カテゴリー

主について55

54◀︎目次▶︎56

(11)アタナシウス信条の教えは、三つの位格の三一性によって 主の中にある一つの位格の三一性が意味されるかぎり、真理と一致している

55 キリスト教徒が三つの神的な位格(ペルソナ)を、そしてこのように三つの神を認めたのは、主の中に三一性があるからであり、そして一つは「父」、もう一つは「子」、また第三のものは「聖霊」と呼ばれ、この三一性は、みことばの中で区別して名づけられています。そのように、霊魂と身体とそれらから発出するものは区別して名づけられていますが、それでもそれらは一つです。
文字どおりの意味のみことばもまた、一つであるものを一つでないかのように区別するようなものです。ここから、永遠からの主であるエホバを、時には「エホバ」、時には「万軍の主」、時には「神」、時には「主」、また同時に「創造者」「救い主」「あがない主」「形成者」、それどころか「シャダイ(全能者)」と呼んでいます。そして世でまとった人間性そのものを「イエス」「キリスト」「メシヤ」「神の子」「人の子」と呼んでいます。また旧約のみことばの中で、「神」「イスラエルの聖なる者」「エホバの油を注がれた者」「王」「助言者」「天使」「ダビデ」と呼んでいます。
[2]さて、みことばは文字どおりの意味でこのようなものであるので、多くの者であるかのように呼ばれていますが、それでもその方は一つです、それゆえ、単純な者たちであった初期のキリスト教徒は、すべてのものをことばの文字どおりの意味にしたがって理解し、神性を三つの位格に区別しました。このこともまた彼らの単純さゆえに許されました。しかしそれでも、子についてもまた、無限な者・創造されない者・全能(な者)、まったく父と等しい神と主であることが信じられるために、また加えて、二つまたは三つでなく、一つの本質・威厳・栄光、このように一つの神性であることが信じられるために許されました。
[3]教えにしたがって単純にそれらを信じ、三つの神を自分自身では確信しないけれども、三つから一つとする者は、死後、主から天使を通して、その方がその一つであり、そしてそれが三一性であることが教えられます。〔そのことが〕天界にやって来るすべての者にも受け入れられます——なぜなら、どれほど口で一つと言っても、三つの神を考える者は天界にやって来ることができないからです——というのは、全天界のいのちは、そしてすべての天使の知恵は、一つの神の承認とここからの告白に、また、その一つの神は人でもあり、その方は主であり、同時に神と人であることの信仰に基づくからです。
[4]これらから、初期のキリスト教徒に、主もまた無限な神・全能者・エホバであることが一緒に受け入れられるかぎり、三つの位格についての教えが受け入れられたのは神的許しからなされたことが明らかです——なぜなら、そのこともまた受け入れられないなら、教会は主から教会であり、すべての者の永遠のいのちは主からであり、他の者からではないので、教会について万事休したであろうからです。
[5]教会が主から教会であることは、前に示されているように、みことば全体が始めから終わりまで主おひとりについて扱っていること、またその方を信じなければならないこと、またその方を信じない者に、永遠のいのちがないこと、それどころか、「神の怒りが彼らの上にとどまる」(ヨハネ3・36)こと、そのことだけから明らかにすることができます。
[6]さて、だれでも、神が一つであるなら、位格と本質で一つであることを自分自身で見るので(というのは、だれでも、神が一つであることを考えるかぎり、それと異なって考えません、考えることもできないからです)、今や、私は、アタナシウスの名前に由来する教えをそっくりそのまま示し、その後、そこに言われているそのすべてのものが、三つの位格の三一性の代わりに一つの位格の三一性が理解されるかぎり真理であることを証明します。