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神の摂理 106

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106(2)人間の思考の外なるものは、本質的にその内なるものがどんなものであるかによる
人間が頭からかかとまでがどんなものであるかは、彼のいのちの愛によることは前に示されました。
そこでここに、最初に人間のいのち(生活)の愛について何らかのものが言われなくてはなりません。そのことの前に、人間の内的なものをつくる知覚と一緒に情愛について、そして彼の外的なものをつくる思考と一緒に情愛の快さについて、何らかのものが言われることができるからです。
愛は多種多様です、しかし、天界の愛と地獄の愛であるそれらの二つのものは主人と王のようです。
天界の愛は主への愛と隣人に対する愛であり、地獄の愛は自己と世への愛です。
後者と前者は天界と地獄のように対立しています。なぜなら、自己と世への愛の中にいる者は、自分自身に以外に何らかの善を欲しないで、主への愛また隣人に対する愛の中にいる者は、すべての善を欲するからです。
これら二つの愛は人間のいのちの愛ですが、多くの変化とともにあります。
天界の愛は、主が導く者のいのちの愛であり、地獄の愛は、悪魔が導く者のいのちの愛です。
[2]しかし、それぞれの者のいのちの愛は、情愛と呼ばれる派生物なしに存在することができません。
地獄の愛の派生物は悪と虚偽の情愛であり、正しくは欲望です。天界の愛の派生物は善と真理の情愛であり、正しくは熱望です。
地獄の愛の情愛は、正しくは欲望であり、悪と同数のそれだけ多くあります、また天界の愛の情愛は、正しくは愛する行動であり、善と同数だけ多くあります。
愛はその情愛の中に自分の領域の中の主人のように、または自分の王国の中に王のように住みます――それらの支配と王国は、心に属するもの、すなわち、人間の意志と理解力であり、ここから身体に属するものにおよびます。
人間のいのちの愛は、その情愛とここからの知覚によって、そしてその快さとそこからの思考によって、人間全体を支配し、彼の心の内的なものを情愛とそこからの知覚によって、また心の外的なものを情愛の快さとそこからの思考によって支配します。