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主について18

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(5)主の功績の転嫁は、悔い改めの後の罪の許し以外の何ものでもない  

18 教会の中で、「主は人類をあがなうために父から遣わされた。このことが律法の成就によって、十字架の受難によって行なわれ、このように断罪を取り除き、あがなわれた。その償い、弁償(贖罪)、和解なしに、人類は永遠の死で滅んでしまったであろう、このことはある者たちにより報復と呼ばれている義からである」と信じられています。
主の来臨なしに、世の中のすべての者が滅んでしまったであろうことは真理です。しかし主が律法のすべてを成就したことはどのように理解すべきであるか、さらにまたなぜ十字架(刑)を被ったのか、それらについて前の章の中に見られます——それらから何らかの報復的な義からでなかったことを見ることができます、これは神性に属性づけられることができないからです。
神性の属性は義・愛・慈悲・善であり、神は義そのもの・愛そのもの・慈悲そのもの・善そのものです。これらがあるところに何らかの報復的なものはなく、このように報復的な義はありません。
[2]律法の成就と十字架の受難について、主がそれらの二つのことによって人類のためにあがなわれたこと、また人類に先見されまたは予定された断罪を取り去られたことだけが今まで多く者により理解されていたので、その関連からまた同時に原理から、人間はそのようであるという信仰のみから救われるという主の功績の転嫁についての教義が生じました、〔この教義は〕主の功績であったそれら二つのことを贖罪(あがないのわざ)として受け入れられています。
しかしこの教義は、主の律法の成就について、またその方の十字架の受難について言われたことから崩壊します。また同時に、功績の転嫁がよって悔い改めの後の罪の許しが意味されないなら、何の事柄ともならない言葉であることを見ることができます——なぜなら、主の何らかのものは人間に転嫁されることができないからです。しかし人間が悔い改めを行なった後に、すなわち、自分の罪を見て、認めた後に、またその後、それらから離れ、このことを主から行なった後に、救いが主によりもたらされることができます。
その時、人間に救いが、彼が自分の功績からまたプロプリウム(自己のもの)の義から救われるのではなく、地獄と戦い、勝利し、その後もまた人間のために戦い、彼のために地獄に勝利する主から、そのことだけからもたらされます。
[3]これらは主の功績と義であり、決して人間に転嫁されることができません。なぜなら、もし転嫁されたなら、主の功績と義は、人間に自分のもののようにされたからです。また、このことは決して生じないし、生じることもできません。
もし転嫁がありえたなら、悔い改めないで不信心な人間が、主の功績を自分自身に転嫁することができ、そのことから自分自身が義とされると考えたでしょう、それでもそのことは聖なるものを冒涜で汚し、主の名前を冒涜することです。なぜなら、思考を主へ保ち、意志を地獄へ保つことになるからです、それでも意志は人間のすべてのものです。
神のものである信仰があり、人間のものである信仰があります——悔い改めを行なう者は神のものである信仰を持っています、けれども、悔い改めを行なわない者は人間のものである信仰を持っており、やはり転嫁について考えています。そして、神のものである信仰は生きた信仰です、しかし、人間のものである信仰は死んだ信仰です。
[4]主ご自身とその方の弟子たちが悔い改めと罪の許しを宣べ伝えたことは続く次のものから明らかです——

 イエスは宣べ伝え始められ、言われた。「悔い改めなさい。天の王国が近づいたから」(マタイ4・17)。
 ヨハネは言った、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい……すでに斧は木の根元に置かれています。すべての……よい実を結ばない木は、切り倒され、火の中に投げ込まれます」(ルカ3・8、9)。
 イエスは言われた、「あなたがたは悔い改めを行なわないなら……あなたがたすべての者は滅びます(ルカ13・3、5)。
 イエスは……神の国の福音を宣べて……言って……「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めを行ない、福音を信じなさい」(マルコ1・14、15)。
 イエスは弟子たちを「出て行って、悔い改めを行なうよう宣べ伝える」ために遣わされた(マルコ6・12)。
 イエスは使徒たちに、彼らは「その方の名前によって、悔い改めと罪の許しを、エルサレムから始めて、すべての国民に宣べ伝えなければならない」と言われた(ルカ24・47)。
 ヨハネは、「罪の許しに向けて悔い改めのバプテスマ」を宣べ伝えた(ルカ3・3。マルコ1・4)。

[5]「バプテスマ」によって罪から霊的に洗うことが意味され、再生と呼ばれます。
悔い改めと罪の許しは、主によりこのように「ヨハネ福音書」に述べられています、

ご自分のものに来られた、しかしご自分のものはその方を受け入れなかった。けれども、受け入れたと同数の者に、その方の名前を信じて神の子であったような者に、力を与えられた。その者は血からでも、肉の意志からでも、男の意志からでもなく、神から生まれたのである(1・11―13)。

ご自分のもの」によって、みことばがそこにあったその当時の教会からの者が意味されます。「神の子」と「その方の名前を信じる者」によって、主を信じる者とみことばを信じる者が意味されます。「」によって、みことばの虚偽化が、またそのことによって虚偽の確信が意味されます。「肉の意志」は、人間の意志のプロプリウム(固有のもの)であり、それは本質的に悪です。「男の意志」は人間の知的なプロプリウム(固有のもの)であり、それは本質的に虚偽です。「神から生まれた者」は、主により再生された者です。
これらから、主からの愛の善の中に、信仰の真理の中にいる者は救われ、プロプリウムの中にいる者は救われないことが明らかです。