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神の摂理 70

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(4)神的な摂理の法則があり、それらは人間に知られていない

70 神的な摂理があることは、よく知られています。しかし、それがどんなものであるかは、よく知られていません。
神的な真理がどんなものであるかよく知られていないのは、その法則がこれまで天使のもとの知恵の中に深く隠されていた秘義であるからです、しかし、今や、これは主のものであるものが主に帰せられ、人間のものでないものが何らかの人間に帰せられないために、啓示されなければならないものです――というのは、世の中の多くの者は、自分自身に自分のすべての思慮分別もまた帰し、帰することのできないものを〝偶然〟や〝偶発的なもの〟と呼び、〔そこに〕人間の思慮分別は何もなく、〝偶然〟や〝偶発的なもの〟は空虚な言葉であることを知らないからです。
[2]神的な摂理の法則が、「これまで天使たちのもとの知恵の中に深く隠されていた秘義である」と言われています――その理由は、キリスト教世界の中で神性への理解力が宗教から閉ざされていたからであり、ここから、人間が欲しなかったので、またはできなかったので欲することができなかったように、このことの中で、それは単に存在すること以外に神的な摂理について何らかのものを理解することができなかったからです。このように鈍いものまた抵抗するものとなり、存在するかあるいは存在しないか、例えば、単なる普遍的なものであるかあるいはまた特殊なものであるか、といったように推論するからであり――神性への理解力は宗教から閉ざされており、超えて進むことができませんでした。
[3]しかし、人間は自分自身から本質的に善である善を行なうことができないこと、自分自身から本質的に真理である真理を考えることもできず、これは神的な摂理と一つであることが教会の中で認められているので、それゆえ、ある信仰が他の信仰に依存しているとき、一つが肯定され、他が否定されないように、こうして両方が倒れないように、何が神的な摂理であるか、確かに啓示されなければなりません。
しかし、このことはその法則が明らかにされないなら、啓示されることができません。というのは、その法則がどんなものか知ることを与え、〔それを知った〕その者だけが、その時、それが〔どんなものか〕見て、それ〔がどんなものか〕を認めることができるからです。
これが、これまで天使のもとの知恵の中に深く隠された神的な摂理の法則が啓示されることの理由です。