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神の摂理 129

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(4–3)神的な摂理の法則は、人間が外なる手段によって考え、意志することへ向けて、このように、宗教のものを信じ、愛することへ向けて強制されないこと、しかし、人間が自分自身で引き起こし、時には強制しなければならないことである

129 この神的な摂理の法則は、先行する二つのものから結果として生じ、それらは、人間は自由から理性にしたがって行動すること(それについて71-99番)、このことは自分自身から、それでも主から、そのように自分自身からのように〔行動する〕ことです(それについて100-128番)。
強制されることは、理性にしたがって自由からでなく、自分自身からでもなく、しかし、自由でないものから、また他の者からであるので、それゆえ、この神的な摂理の法則は、順序で前の二つのものから後に結果として生じます。
さらにまた、だれも考えたくないことを、考えるように強制されることができないこと、また意志したくないことを意志するように、このように信じないことを信じるように、信じたくないことを信じるようにもまったく強制することができないこと、そして、愛さないことを愛するように、愛したくないことを愛するようにもまったく強制することができないことを、だれでも知っています。
人間の霊または彼の心は、考え、意志し、信じ、愛することの完全な自主性の中にあるからです。霊界からの流入からその自主性の中にいます。それは強制しません、というのは、霊または人間の心はその世界の中にあるからです。けれども、〔その自主性の中にいるのは〕自然界からの流入からではなく、〔霊界からの流入が〕一つとなって働かないなら、それは受け入れられません。
[2]人間は、これを考え、意志する、またこれを信じ、愛すると言うように強いられることができます。しかし、それらが彼の情愛のものまたここから理性のものでないかまたは〔それらから〕生じないものなら、やはりそれらを考えず、意志せず、信じも、愛しもしません。
さらにまた、人間は宗教のために話すよう、それにしたがって行なうよう強制されることができます、しかし、何らかの信仰からそのために考えるように、何らかの愛からそのために意志するように強制されることはできません。
さらにまた、国々の中のそれぞれの者が、そこでは公正と裁判が守られていて、宗教に反して話さないように、それらに反して行なわないことも強制されますが、しかしそれでも、だれも、それらのため考え、意志するよう強制されることはできません。なぜなら、それぞれの者に地獄とともに考え、そのために意志する自主性が、さらにまた天界のために考え、そのために意志する自主性があるからです。しかし、理性から、ある者と他の者がどんなものか、ある者とも他の者にどんな運命が待つか教えられ、そして理性からの意志には、選択権と〔実際の〕選択があります。
[3]これらから、外なるものは内なるものを強制することができないことを明らかにすることができます――それでも時々〔強制が〕生じますが、しかし、それが有害であることは、次の順序で示されます――

(1)だれも奇跡やしるしによって改心されない、それらは強制するから。
(2)だれも幻によって、死んだ者との会話によって改心されない、それらは強制するから。
(3)だれもおどしや罰によって改心されない、それらは強制するから。
(4)推理力や自主性のない状態の中で、だれも改心されない。
(5)自分自身を強制することは、推理力と自主性に反していない。
(6)外なる人は内なる人によって改心され、逆ではない。