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主について12

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(3)主は、地獄を征服し、人間性を栄化するために世にやって来られた。 十字架の受難は最後の闘争であり、それによって完全に地獄に勝ち、 完全にご自分の人間性を栄化された

12 主が地獄を意味する死に勝ち、その後、栄光とともに天の中に上られたことは、教会の中でよく知られています。しかし主が試練である闘争によって、死すなわち地獄に勝ち、同時にそれによって、ご自分の人間性を栄化されたこと、また十字架の受難が最後の闘争すなわち最後の試練であり、それによって勝ち、栄化されたことはまだ知られていません。
これらについて、「預言書」に、また「ダビデの書」に多く扱われています、しかし「福音書」には、そのように多くありません。
これら〔福音書〕に、〔主が〕子供時代から被った試練は、要約して、荒野でまたその後の、悪魔からのその方の試練によって、そして、最後の試練が、ゲツセマネでの十字架の受難によって記述されました。  荒野でまたその後の、悪魔による試練については、「マタイ福音書」4・1一11、「マルコ福音書」1・12、 13、「ルカ福音書」4・1―13にあります——しかしそれらによって最後のものまでのすべてのものが意味されます。それらについて〔主は〕弟子たちに多くのことを啓示されませんでした。なぜなら、「イザヤ書」に言われているからです、

彼は強制に耐え……それでも自分の口を開かなかった。ほふり場へ向かう小羊のように……毛を刈る者の前の羊のように、黙って、自分の口を開かなかった(53・7)。

ゲツセマネでのその方の試練については、「マタイ福音書」26・34―44、「マルコ福音書」14・32―42、「ルカ福音書」22・39―46にあります。また十字架上の試練については「マタイ福音書」27・33―56、「マルコ福音書」15・22―38、「ルカ福音書」23・33―49、また「ヨハネ福音書」19・17―37〔にあります〕。試練は地獄に対する闘争以外の何ものでもありません。主の試練または闘争については、ロンドンで出版された小著『新しいエルサレムとその天界の教え』201番と302番に、また全般的に試練ついては、その187―200番にあります。