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神の摂理 115

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115 仁愛から分離した信仰の中にいて、また「ローマ人への手紙」でパウロの言葉、人間は律法の働きなしに信仰により義とされる(3・28)ことから自分自身に確信した者は、太陽を崇拝する者のように、この言葉を崇拝し、目を頑固に太陽の中に固定させた者のようになり、そのことから鈍くなったまなざしは、真昼の光の中で何も見ません――というのは、モーセにより書かれたそこの「律法の働き」によって、儀式が意味されており、それらはどこでもそこに「律法」と呼ばれており、十戒の戒めでないことを見ないからです。
それゆえ、十戒の戒めが意味されていない、と言って、〔次のように〕説明します、

それゆえ、私たちは信仰によって律法を廃止したのではないのか?〔そんなことは〕ない、しかし、私たちは律法を確立させる(同章の第31節)。

その言葉から自分自身に〔仁愛から〕分離した信仰を確信した者は、太陽のようにそれを熟視して、その箇所に信仰の律法が列挙されているのを見ません、それらは仁愛の働きそのものです。そこで、その律法なしに信仰とは何でしょうか?
悪の働きを行なう者は、天界の中に入ることができない、と言って、そこにその悪の働きが列挙されていることも見ません。
そのことから、この箇所のたった一つの悪い理解から、どのような盲目が引き起こされるか明らかです。