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主について 9

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9 (2) 広い意味で、「律法」によって、モーセによりその五書に書かれているすべてのものが意味される
このことは、次のこれらから明らかです——「ルカ福音書」に、

アブラハムは、地獄の中の富んだ者に言った。「彼らにはモーセと預言者がある、それらに聞け。……もしモーセと預言者に聞かないなら、たといだれかが死人から生き返ったにしても、彼らは納得しない」(16・29、31)。

「ヨハネ福音書」に、

ピリポはナタナエルに言った、「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちが書いた方に出会いました」(1・45)。

「マタイ福音書」に、

わたしが律法と預言者を廃棄するためにやって来たと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するためにやって来ました(5・17、18)。

同書に、

ヨハネまでをすべての預言者と律法が預言しました(11・13)。

「ルカ福音書」に、

律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国〔の福音〕が宣べ伝えられています(16・16)。

「マタイ福音書」に、

人々があなたがたにするように欲するどんなものでもすべてのことを、このようにまたあなたがたは彼らに行ないなさい。これが……律法と預言者です(7・12)。

同書に、

イエスは……言われた、「あなたの全部の心から、あなたの全部の霊魂から……あなたの神、主を愛せよ。……あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。律法と預言者は、これらの二つの命令にかかっています(22・37、39、40)。

それらの箇所の中で「モーセと預言者」によって、なおまた「律法と預言者」によって、モーセの書の中に、また預言者の書の中に書かれているすべてのものが意味されます。
「律法」によって特別にモーセによって書かれたすべてのものが意味されることは、さらにこれらから明らかです——「ルカ福音書」に、

モーセの律法にしたがって清めの日々が満ちて、彼らは「イエス」を主にささげるためにエルサレムへ導いた。主の律法の中に書かれているように、胎を開くすべての男の子は、主の聖なる者と呼ばれなければならず、そして主の律法の中で命じられていることにしたがって、キジバト一つがい、またはハトのひな二つのいけにえを与えるためであった。……両親はイエスを、律法の慣習にしたがってその子のために行なうために神殿の中に連れて来た。……そのとき主の律法にしたがってすべてのことをなし遂げた(2・22-14、27、39)。

「ヨハネ福音書」に、

律法の中で……モーセは……このような者を石打ちにすることを命じています(8・5)。

同書に、

律法はモーセによって与えられた(1・17)。

ここから、時には「律法」、時には「モーセ」と呼ばれることが明らかであり、そこには彼の書の中に書かれているようなものについて扱われています(例えば、マタイ8・4. マルコ10・2-4. 12・19, ルカ20・28, 37. ヨハネ3・14, 7・19, 51, 8・17, 9・7)。
命じられた多くのこともまたモーセにより「律法」と呼ばれました。例えば、

全焼のいけにえについて(レビ記6・9、7・37)
いけにえについて(レビ記6・25、7・1-11)
穀物のささげ物について(レビ記6・14)
らい病について(レビ記14・2)
ねたみについて(民数記5・29, 30)
ナジル人であることについて(民数記6・13, 21)

またモーセ自身が自分の書を「律法」と呼んでいます——

モーセはこの律法を書き、それをエホバの契約の箱を運んだレビの子たちの祭司たちに与えた——彼らに言った、「この律法の書を取り、エホバの契約の箱のそばに置きなさい」(申命記31・9、11, 26)。

そばに置いたのは、箱の内部に狭い意味での律法である石板があったからです。
その後「モーセの書」は「律法の書」と呼ばれました——

大祭司ヒルキヤは書記シャファンに言った、「私は主の宮の中で律法の書を見つけました」。……王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた(列王記Ⅱ 22・8、11、23・24)。