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神の摂理 98

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98 すべての人間に自主性と呼ばれる意志する能力があり、推理力と呼ばれる理解する能力があることは、前に言われています。しかし、それらの能力の中で人間は人間そのものであるので、それらの能力が人間に植え付けられたかのようにあることをよく知らなければなりません。
しかし、すぐ前に言われたように、理性にしたがって自由から行動することと、理性そのものにしたがって自由そのものから行動することは別ものです。
主による再生が許されている者以外の他の者は、理性そのものにしたがって自由そのものから行動しません。けれども、他の残りの者は、思考にしたがって自由から行動し、思考を理性に似たものにつくっています。
しかしそれでも、すべての人間は、愚かな者かまたは極めて鈍い者に生まれていないなら、理性そのものに、それによって自由そのものにやって来ることができます。しかし、やって来ないことには、多くの理由があり、それらは続くものの中で示します――〔ここでは〕自由そのものまたは自主性そのものが、同時に理性そのものまたは推理力そのものが与えられることができない者、ほとんど与えられることができない者についてだけ述べます。
[2]自主性と推理力そのものは、出生からの愚かな者に、その後に愚かな者となった者にも、愚かであるかぎり与えられることができません。自主性と推理力そのものは、怠惰から無活動となった者、または心の内なるものを滅ぼすかまたはまったく閉ざす病気から、または獣のようないのちの愛から、鈍く、愚かな者に生まれている者にも与えられることができません。
[3]自主性そのものと推理力そのものは、キリスト教世界の中で、主の神性やみことばの聖性をまったく否定する者、そして否定を自分自身のもとに確信して生活の終わりまで保持する者のもとにも与えられることができません。というのは、聖霊に対する罪としてこのことが意味され、この時代にも来るべき時代にも赦されないからです(マタイ12:31, 32)。
[4]自主性そのものと推理力そのものは、すべてのものを自然に帰し、何も神性に帰さない者、またそれを目に見えるものから推論によって自分の信念とした者のもとにも与えられることができません。これらの者は無神論者でもあるからです。
[5]自主性そのものと推理力そのものは、宗教の虚偽の中で自分自身に多くのものを確信した者のもとに、ほとんど与えられることができません――虚偽を確信する者は真理を否定する者であるからです――しかし、自分自身に確信しなかった者は、どんな宗教の中にいても、〔与えられることが〕できます。それらの事柄については『新しいエルサレムの教え 聖書について』の中で引用されているものを参照してください(91-97番)。
[6]幼児と子どもは、自主性そのものの中と推理力そのものの中に年齢が成熟するよりも前にやって来ることができません――人間のもとの心の内的なものは継続的に開かれ、その間、未熟な果実の中の種のようであり、土の中で発芽することができるからです。