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神の摂理 131

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131 これらから、奇跡によって引き起こされた信仰は、信仰でなく、しかし、〔間違った〕信念であることを明らかにすることができます。というのは、その中に、何らかの理性は、まして何らかの霊的なものはないから。というのは、内なるもののない単なる外なるものであるからです。
あるいは神を認め、あるいはその方を家でまたは神殿(教会)で礼拝し、あるいは善を行なうにしても、人間がその(間違った)信念の信仰から行なうすべてのことも同様です。
単に奇跡が人間を、承認・礼拝・敬虔へ導き入れるとき、彼は霊的な人間からでなく、自然的な人間から行動します――なぜなら、奇跡は信仰を内なる道を通ってでなく、外なる道を通って、したがって、天界からでなく、世から植え付けるからです。主は内なる道以外の他の道を通って人間のもとに入られません、それは、みことばと、それからの教えと説教によってです。奇跡はこの道を閉ざすので、それゆえ、今日、奇跡は決して行なわれません。