなら、わたしは、「見よ、わたしを」と話す者であるから。……エホバはご自分の民を慰め、エルサレムをあがなわれた(52・1、 2、6、9)。

その章にもまた主の来臨について、またその方から設立されるべき教会について扱われています。それゆえ、「エルサレム」によって、その中にもはや無割礼の汚れた者がやって来ず、主があがなわれた教会が、また「聖なる都エルサレム」によって主からの教えに関する教会が意味されます。
[5]「ゼパニヤ書」に、

 歓呼せよ、シオンの娘。……すべての心から喜べ……エルサレムの娘。イスラエルの王が……あなたの真ん中に〔おられる〕——もはや悪を恐れるな。……〔その方は〕楽しさとともにあなた喜ばれる、あなたの愛の中で満足し、歓呼とともにあなたを小躍りして喜ばれる。……わたしはあなたがたに、地の民からのすべての者による名声と称賛を与える(3・14―17、20)。

同様に、ここに主について、またその方による教会について〔扱われています〕。その教会に、主であるイスラエルの王は、「楽しさとともに喜ばれ」、「歓呼とともに小躍りして喜び」、「その愛の中で休まれ」、その者たちに「地の民からのすべての者による名声と称賛を与え」られます。
[6]「イザヤ書」に、

 あなたのあがない主、またあなたの形成者エホバはこのように言われた……エルサレムに、「あなたは住むようになる」、またユダヤの町々に、「私たちは建築するようになる」と言われた(44・24、26)。

また「ダニエル書」に、

 知って……また認めよ。みことばが出てから、エルサレムの回復まで、また建築まで、君主メシアまで、七週(9・25)。

「エルサレム」によってここにもまた教会が意味されることは、明らかです。これは主により回復され、建築されたけれども、ユダヤ人たちの席(場所)のエルサレムではないからです。
[7]以下の箇所によってもまた「エルサレム」によって主からの教会が意味されます。
「ゼカリヤ書」に、

 エホバは言われた、「わたしはシオンへ戻ろう、わたしはエルサレムの真ん中に住もう。ここからエルサレムは、真実の都、万軍のエホバの山、聖なる山と呼ばれよう」(8・3、20―23)。

「ヨエル書」に、

 その時、あなたがたは、シオンに、神聖な山に住むわたしエホバがあなたがたの神〔である〕ことを知る……。エルサレムは神聖となる。……その日に、山々には新しいぶどう酒が滴り、丘々には乳が流れる。……エルサレムは代々に住む(3・17―20)。

「イザヤ書」に、

 その日、エホバの若枝は、美観の中に、栄光の中にある。……シオンに残された者は、エルサレムの残りの者は、聖と呼ばれる……。すべての者はエルサレムでいのちへ向けて書かれる(4・2、3)。

「ミカ書」に、

 終わりの日に、主の家の山は山々の頂に立つ。……なぜなら、シオンから教えが、エホバのことばがエルサレムから出るから。……あなたに前の王国が、エルサレムの娘の王国がやって来る(4・1、2、8)。

「エレミヤ書」に、

 その時、エルサレムはエホバの王座と呼ばれる。……すべての国はエホバの名前のためにエルサレムに集められる。もはや、自分の悪い心を確信してその後ろを歩くこともない(3・17)。

「イザヤ書」に、

 私たちの変わらない祝祭の都シオンを眺めよ。あなたの目はエルサレムを、静かな住まい、追い散らされない天幕を見る。そのくいは永久に取り除かれず、そのすべての綱は引き離されない(33・20)。

加えて他の箇所にもまた(例えば、イザヤ24・23、37・32、66・10―14。ゼカリヤ12・3、6、8―10、14・8、11、12、21。マラキ3・2、4。ダビデの詩篇122・1―7、詩篇137・4―6)。

[8]「エルサレム」によって、それらの箇所の中に主により設立され、また設立された教会が意味されることは、ユダヤ人たちにより住まわれたカナンの地のエルサレムではないことは、みことばの箇所からもまた明らかにすることができます、そこにはこのことについて、完全に失われ、破壊されるべきものであったと言われています——

例えば、エレミヤ5・1、6・6、7、7・17、18続き、8・5―7続き、9・11、 12、14続き、13・9、10、 14、14・16。哀歌1・8、 9、17。エゼキエ4・1終わりまで、5・9終わりまで、12・18、19、15・6―8、16・1―63、23・1―49。マタイ23・33、37、39。ルカ19・41―44、21・20―22、23・28―30。また多くの他の箇所の中に。

主について

64◀︎目次

65 「黙示録」の中に「新しい天と新しい地」、またその後、「見よ、わたしはすべてのものを新しくする」と言われています。それらによって、今や主により設立される教会の中に、前の教会の中になかった新しい教えがあること以外に、他のものは意味されません。
それがなかったのは、もしあったなら、受け入れられなかったことが理由です。というのは、まだ最後の審判はなく、その前に地獄の力が天界の力にまさっていたからです。それゆえ、もし以前に主の口から与えられたなら、人間のもとに残りませんでした。今日もまた、主にだけ近づき、その方を天と地の神と認める者のもとにしか残りません(前の61番参照)。
それでも、以前に、同じこの教えが、みことばの中に与えられていました。しかし教会はその設立の後に間もなく、バビロンに変わり、また続いて他の者のもとで、ペリシテに変わり、それゆえ、その教えはみことばから見られることができませんでした。なぜなら、教会は、みことばを、その宗教の原理とその教えからしか見ないからです。
[2]この小著にある新しいものは、全般的に、これらです——

 (1) 神は一つの位格(ペルソナ)と本質であり、その方は主であられる。
 (2) 聖書全体はその方だけを扱っている。
 (3) 〔その方は〕地獄を征服するために、そしてご自分の人間性を栄化するために世にやって来られた。
    両方とも自分の中に許した試練によって行ない、十字架の受難であったそれらの最後のものによって完全に行ない、そのことによってあがない主と救い主となられた。 そのことによってその方おひとりに功績と義がある。
 (4) 律法のすべてのものを成就されたが、それはみことばのすべてのものを成就されたことである。
 (5) 十字架の受難によって罪を取り去らなかった、しかしそれを預言者のように引き受けられた。 すなわち、教会がどのようにみことばに悪を行なうかご自分によって表象されるために苦しまれた。
 (6) 功績の転嫁は、それによって悔い改め後の罪の許しが意味されないなら何ものでもない。

これらがこの小著にあります。
これに続く、『聖書について』、『生活の教えについて』、『信仰について』、『神的愛と神的知恵について』の中に、新しいものがさらに見られます。