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主について37

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(8)主は神ご自身であられ、みことばは、その方からあり、その方についてである

37 第一章で、「聖書全体は主についてであり、主はみことばであられる」を示すことを始めました——このことをさらに、みことばから、そこに主が、〔1〕エホバ、〔2〕イスラエルとヤコブの神、 〔3〕イスラエルの聖なる者、〔4〕主と神、そのようにまた、〔5〕王とエホバの油を注がれた者、〔6〕ダビデ、と呼ばれる箇所から示します。
すべての預言書とダビデの詩篇にざっと目を通し、そしてそこに扱われている個々の節について調べ、見ることが与えられた、また、設立され、これから設立される主からの教会について、主の来臨について、闘争・栄化・あがない・救い、その方からの天界についてと同時にその反対のものについて、それら以外の他の事柄については扱われていないことも見られた、とあらかじめ述べることが私に許されています。
それらすべてのものが主の働きであるので、聖書全体が主についてであること、またここから主がみことばであることが明らかです。
[2]けれども、このことは、主からの照らしの中にいて、みことばの霊的な意味もまた知っている者によらなければ、見ることができません。
天界のすべての天使はこの意味の中にいます。それゆえ、彼らは、みことばが人間により読まれるとき、他のものを把握しません——というのは、霊と天使たちは常に人間のもとにいて、彼らは霊的であるので、人間が自然的に理解するすべてのものを霊的に理解するからです。
聖書全体が主についてであることは、前の第一章(1から6番)の中でみことばから示されたものから、また今、主について示されるものから、しばしば「主」と「神」と言われていることをただあいまいに、格子の仕切りを通してかのように見ることができます。それらから、預言者たちによって、「エホバが話された」、「エホバが言われた」、また「エホバの言われたこと」と言われているどこでも、主について語られていることを明らかにすることができます。
[3]主は世にご自分の来臨の前に存在された
このことは、これらから明らかです——

 バプテスマのヨハネは主について言った、「私の後に来られる、私の前におられた者はその方です。私はその方の履き物のひもを解くにも値しません。……私が『その者は私の後に来る、その者は私の前にいた、またその者は私の先にいた』と言った者は、この方です」(ヨハネ1・27、30)。

 「黙示録」に、

 〔彼らは〕主がおられた王座の前に伏せて、言った。「私たちは、〔常に〕いる、〔昔〕いた、やって来られる全能の主なる神、あなたに感謝します」(11・16、17)。

なおまた「ミカ書」に、

 ベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの数千のものの間でのように小さいものである。あなたから、わたしのために出る、その者はイスラエルの中で支配者となる、またその出ることは昔から、永遠の日からである(5・2)。

さらに、福音書記者たちのもとの主のことばから、アブラハムの前にいたこと、世の創造以前に父のもとで栄光を持っていたこと、父から出たこと、初めに神のもとのみことばであったこと、神はみことばであったこと、これは「肉」となったこと〔が明らかです〕。
主が、エホバ、イスラエルとヤコブの神、イスラエルの聖なる者、神と主、なおまた、王とエホバの油を注がれた者、ダビデと言われたことは、続くものから明らかにすることができます。