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神の摂理 114

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114 (4)外なる人の中の悪は、人間によってでなければ、主により遠ざけられることができない
すべてのキリスト教の教会の中で次の教えが受けられています。人間は聖餐に近づく前に、自分自身を調べ、自分の罪を見、認め、悔い改めを行ない、悪魔からであるので、それらから離れ、それらを退けなければならないこと、何らかの罪は彼に赦されず、有罪とされることです。
イギリス人は、たとえ信仰のみについての教えの中にいても、それでも聖餐に向けての祈りの中で、罪を調べ、〔それらを〕承認し、告白し、悔い改めて、いのち(生活)を新しくすること公然と教えており、そしてそれらを行なわない者を、何らかの悪魔がユダの中に入ったように彼らの中に入り、そして彼らをすべての不正で満たし、身体と霊魂を破壊するという言葉でおどしています。
信仰のみについての教えの中にいるドイツ人、スウェーデン人、デンマーク人もまた、聖餐への祈りの中で同様のことを教えています。さらにまた、そうでなければ自分自身に地獄の罪を作り出し、そして聖なるものと世俗のものの混合のために永遠に断罪されるとおどしています。
これらは祭司により、すべての承認をもって、このようであることが大きな声で彼らの前で朗誦され、聖餐に出席しようとする者にもまた聞かれます。
[2]それにもかかわらず、同じ者が、そのとき同じ日に、信仰のみについて説教を聞き、その時、主は律法を成就したので律法は彼らを有罪としないこと、自分自身からは功績を求めるものでないなら何らかの善を行なうことができないこと、このように本質的に救いに何の働きも持たないこと、しかし、信仰のみが救うことを聞いて、家に戻ると、前の告白をすっかり忘れて、信仰のみについて説教から考えるかぎり、それを拒否します。
それで、〔次の〕前者あるいは後者の何れが真理ですか?対立した二つのものが真理であることはできません。〔一つは〕調べること、思考、承認、告白と罪の拒否なしに、このように悔い改めなしに、彼らに赦しは、したがって救いは存在せず、永遠の断罪があることです――または〔もう一つは〕人間のすべての罪の代わりに、信仰の中にいる者のためになされた十字架上の受難を通して主による完全な贖罪であるので、このようなものは救いに何もなさないこと、信仰のみの中にいる者たちは、このようであることの信頼とともに、また主の功績の転嫁について、罪がないという信頼の中で、神の前で、顔が洗われて輝いて見られることです。
これらから、キリスト教世界の中のすべての教会のすべての宗教は、人間は自分自身を調べ、自分の罪を見、認めなければならないこと、またその後、それらから離れなければならなず、そうでなければ救いはなく、しかし、有罪とされることが明らかです。
さらにまた〔これが〕神的な真理そのものであることは、人間が悔い改めを行なわなければならないことを命じられているみことばの箇所から明らかです、例えばこれらから――

ヨハネは、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。……すでに……斧は木の根元に置かれている。よい実を結ばない木は、すべて、切り倒される、また火の中に投げ込まれる」と言った(ルカ3:8, 9)。
イエスは、「あなたがたが悔い改めないなら、すべての者〔と同じように〕あなたがたは滅びます」と言われた(ルカ13:3, 5)。
イエスは、「神の王国の福音を……悔い改めを行ない、福音を信じなさい」と宣言された(マルコ1:14, 15)。
イエスは、弟子たちが出て行き「悔い改めを行なうように」と宣言するよう送り出された(マルコ6:12)。
イエスは、使徒たちに「すべての国民に悔い改めと罪の赦し」を宣言しなければならない、と言われた(ルカ24:47)。
ヨハネは、「罪の赦しの中に悔い改めのバプテスマ」を宣言した(マルコ1:4, ルカ3:3)。

次のことについてもまた何らかの理解力から考えなさい。もしあなたに宗教があるなら、あなたは、罪からの悔い改めは天界への道であること、悔い改めから分離した信仰は信仰でないこと、また悔い改めないことから、信仰の中にない者は、地獄への道の中にあることを見ます。