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神の摂理 130

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130(1)だれも奇跡やしるしによって改心されない、それらは強制するから
人間には思考の内なるものと外なるものがあること、主は思考の内なるものを通って人間のもとの思考の外なるものの中に流入し、このように彼を教え、導くこと、なおまた、人間が自由から理性にしたがって行動することは、主の神的な摂理からであることが前に示されました。
そしてこの二つとも、奇跡が行なわれ、人間がそのことによって信じることへと強いられるなら、人間のもとで失われます。
このようであることは、理性的に次のように見られることができます――
奇跡が信仰を引き起こし、奇跡を行なう者が、話し、教えたことは真実である、と強く説きつけ、このことが、あたかも勝ち、魅了するかのように、最初に人間の思考の外なるものを占めることは否定できません。
しかし、人間はそれによって推理力と自主性と呼ばれる自分の二つの能力を奪われ、そのように自由から理性にしたがって行動することができず、その時、主は内なるものを通って彼の思考の外なるものの中へ流入することも、自分の推理力からそれらの事柄を確信することもできず、単に人間に奇跡によって彼の信仰のものになったものを残すことしかできません。
[2]人間の思考の状態は、思考の内なるものにより、物事をある種の鏡の中に、自分の思考の外なるものの中に見るようなものです。なぜなら、前に言われたように、人間は自分の思考を見ることができますが、その思考は内なる思考からでないなら与えられることができないからです。
また、物事を鏡の中のように見るとき、自分自身に美しく見えるようにまでも、それをあちらこちらに向きを変えることもまたできます――その物事が、真理であるなら、美しい、生きている娘または若者にたとえられることができます。しかし、人間がその物事をあちらこちらに向きを変えること、それを形作ることができずに、しかし、単にそれを奇跡によって引き起こされた信念から信じることしかできないなら、その時、真理であるなら、石または木から刻まれたそれらの中にいのちのない娘または若者にたとえられることができます――そしてまた、常に視覚の前にあって眺められる対象にたとえられることもできます、それは、そのそばの両方に、またその後ろにあるものすべてのものを隠します。なおまた耳の中に絶えず続く音にたとえられます、それは多くのものからの調和する音の知覚を取り去ります。
このような盲目と難聴が奇跡によって人間の心に引き起こされます。
確信される前に、何らかの推理力から観察されることのないすべての確信も同様です。