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神の摂理 139

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139「恐れの状態」の中でだれも改心されないのは、恐れは自由と理性を、すなわち、自主性と推理力を取り去るからです。というのは、愛は心の内的なものを開きますが、しかし、恐れはそれを閉ざし、閉ざされるとき、人間はわずかなものを考え、その時、アニムスまたは感覚に現われる以外のものでないなら考えないからです。
アニムスに侵入するすべての恐れは、このようなものです。
[2]人間に思考の内なるものと思考の外なるものがあることは、前に示されています――恐れは決して思考の内なるものに侵入することができません。これは、いのちのその愛の中にあるので、常に自由の中にあります。しかし、思考の外なるものに侵入することができ、これが侵入するとき、思考の内なるものは閉ざされ、その閉ざされることから、人間はもはや自分の理性にしたがって自由から行動することができず、したがって、改心することができません。
[3]思考の外なるものに侵入する恐れは、特に名誉または利益の失うことの恐れは、内なるものを閉ざします。けれども、市民の罰のための、また教会の罰のための外なる恐れは、閉ざしません、それらの法律は単に、国の市民の事柄と教会の霊的な事柄に対して、話し、行なう者たちに対して罰を命じますが、それらに反して考える者に対してではないからです。
[4]地獄の罰の恐れは確かに思考の外なるものに侵入します、しかし、いくらかの瞬間または時間、または日々だけです。しかし、間もなく、心の思考と呼ばれる正当に彼の霊のもの、いのちの愛のものである思考の内なるものからの自分の自由の中に戻されます。
[5]しかし、名誉と利益の失うことの恐れは、人間の思考の外なるものに侵入します。侵入する時、天界からの流入のための上のものからの思考の内なるものを閉ざし、人間が改心されることができないようにします。
その理由は、それぞれの人間のいのちの愛は、出生から自己と世の愛であり、そして自己愛は名誉への愛と一つとなり、世俗愛は利益への愛と一つとなっているからです――それゆえ、人間が名誉の中にまたは利益の中にいるとき、それらを失うことに対する恐れから、自分自身のもとに彼の名誉と利益のために仕える手段を強めます。それらの手段は市民のものと同じく教会のものであり、両方とも支配されるようにします。
名誉または利益の中にまだいない者も、もしそれらを得ようとするなら同様に行ないますが、しかし、それらのために名声を失うことに対する恐れからです。
[6]その恐れは思考の外なるものに侵入し、天界からの流入のための上のものからの内なるものを閉ざす、と言われます――完全に外なるものと一つとなる時、これが閉ざされると言われます、なぜなら、その時、それ自体の中にではなく、しかし、外なるものの中にあるからです。
しかし、自己と世の愛は地獄の愛であり、すべての悪の豊かな泉であるので、思考の内的なものが彼らのもとで本質的にどんなものであるか、すなわち、それらの愛がいのちの愛、支配する愛であること、すべての種類の悪の欲望に満ちていることが明らかです。
威厳と富を失うことの恐れから宗教的な信念について強い間違った信念の中にいる者は、とりわけ、異教の神のように、同時に地獄の中のプルートーンのように礼拝されることを含む宗教的な信念の中にいる者は、この悪を知りません。これらの者は、霊魂の救いのために熱意から燃え立つことができ、それでもこのことは地獄の火からです。
この恐れは起源から天界のものである推理力そのものと自主性そのものを特に取り除くので、それは人間が改心できないような障害物となることが明らかです。