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主について61

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61 主についてこれらのことが今、初めて公けにされたことは、『黙示録』第二十一章、第二十二章の中に前の教会の終わりに新しい教会が設立されるべきことが予言されているからであり、その教会の中でこれ〔主についての教え〕は主要なものでした。
この教会がそこの「新しいエルサレム」によって意味され、その中には、天地の神として主だけを認める者でないなら、だれも入ることはできません。
私は、全天界が主だけを認めていること、認めない者が天界に入れられないことを告げることができます——というのは、天界は主から天界であるからです。
主ご自身が「ヨハネ福音書」で教えられているように、愛と信仰からのその承認そのものが、人々を主の中に、また彼らの中に主がいるようにします、

 その日には、あなたがたは、わたしがわたしの父の中に、あなたがたがわたしの中に、わたしがあなたがたの中にいることを知ります(14・20)。

なおまた同書に、

 わたしの中にとどまりなさい、わたしもまたあなたがたの中にとどまります。……わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。わたしの中にとどまり、わたしがその者の中にとどまる者は、多くの実を結びます。なぜなら、わたしなしに、あなたがたは何も行なうことができないからです。だれでも、わたしの中にとどまらないなら、外へ投げ出されます(15・4―6、なおまた17・22、23)。

[2]このことが前に、みことばから見られなかったのは、もし前に見られたなら、やはり受け入れられなかったからです——というのは、まだ最後の審判がなし遂げられていなかったからであり、その前に地獄の力は天界の力にまさっていたからです。人間は天界と地獄の間の真ん中にいて、それゆえ、前に見られたなら、悪魔は、すなわち、地獄はそれを彼らの心から取り去り、なおまたそれを冒涜したでしょう。
地獄の力のこの状態が、今やなし遂げられた最後の審判によって完全に砕かれました——その後、照らされ、賢明になることを欲するすべての人間は、今や、このようにできます。
(その事柄については、著作『天界と地獄』589―596番と597―603番にあります。なおまた、小著『最後の審判』65―72番と73、74番に書かれています)。