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主について30

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30 (1) 永遠からの主はエホバであられる
このことは、みことばからよく知られています。なぜなら、主はユダヤ人に言われたからです、

まことに、わたしはあなたがたに言います。アブラハムがいたよりも前に、わたしはいます(ヨハネ8・58)。

また他の箇所に、

 父よ、わたしを栄化してください。世があった前に、あなたのもとでわたしが持った栄光で(ヨハネ17・5)。

そのことによって、永遠からの主であり、永遠からの子でないことが意味されます。なぜなら、前に示されたように、子は、父エホバからみごもり、時間の中で処女マリアから生まれたその方の人間性であるからです。
[2]永遠からの主がエホバそのものであられることは、みことばの中の多くの箇所から明らかです。それらからこれらわずかなものを、今から示します——

 その日に言われる……この者が私たちの神、私たちはその者を、私たちを救い出すよう待ち望んだ。……エホバ、その者を私たちは待ち望んだ。その方の救いの中で私たちは小躍りして喜び、喜ぶ(イザヤ25・9)。

それらから、神エホバ自身が待ち望まれたことが明らかです。

 荒野の中で叫ぶ者の声、エホバの道を準備せよ。荒地で、私たちの神の大路を平らにせよ。……エホバの栄光が現わされる。すべての肉は一緒に見る……見よ、主エホビが力のうちにやって来られる(イザヤ40・3、5、10。マタイ3・3。マルコ1・3。ルカ3・4)。

ここにも、主はやって来られようとしているエホバと言われています。

[3]わたしエホバは……わたしはあなたを民の契約として、国々の光として与える。わたしエホバ、これがわたしの名前。わたしの栄光を他の者に与えない(イザヤ42・6、8)。

「民の契約、国々の光」は人間性に関する主です。これがエホバからであり、そしてエホバと一つとされたので、「わたしエホバ、これがわたしの名前、わたしの栄光を他の者に与えない」と言われます、すなわち、自分自身以外の他の者に〔与えません〕。「栄光を与える」ことは栄化すること、すなわち、自分自身に結合することです。

[4]あなたがたの求めている主が、突然、ご自分の神殿にやって来る(マラキ3・1)。

「神殿」によって「その方の身体の神殿」が意味されます(例えば、ヨハネ2・19、21)。

日の出が高いところから私たちを訪れた(ルカ1・78)。

「高いところからの日の出」もまたエホバ、すなわち、永遠からの主です。
これらから、永遠からの主によって、「その方」からの主ご自身が、それはみことばの中でエホバであり、それが意味されることは明らかです。
けれども、これから示される箇所から、「主」によって、そしてまた「エホバ」によって、栄化された後の神性と人間性と一緒に一つのものとしてのその方の人間性が、また「子」によって神的人間性だけが意味されることが明らかにされます。