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主について15

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(4) 主は、十字架の受難によって罪を取り除かれたのではなく、それを負われた

15 教会内のある者は、「主は十字架の受難によって罪を取り去り、そして父に贖罪をなし、このようにあがなわれた」ことを——さらにまた、その方への信仰を持っているある者は、「主は自分たちの罪をご自分の中に移し、負い、そして海の深みの中へ、すなわち、地獄の中へ、投げ込まれた」と信じています。
それらを、イエスについてのヨハネのことばによって自分自身のもとに確信しています、

 見よ、世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1・29)。

また、「イザヤ書」の主のことばによって、

 彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。……私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの不正のために打たれ、私たちの平和のための懲らしめが彼の上にある。……その方を傷つけることで、健康が私たちに与えられた。……エホバは私たちのすべての不正をその方に負わせた。強制に耐えた、そしてまた苦しめられた、それでも、自分の口を開かなかった。小羊のように屠殺場へ導かれた。……生ける者の地から断たれ、私の民のそむきの罪のために、彼に打撃があった。不信心な者たちにその墓を、富む者にその死を与えるために。……自分の魂の苦闘を見て、満足する。自分の知識によって多くの者を義とし、この理由で、その方は彼らの不正を担う。……死にまでも自分の魂を吐き出し、そむいた者たちとともに数えられ、多くの者の罪を負い、そむいた者たちのためにとりなした(53・4〔から〕終わりまで)。

これらが、主の試練について、またその受難について言われています。そして「罪と病を負うこと」によって、そして「私たちのすべての不正をその方に負わせること」によって、「痛みと不正を担うこと」によって同様なものが意味されています。
[2]そこで最初に「不正を担うこと」によって何が、またその後、「それらを取り除くこと」によって何が意味されるか述べます。
「不正を担うこと」によって、きびしい試練に耐えること、なおまた、ユダヤ人たちがその方に行なったように、そのようにみことばに行なった、またその方が同様に扱われることを許容すること以外に何らかのものは意味されません、その方がみことばであったからです——というのは、その時、ユダヤ人たちのもとにあった教会は、完全に荒廃したものであったからです。真理の何らかのものが残らないまでも、みことばのすべてのものをゆがめたことによって荒廃させました。それゆえ、彼らは主を認めませんでした——このことが主の受難のすべてのものによって理解され、意味されます。
預言者たちに同様に行なわれたのは、彼らがみことばに関して、またここから教会に関して主を表象し、主自身が預言者であられたからです。
[3]主自身が預言者であられたことは、次の箇所から明らかです——

 イエスは言われた……「預言者は、自分の故郷で、自分の家で尊ばれません」(マタイ13・57、マルコ6・4、ルカ4・24)。
 イエスは言われた、「預言者がエルサレムの外で死ぬことはふさわしくありません」(ルカ13・33)。
 彼らはイエスについて言った、「彼はナザレからの預言者だ」(マタイ21・11。ヨハネ7・40、41)。
 神をほめたたえて、「大預言者が自分たちの間に起こった」と言って、恐れがすべての者を捕えた(ルカ7・16)。
 預言者が仲間の真ん中から起こされる、彼のことばに服従しなければならない(申命記18・15―19)。

預言者たちに似たことが行なわれたことは、今から続く次のものから明らかです。  預言者イザヤに、しるしと前兆として、自分の腰から麻布を解き、自分の足から履き物を脱ぎ、そして三年、裸で、はだしで行くこと(イザヤ20・2、3)によって教会の状態を表象するよう命じられました。
[4]預言者エレミヤは教会の状態を表象するために、自分に帯を買い、自分の腰の上に置き、水に通さず、それを、ユーフラテス川の近くの岩の隙間の中に隠すことを命じられ、数日後、腐っているのが見つかりました(エレミヤ13・1―7)。
さらにまた同じ預言者は、その所で自分に妻をめとらず、嘆きの家の中に入らず、そして嘆き叫ぶために出かけず、宴会の家の中に入らないことによって教会の状態を表象しました(エレミヤ16・2、5、8)。
[5]預言者エゼキエルは教会の状態を表象するために、床屋のかみそりを、自分の頭を、自分のあごひげを通過させ、その後、それらを分け、三分の一の部分を都の真ん中で燃やし、三分の一を剣で打ち、三分の一を風の中に追い散らし、それらから一部分をすそに結びつけ、最後に、火の中央に投げ込み、燃やせと命じられました(エゼキエル5・1―4)。
同じ預言者は、教会の状態を表象するために、移住の荷物をつくり、イスラエルの子らの目の中で他の場所の中に移住し、荷物を昼間に引き出し、夕に壁の掘り抜かれたところを通って出て行き、そして地を見ないよう顔をおおうことを命じられました。このようにイスラエルの家にとって前兆であり、その預言者は言わなければなりませんでした、

 見よ、私はあなたがたの前兆である。私がしたように、そのようにあなたがたになされる(エゼキエル12・3―7、11)。

[6]預言者ホセアは教会の状態を表象するために、娼婦を妻として自分に受け入れることを命じられ、そしてまた、受け入れ、彼女は彼に三人の子を産み、それらのひとりを「イズレエル」、もうひとりを「哀れまれない」、また三人目を「民でない」と呼びました(ホセア1・2―9)。
そして再び彼に、行って、仲間に愛されていて、姦淫する女を愛するよう命じられ、さらにまた彼女を銀十五〔シェケル〕で得ました(ホセア3・1、2)。
[7]預言者エゼキエルは教会の状態を表象するために、れんがを取り、その上にエルサレムを彫りつけ、包囲を置き、それ〔エルサレム〕に対して塁ととりでを置き、自分と都の間に鉄の平なべ置き、左脇の上に三百九十日、またその後、右脇の上に四十日横たわるよう命じられました。
なおまた、小麦・大麦・レンズ豆・キビ・裸麦を取り、それらから自分にパンを作り、それをその時、計量にしたがって食べました。
そしてまた、自分に人間の糞とともに〔焼いて〕大麦のパン菓子を作るよう命じられ、このことがないよう懇願したので、それを牛の糞とともに〔焼いて〕作るよう命じられました(エゼキエル4・1―15)。
加えて、預言者たちは他のこともまた表象しました。例えば、ゼデキヤは、鉄の角を自分〔のため〕につくりました(列王記Ⅰ 22・11)。
また、他の預言者は、打たれ、傷つけられ、そして目の上に灰を送りました〔灰で隠しました〕(列王記Ⅰ 20・35、37、38)。
[8]全般的に、預言者たちは文字どおりの意味である「毛衣」によって、最終的な意味の中のみことばを表象しました(ゼカリヤ13・4)。
それゆえ、エリヤは、このような下着をつけ、そして腰のまわりに皮製の帯を締めました(列王記Ⅱ 1・8)。
同様にバプテスマのヨハネは、ラクダの毛からの衣服を着、また自分の腰のまわりに皮製の帯を締め、イナゴと野蜜を食べました(マタイ3・4)。
これらから、預言者は教会とみことばの状態を表象したことが明らかです。というのは、一方を表象する者は、さらにまたもう一方も表象するから、なぜなら、教会はみことばからであり、生活と信仰はその受け入れにしたがっているからです——それゆえ、〔新旧〕両契約の中に名前を挙げられている「預言者」によっても、みことばからの教会の教えが意味されます。