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聖書について 2

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2 しかしこのように考える者は、みことばを「天と地の神であられるエホバご自身が、モーセと預言者を通してみことばを語られた。ここから、神的真理そのものでしかありえないものである」と見なしません。なぜなら、それをエホバご自身が語られるからです——「エホバと同一の方であられる主が、福音書で、みことばの多くのものをご自分の口から、また他のものを聖霊である自分の口の霊から語られたものである」とも見なしません——それゆえ、その方は「自分のことばの中にいのちがあり、照らす光であり、真理である」と言われたのです。

エホバご自身が預言者を通してみことばを語られたことは、『新しいエルサレムの教え 主について』の中に示されています(52, 53番)。
みことばがいのちであることは主ご自身が福音書で語られています。「ヨハネ福音書」に、

わたしがあなたがたに話すことばは、霊であり、またいのちです(6・63)。

同書に、

イエスはヤコブの泉で女に言われた、「もしあなたが神の賜物を知り、また『わたしに飲ませてくれ』とあなたに言う者がだれであるか知っているなら、あなたはその者から求め、また、その者はあなたに生きる水を与えたでしょう。……わたしが与える水から飲む者は、永遠に渇きません。しかし、わたしが与える水は、その人の中で水の泉となり、永遠のいのちの中にわき出ます」(4・6, 10, 14)。

ヤコブの泉」によって、また「申命記」33・28のように、みことばが意味されます。それゆえ、主もまたそこに座られ、女と話されました——「水」によって、みことばの真理が意味されます。 同書に、

イエスは言われた、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て、飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているように、生きる水の川がその人の腹から流れ出ます」(7・37, 38)。

同書に、

ペテロはイエスに言った、「あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます」(6・68)。

それゆえ、主は「マルコ福音書」で言われました、

天と地は過ぎ去ります……わたしのことばは過ぎ去りません(13・31)。

主のことばが、いのちであることは、「ヨハネ福音書」で教えられるように、主がいのちと真理であられるからです。

わたしは、道、真理、いのちです(14・6)。

また同書に、

初めに、ことばがあった。ことばは神のもとにあった。ことばは神であった。……この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった(1・1, 4)。

そこの「ことば」によって神的真理に関する主が意味され、その方の中にだけ、いのちがあり、光があります。
そのことから、みことばが主からであり、主であることが言われます、

生きた水の泉(エレミヤ2・13, 17・13, 31・9)。
救いの泉(イザヤ12・3)。
泉(ゼカリヤ13・1)。
いのちの水の川(黙示録22・1)。

また次のことが言われています、

王座の真ん中の小羊は、彼らを牧し、彼らを生きた水の泉へ導く(黙示録7・17)。

さらにまた他にも、みことばが、主が人間とともに住まわれる「聖所」や「幕屋」と呼ばれる箇所があります。