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神の摂理 97

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97(8)それゆえ、人間が自由から理性にしたがって行動するために、神的な摂理がある
自由から理性にしたがって行動することと、自主性と推理力から、なおまた意志と理解力から行動することは同じです。しかし、自由から理性にしたがうこと、すなわち、自主性と推理力から行動することと、自由そのものから理性そのものにしたがうこと、すなわち、自主性そのものからまた推理力そのものから行動することは別ものです。悪の愛から悪を行なう者は、それを自分自身のもとで確信するので行なう者は、確かに自由から理性にしたがって行動します、しかしそれでも、彼の自由は本質的な自由、すなわち、自由そのものではなく、地獄の自由であり、それは本質的に隷属であり、その理性は本質的に理性ではなく、あるいはにせの理性、あるいは虚偽、あるいは確信による外観です。
しかしそれでも、二つとも神的な摂理のものです。なぜなら、もし悪を欲する自由が、またそれを確信によって理性からのように行なうことが、自然的な人間から取り去られるなら、自主性と推理力は、同時に意志と理解力は滅んでしまい、悪から連れ去られ、改心すること、したがって主と結合されること、永遠に生きることができないからです。それゆえ、人間が自分の目のひとみを守るように、主は人間のもとの自由を守られます。
しかしそれでも、主は自由によって絶えず人間を悪から連れ去り、自由によって連れ去られることができればできるほど、それだけ自由によって善を植え付けられます。そのように継続的に地獄の自由に代わって天界の自由を与えられます。