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主について14

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14 主が、天界の中のすべてのものとここから地上のすべてのものを整えるために世に来られたこと、またこのことをその時、世にやって来て、世から去るすべての人間を攻撃した地獄に対する闘争によってなし遂げられたこと、またそれによって義をなし遂げ、そして人間を救われたこと、主はそのことなしに救うことがおできにならなかったことが、「預言書」の多くの箇所に予言されています。それらのいくつかだけを示します。
[2]「イザヤ書」に、

 エドムから来る者、血の振りかけられた衣服でボズラから来る者、この者は自分の衣に誉めるべきものがあり、自分の大いなる力の中で進み行く、この者はだれか?義の中で話し、救いに向けて力強いその者は、わたしだ。
なぜ、あなたの衣は赤く、あなたの衣は酒ぶねの中で踏む者のようなのか?わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ、民にわたしと一緒の男はいない。このために、わたしは彼らをわたしの怒りの中で踏んだ、彼らをわたしの憤りの中で踏みにじった。ここから、彼らの勝利がわたしの衣の上に振りかけられた……。なぜなら、わたしの心の中に復讐の日が、わたしのあがないの年がやって来るからである。……わたしの腕がわたしに救いをもたらした……。わたしは彼らの勝利を地に下げることをした。……その方は言われた、「見よ、彼らはわたしの民、息子たち」……。それゆえ、彼らに救い主となられた。……自分の愛のために、自分の慈悲深さのために、その方は彼らをあがなわれた」
(63・1―9)。

これらは地獄に対する主の闘争についてです——その中に誉むべきものがあり、赤い「衣」によってユダヤの民から暴力が加えられたみことばが意味されます——地獄に対する闘争そのものが、またその勝利が「彼らを自分の怒りの中で踏んだ、彼らを自分の憤りの中で踏みにじった」ことによって述べられています。固有の力からひとりで闘争したことが、「民にわたしと一緒の男はいない、わたしの腕がわたしに救いをもたらした、わたしは彼らの勝利を地に下げることをした」によって述べられています。そのことによって救い、あがなわれたことが「それゆえ、彼らに救い主となった。自分の愛のために、自分の慈悲深さのために、その方は彼らをあがなわれた」によって述べられています。このことがその方の来臨の理由であったことは、「わたしの心の中に復讐の日が、わたしのあがないの年がやって来る」によって述べられています。
[3]同書に、

 その方は、だれもいないことを見、とりなす者がいないことに驚いた。それゆえ、自分の腕が救いをもたらし、その方の義が立たせた。ここから〔主は〕義をよろいのように着、救いのかぶとを自分の頭に〔かぶり〕、復讐の衣を着、外套をねたみのように自分に編み込んだ。……その時、シオンにあがない主がやって来る(59・16、17、20)。

これらもまた、主が世におられたとき、地獄に対するその方の闘争についてです——固有の力だけから地獄に対して闘争したことが「その方はだれもいないことを見た、それゆえ、自分の腕が救いをもたらした」によって意味されます。ここから義をなし遂げたことが「その方の義がその方を立たせ、そこから義をよろいのように着た」によって、このようにあがなうことが「その時、シオンにあがない主がやって来る」よって意味されます。
[4]「エレミヤ書」に、

彼らは狼狽させられた……彼らの強い者は打たれた……逃げに逃げた、振り向きもしなかった。……その日は万軍の主エホビの日、最後の日、自分の敵について復讐をするための日。剣は食い尽し、満足させられる(46・5、10)。

地獄との主の闘争、またその勝利は「狼狽させられた」こと、「彼らの強い者は打たれ、逃げに逃げ、振り向きもしかった」ことによって述べられています。「彼らの強い者」と「敵」は地獄です、そこのすべての者は主に憎しみを持っているからです。さらに世へのその方の来臨が、「その日は万軍の主エホビの日、最後の日、自分の敵について復讐をするための日」によって意味されます。
[5]「エレミヤ書」に、

 その日に、若者は街路の中で倒れ、すべての戦士は斬り倒される(49・26)。

「ヨエル書」に、

 エホバは声を出された……自分の軍勢の前で。……エホバの日は偉大で、非常に恐ろしい。それゆえ、だれがそれに耐えるのか?」(2・11)。

「ゼパニヤ書」に、

 エホバの生けにえの日に、わたしは君主、王国の息子、外国人の衣服をまとったすべての者を罰する。……この日は、苦しみの日……角笛とらっぱの音の日(1・8、9、15、16)。

「ゼカリヤ書」に、

 エホバは出て来られる。戦いの日の中で、国々の前で戦われる……その方の戦うことの日のように。……その日、その方の足は、エルサレムの顔の前のオリーブ山の上に立つ。……その時、あなたがたは、わたしの山々の谷の中に逃げる。……その日に、光と輝きはない。……けれども、エホバは全地の上に王となられる。その日に、エホバはひとり、その方の名前は一つとなる(14・3―6、9)。

これらの箇所の中にも主の闘争について扱われています——「その日」によってその方の来臨が意味されます。主はいつも「エルサレムの顔の前のオリーブ山」に滞在されました。(マルコ13・3、14・26。ルカ21・37、22・39。ヨハネ8・1。また他の箇所参照)。
[6]「ダビデの書」に、

