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主について56

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56 教えはこれらです——

救われることを欲する者は……この全教会の(他書に、キリスト教の)信仰を守ることが必要である——だれかがその信仰の全部をそっくりそのまま疑うことなく守らなかったなら、永遠に滅びる。
この全教会の(他書に、キリスト教の)信仰は、三一性の中の一つの神を、また同一性の中の三一性を、三つの位格を混ぜもしないで、実体(他書に、本質)を分離もさせないで私たちが崇拝することである——父の一つの位格、子のもう一つの位格、聖霊のもう一つの位格があるからである。しかし父・子・聖霊の神性は一つの同じものであり、栄光は等しく、威厳は永遠に共存する。
どのような父であるかによって、そのような子があり、そのような聖霊がある。
父は創造されず、子は創造されず、聖霊は創造されない。
父は無限であり、子は無限であり、聖霊は無限である。父は永遠、子は永遠、聖霊は永遠である。それでも、三つの永遠なる者はいない、しかし一つの永遠なる者がいる。三つの無限なる者はない、三つの創造されない者もいない、しかし一つの創造されない者、また一つの無限なる者がいる。
同様に、父が全能であるように、そのように子は全能であり、聖霊は全能であり、それでも、三つの全能なる者はいない、しかし一つの全能なる者がいる。
父が神であるように、そのように子は神である、聖霊は神である、それでも、三つの神はいない、しかし一つの神がいる。
父は主であっても、子は主であり、聖霊は主であり、それでも三つの主はいない、しかし一つの主がいる。
キリスト教の真理から私たちは、それぞれの位格がそれ自体から神と主であることを認めるよう強いられているからであるが、それでもやはり私たちは全教会の宗教によって、三つの神または三つの主が存在する、と言うことを禁じられている(他書に、やはりそれでも私たちはキリスト教信仰から三つの神または三つの主のことを言うことができない)。
父はだれからも作られず、創造されず、生まれもしない。子は父おひとりからであり、作られず、創造もされない、しかし生まれた。聖霊は父から、また子からであり、作られもしない、創造もされない、生まれもしない、しかし発出している。
そのように一つの父であり、三つの父ではない。一つの子であり、三つの子ではない。一つの聖霊であり、三つの聖霊ではない——この三一性の中にだれも最初の者と最後の者ではなく、まただれも最大の者と最小の者ではなく、しかしすべての者は、一緒に永遠なもの、また完全に等しい三つの位格である。
そのように完全であるために、前に言われたように、三一性の中の同一性を、同一性の中の三一性を崇拝しなければならない(他書に、一つの神性の中の三つの位格を、そして三つの位格の中の一つの神を崇拝しなければならない)。そのために、救われることを欲する者は、このように三一性について考えるべきである。
さらにまた、だれかが私たちの主イエス・キリストの受肉を(他書に、だれかが、私たちの主が真の人であることを)正しく信じること(他書に、変わらずに信じること)が必要である。私たちの主イエス・キリストが、神の子、神と人であり、世に生まれる前に父の実体(または本質、他書に、性質)から神であること、母の実体(他書に、性質)から、世に生まれた人であること、理性的な霊魂と人間の身体から構成されている完全な神と完全な人であり、神性に関して父に等く、そして人間性に関して父により劣る(他書に、より低い)ことを私たちが信じ、告白することが真の信仰であるからである。
たとえその方は神と人であっても、それでも二つではなく、しかし一つ〔の神〕の神的な本質を身体としての変化によってでなく、しかし神として人間性をまとわれる(他書に、その者は一つである、それでもこのようにでなく、神性が人間性としての変質によって、しかし神性がご自分に人間性を受け入れた)ことによって一つのキリストであること、実体を混ぜる(他書に、混合)によってでなく、しかし位格の同一性によって(他書に、その方は完全に一つである、それでもこのようにでなく、二つの性質が混ぜられたこと、しかしその方は一つの位格である)完全に一つ〔の神〕である。
理性的な霊魂と身体が一つの人間であるように、そのように神と人は一つのキリストであるからである。その方は私たちの救いのために苦しめられ、地獄に下り、死から三日目によみがえった。また、天に上り、全能の父の右に座った……、そこから、生きている者と死んでいる者を裁くためにやって来る、その来臨の中で、すべての人間は自分の身体とともによみがえる〔また、自己の行為の勘定書きを支払う〕、善を行なった者は永遠のいのちの中に入る、悪を行なった者は永遠の火の中に入る。