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神の摂理 96

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96 (7)主はそれらの二つの能力を人間のもとで損なわれず、そしてすべてのご自分の神的な摂理の進行の中で聖なるもののように守られる
その理由は、それらの二つの能力なしに人間に理解力と意志はなく、このように彼は人間でなくなったであろうこと、さらに、人間はそれら二つの能力なしに主と結合されることができず、このように改心し、再生することができず、そのようにまた、それらの二つの能力なしに人間に不死性はなく、永遠のいのちがなくなったであろうことです。
そのようであることは、前の箇所で与えられており、自主性と推理力は何かという知識から、確かに見られることができます――しかし、それらが結論として視覚に示されないならはっきりとではありません、それゆえ、明らかにしておくべきです。
[2]「それらの二つの能力なしに人間に理解力と意志はなく、このように彼は人間でなくなったであろうこと」というのは、人間に意志は、自分自身からのように自由に意志することができること以外の他の出所からではないからです。そして、自分自身からのように自由に意志することは、主から絶えず与えられている自主性と呼ばれる能力からです――人間に、理性のものであるかどうかと自分自身からのように理解することができる理解力は他の出所からではありません。そして、理性のものであるどうかと理解することは、主から絶えず与えられている推理力と呼ばれるそのもう一つの能力からです。
これらの能力が人間のもとで意志と理解力のように結合されます。すなわち、人間は意志することができるので、理解することもまたできるのです。なぜなら、意志することは理解することなしに存在しないからです。理解することは、彼の仲間または配偶者であり、それを伴わないで存在することができません――それゆえ、自主性と呼ばれる能力とともに、推理力と呼ばれる能力が与えられています――さらにまた、あなたが理解することから意志することを取り去るなら、あなたは何も理解しません――
[3]あなたが欲すれば欲するほど、知識と呼ばれる補助が現存するかまたは同時に現われるかぎり、それだけあなたは理解することができます、なぜなら、それらは働く者の道具のようであるからです。
あなたが欲すれば欲するほど、すなわち、あなたが理解することを愛すれば愛するほど、それだけあなたは理解することができる、と言われます、なぜなら、意志と愛は一つとして働くからです。
このことは確かに背理のように見えます。しかし、理解することを愛さず、ここから欲しない者には、そのように見えます――欲しない者は、自分自身にできない、と言います。
けれども、だれができないか、まただれがほとんどできないか、続く節の中で述べます。
[4]人間に自主性と呼ばれる能力から意志がなかったなら、そして推理力と呼ばれる能力から理解力がなかったら、彼は人間でなくなったであろうことは、確証なしに明らかです。
獣にそれらの能力はありません。
獣もまた意志することができ、理解することができるように見えますが、しかし、できません。
自然的な情愛がありますが、それらは本質的に欲望であり、その配偶者である知識とともに、それらはもっぱら、行ないを行なおうとすることへそれらを導き、そのことをもたらします。
市民的なものや道徳的なものが確かにそれら獣の知識の中にあります、しかし、それらの上にはありません、その獣に、道徳的なものを知覚することを、ここから分析的にそれを考えることを与える霊的なものがないからです。
確かに、何かを行なうことが、教えられることができます、しかし、このことは自然的なものであり、それは知識と同時にそれらの情愛でそれ自体に加えられたものであり、そしてあるいは視覚によってあるいは聴覚によって再現されます、しかし、決して思考のものに、ましてそれらのもとに理性のものになりません。
これらの事柄について、何らかのものが前に見られます(74番)。
[5]「人間はそれら二つの能力なしに主と結合されることができず、このように改心し、再生することができないこと」は前に示されています。
なぜなら、主は人間のもとにそれらの二つの能力の中に、善い者と同様に悪い者に住まわれ、それらによってご自分をそれぞれの人間に結合されるからです。
ここから、善い者と同様に悪い者は理解することができ、ここから彼らは善の能力そして真理の理解力の潜在能力の中にいて、実際に存在しないのは、それらの能力の濫用からです。
主がそれぞれの人間のもとにそれらの二つの能力の中に住まわれることは、主の意志の流入からであり、それらが人間により受け入れられること、ご自分のもとに住まいを持つこと、そして永遠のいのちの幸福が与えられることを望まれています。主の神的な愛そのもののものであるので、これが主のみこころです。
人間の中に、自分のものであるように、考え、話し、欲し、行なうことが見えるようにすること、これが主のみこころです。
[6]主のみこころの流入がそのことを生み出していることは、霊界から大いに確証されています。
時々、主は天使を、天使が〔自分を〕主であるとしか知らないようにまでも、ご自分の神性で満たされるからです。
アブラハム・ハガイ・ギデオンに見られた天使たちは、そのように満たされ、彼らはここから自分自身をエホバと呼びましたが、それらのことについては聖書の中にあります。
そのようにまた、ある霊は他の霊により、他の霊であるとしか知らないようにまでも満たされることができます。このことはしばしば私に見られています。
天界の中でもまた、主のみこころによってすべてのものを生み出し、欲するものを生じさせていることはよく知られています。
これらから、それらの二つの能力があること、それらによって主はご自分を人間に結合されること、それらによって人間が相互に結合されるようにすることが明らかです。
けれども、どのように人間がそれらの能力によって相互に結合されるか、したがって、どのようにそれらによって改心され、再生されるか、前に言われています、またそれについて多くのことが次に言われます。
[7]「それらの二つの能力なしに人間に不死性と永遠のいのちがなくなったであろうこと」そこで、言われたことから、それらによって主との結合、さらに改心と再生があることがいえます。結合によって人間に不死性があり、そして改心と再生によって永遠のいのちがあります――それらの能力によってすべての人間との主の結合があるので、善い者と同様に悪い者に、言われているように、それゆえ、すべての人間に不死性があります。しかし、最内部から最外部まで相互の結合がある者のもとに、その人間に永遠のいのち、すなわち、天界のいのちがあります。
これらから、なぜ主がそれらの能力を人間のもとに損なわれず、聖なるもののように、すべてのご自分の神的な摂理の進行の中に守られるか、その理由を見ることができます。