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主について17

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17 さて、「罪を取り去ること」によって何が意味されるか、述べます。
「罪を取り去ること」によって、人間をあがない、救うことと同様のことが意味されます。なぜなら、主は、人間を救うことができるようにと世にやって来られたからです。その方の来臨なしに、死すべきだれであれ改心し、再生することが、したがって、救われることができませんでした。しかしこのことは、主が悪魔の力、すなわち、地獄の力のすべてを取り除き、ご自分の人間性を栄化された後に、すなわち、自分の父の神性と結合された後にできます——もしこのことが行なわれなかったなら、人間はだれも自分のもとに残るような何らかの神的真理を、まして何らかの神的善を受けることができなかったでしょう。なぜなら、悪魔の力が、それ以前はまさっていて、それらを〔人間の〕心から引き離してしまったであろうからです。
[2]これらから、主が十字架の受難によって罪を取り除かなかったこと、しかしその方を信じ、その方の戒めにしたがって生きる者のもとでそれを取り除くこと、すなわち、遠ざけることが明らかです——主もまた「マタイ福音書」に教えられているように、

わたしが律法と預言者を廃止するためにやって来たと思ってはなりません。……これらの戒めの最小のものを廃止し、そのように人々に教える者はだれでも、天の王国の中で最小の者と呼ばれます。けれども、行なって、教える者は、天の王国の中で偉大な者と呼ばれます(5・17、19)。

[3]だれでも、実際の悔い改めによらないなら、罪は人間から取り去られることができないことを、何らかの照らしの中にいさえすれば、理性だけから見ることができます。その悔い改めとは、人間が自分の罪を見、そして主の助けを切願し、それらから離れることです。
〔これ以外の〕他のことを見、信じ、教えることは、みことばからではなく、健全な理性からでもなく、人間のプロプリウムである欲望と邪悪な意志からであり、知性はそれらから愚鈍にされます。