 死の綱が私を取り囲んだ……地獄の綱が私を取り囲んだ、死のわなが私に立ち向かった。……それゆえ、〔主は〕矢を放ち……多くのいなずまで彼らを混乱させられた。私は私の敵を追う、私は彼らをつかまえ、私が滅ぼす時まで、私は戻らなかった……。私は彼らを打ちのめす、再び立ち上がることができないように。……あなたは戦いのために私に力強さをおびさせ……あなたは与えられる……敵を……逃走の中へ……私は彼らを、風の顔の前のちりのように、街路の泥のように粉砕し、彼らを細かくする(詩篇18・4、5、14、37―40、42)。

取り囲み、立ち向かった「綱」と「死のわな」は、試練を意味します。それらは地獄からであるので、「地獄の綱」とも呼ばれています。
その「詩篇」全体の中でこれらや他のものは主の闘争と勝利について扱っています。それゆえ、さらにまた言われています、

あなたは、私を国々の頭に置きます。私の知らなかった民が、私に仕えます(43節)。

[7] 「ダビデの書」に、

 剣を腿の上に帯びよ、力強い者よ。……あなたの矢は鋭い、民はあなたの下に倒れる、王の敵の心臓の中で。あなたの王座は……永久に、また永遠に。……あなたは義を愛した。それゆえ、神は、あなたに油を注がれた(詩篇45・3、5―7)。

これらもまた地獄との闘争について、それらの征服についてです。なぜなら、その詩篇全体で、主について扱われているからです。すなわち、その方の闘争、その方の栄化、その方による忠実な者の救いについて扱われています。「ダビデの書」に、

 火がその方の前から出る……その方の周囲の敵を燃やす。……地は見、恐れる。山々は……ろうのように溶ける、全地の主の前に。諸天はその方の義を告げ、すべての民はその方の栄光を見る(詩篇97・3―6)。

同じく、この「詩編」の中に主について、また同様のことについて扱われています。
[8]「ダビデの書」に、

 エホバは私の主に言われる、「わたしがあなたの敵をあなたの足台に据えるまでは、わたしの右に座りなさい。……あなたの敵の真ん中で支配しなさい。……あなたの右の主は、怒りの日に王たちを打たれる。……しかばねで満たし、多くの地の上で頭を打たれる(詩篇110・1、2、5、6)。

 これらが主について言われていることは、主ご自身のみことばから明らかです(マタイ22・44、マルコ12・36、ルカ20・42)。
「右に座ること」によって全能が意味され、「敵」によって地獄が、「王たち」によってそこの悪の虚偽の中にいる者が、「彼らを足台に据えること」「怒りの日に打つこと、しかばねを満たすこと」によって彼らの力を滅ぼすことが意味され、「多くの地の上で頭を打つこと」によってすべてのものを滅ぼすことが意味されます。
[9]天使のだれかの助けなしに、主おひとりが地獄に勝たれたので、それゆえ、〔主は〕「英雄」また「戦いの男(戦士)」(イザヤ42・13)、「栄光の王」「力あるエホバ」「戦いの英雄」(詩篇24・8、10)、「ヤコブの力ある者」(詩篇132・2)、そして多くの箇所で「エホバ・ゼバオス」すなわち「万軍のエホバ」と呼ばれています。そしてまた、その方の来臨は前に引用された箇所(4番)から見られることができるように、「エホバの恐ろしい日」「残酷な日」「憤りの」「激しく怒る」「怒りの」「復讐の」「滅びの」「戦いの」「角笛の、らっぱの」「騒動の日」と呼ばれています。
[10]世におられたとき、主による最後の審判は、地獄との闘争とその征服によって行なわれたので、それゆえ、多くの箇所で、成し遂げられるべき審判について扱われています——例えば、「ダビデの書」に、

 エホバは地をさばくために来られる。義をもって世界をさばき、真理をもって民をさばかれる(詩篇96・13)。

このように多くの箇所にあります。これらはみことばの預言書からです。
[11]けれども、みことばの歴史的なものの中に、いろいろな国民とのイスラエル民族の戦いによって同じようなことが表象されています——なぜなら、みことばの中に書かれているすべてのことは、預言的なものも歴史的なものも、主について書かれていからです。ここから、みことばは神的なものです。
イスラエル教会の祭儀の中に、例えば、全焼のいけにえやいけにえ、さらに安息日や彼らの祝祭、そしてアロンやレビの祭司職の中に、主の栄化の多くの秘義が含まれています。同様に、ほかにも「モーセの書」の中にあり、それらは「律法」「審判」「法令」と呼ばれています。このことが弟子たちへの主のみことばによっても意味されています、

 主は「モーセの律法の中にご自分について書かれているすべてのことを成就しなければならない」ことです(ルカ24・44)。

なおまた、ユダヤ人たちに、

 「モーセはご自分について書いた」と言われています(ヨハネ5・46)。

[12]これらから、今や、主が地獄を征服し、ご自分の人間性を栄化するために世にやって来られたこと——また十字架の受難が最後の闘争であり、それによって地獄に完全に勝ち、人間性を完全に栄化されたことが明らかです。
しかしこの事柄について多くのものが続く小著『聖書について』の中に見られ、そこに、地獄との主の闘争とその勝利について、すなわち同じことですが、世におられたとき、その方により行なわれた最後の審判について、なおまた受難とその方の人間性の栄化について扱われている預言的なみことばからのすべての箇所が一つの中に集められています。それらは、もし示されるなら、〔何枚もの〕紙面を満たすほどのものです。