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主について16

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16 みことばからの教会の状態が預言書の中で表象されるべきものであり、それが「民の不正と罪を担うこと」によって意味されています。
このようであることは、預言者イザヤについて言われているものから明らかです、

しるしと前兆として裸とはだしで三年、行くこと(イザヤ20・3)。

預言者エゼキエルについて、

移住の器を引き出し、地を見ないように顔をおおい、このようにイスラエルの家に前兆であったこと、そしてまた、「見よ、私はあなたがたの前兆〔である〕」と言ったこと(エゼキエル12・6、11)。

[2]このことが彼らにとって不正を負うことであったことは、「エゼキエル書」で、彼らが、エルサレムに対して左脇と右脇の上に三百九十日また四十日横たわること、そして牛の糞とともに〔焼いた〕大麦で作られた菓子パンを食べることを命令されているとき、はっきりと明らかです。
そこに、さらにまたこれらが読まれます——

あなたは、あなたの左脇の上に横たわり、イスラエルの家の不正をその上に置け。日の数によって、あなたはそれらの上に横たわり、彼らの不正を負わなくてはならない。なぜなら、わたしは、あなたがイスラエルの家の不正を負うために、彼らの不正の年を、三百九十日の日の数にしたがって、あなたに与えるから。けれども、あなたがこれらのことを終えたとき、次に、あなたが四十日ユダの家の不正を負うために、あなたはあなたの右脇の上に横にならなければならない(エゼキエル4・4―6)。

[3]その預言者は、このようにイスラエルの家とユダの家の不正を担うことによって、それらを取り去らず、このように償わず、しかし単に表象し、示したことは、そこに続くものから明らかです——

このようにエホバは言われる、「イスラエルの子らは、わたしが彼らを追い払う国々の間で、汚れた自分のパンを食べなければならない」。……「見よ、わたしは、エルサレムの中でパンの杖を折っている……パンと水で不足し、男とその兄弟は見捨てられ、彼らの不正のためにやせ衰えるようになる」(同じ章の13、16、17節)。

[4]同じ預言者が自分自身を示して、言ったときも同様です、

「見よ、私はあなたがたの前兆〔である〕」さらにまた言われた、「わたしがしたように、そのようにあなたがたにされる」(エゼキエル12・6、11)。

そこで、主について同様のものが意味され、そこに言われています、

彼は私たちの病を負った。……私たちの痛みを担った。……エホバは私たちのすべての不正をその方に負わせることをされた。……自分の知識によって多くの者を義とした、彼らの不正をその方が担うことによって(イザヤ53・4、6、11)。

そこの全章に主の受難について扱われています。
[5]〔主〕ご自身が最大の預言者として、みことばに関する教会の状態を表象したことは、その方の受難の個々のものから明らかです——例えば、ユダにより裏切られた。祭司長と長老により捕えられ、有罪とされた。殴打をくわえられた。頭をアシ(葦)で打たれた。いばらからできた冠をかぶされた。その方の衣服が分けられ、下着についてくじ引きされた。はりつけにされた。飲むようにとその方に酢が与えられた。脇腹が刺された。葬られ、三日目によみがえられたことです。
[6]「ユダにより裏切られた」ことは、ユダヤ国民のもとにみことばがあったその国民からであったことを意味しました。なぜなら、ユダはユダヤ国民を表象したからです。「祭司長と長老により捕えられ、有罪とされた」ことは、そのすべての教会からそうされたことを意味しました。「むち打ち、顔につばを吐きかけ、殴打をくわえ、頭をアシ(葦)で打った」ことは、神的真理に関して、それらすべてが主について扱っているみことばに同様に行なわれたことを意味しました。「いばらからできた冠をかぶった」ことは、それらを虚偽化し、不純化したことを意味しました。「その方の衣服を分け、下着についてくじを引いた」ことは、みことばのすべての真理を消散させたこと、しかしその霊的な意味は消散させなかったことを意味しました。「主の下着」は、みことばの霊的な意味を意味した〔からです〕。「はりつけにした」ことは、みことば全部を破壊し、冒涜したことを意味しました。「飲むようにとその方に酢を与えた」ことは、まったく虚偽化され、虚偽となったことを意味しました。それゆえ、それを飲まなかった、またその時、「完了した」と言いました。「脇腹を刺した」ことは、みことばのすべての真理を、またそのすべての善を完全に消滅させたことを意味しました。「葬られた」ことは、母からの人間の残余を捨てることを、「三日目に、よみがえった」ことは、栄化を意味しました。
[7]同様のことが、「預言書」と「ダビデの書」に予言されているものによって意味されます。  そのために、むち打たれ、いばらの冠をかぶって引き出され、兵士たちにより紫色の以服を着せられた後、〔ピラトは〕「見よ、人間」(ヨハネ19・1、5)と言ったのです——このことが言われたのは、「人間」によって教会が意味されるからです。というのは、「人の子」によって、教会の真理が、そのように、みことばが意味されるからです。
これらから今や、「不正を負うこと」によって、みことばの神的真理に対する罪を自分自身の中に表象することと映し出すことが意味されることが明らかです。
主が「神の子」としてでなく「人の子」として、このようなことを受け、被られたことは続くものの中で見られます。というのは、「人の子」は、みことばに関する主を意味するからです。