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神の摂理 157

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157 人間は主だけから生き、自分自身からでないことは、次の論証から証明されます――唯一の本質・唯一の実体・唯一の形があり、それらから創造されたすべての本質・実体・形があることです。
その唯一の本質・実体・形は、神的な愛と神的な知恵であり、それらから人間のもとの愛と知恵に関係するすべてのものがあります。
さらにまた、それらすべてのものに関係する善そのものと真理そのものがあります。
また、それらはいのちであり、そのすべてのいのちから、いのちに属するすべてのものがあります。なおまた、「唯一そのもの」は遍在・全知・全能です。
そしてまた、この唯一そのものは、永遠からの主、すなわち、エホバです。
[2]第一――唯一の本質・唯一の実体・唯一の形があり、それらから創造されたすべての本質・実体・形が存在する
このことは著作『神の愛と知恵』(44-46番)の中に、またそこの第二部の中に、天使の天界の太陽は、主からであり、その中に主がおられ、唯一の実体と形であり、その太陽から創造されたすべてのものがあり、その太陽からでないものは何も存在しないし、存在できないことが示されています。
その太陽からすべてのものは段階にしたがって派生によって存在することは、そこの第三部に示されています。
[3]だれが、唯一の本質があり、その本質からすべての本質があること、すなわち、唯一のエッセ(存在)があり、そのエッセからすべてのエッセ(存在)があることを理性から知覚し、認めませんか?
エッセなしに何が存在するようになることができますか、それからすべてのエッセがあり、エッセそのものでないなら、エッセとは何ですか?
エッセそのものは、唯一のエッセでもあり、本質的にエッセです。
そのようであるとき(また、だれもがこれを理性から知覚し、認めます、またそうでないなら、知覚し、認めることができます)、その時、神性そのものであるこのエッセであるもの以外に、何が存在するといえますか、エホバがすべてのすべてであり、それは存在し、存在するようになります。
[4]唯一の実体があり、それからすべてのものあると言っても同じです。形のない実体は何らかのものではないので、唯一の形があり、それからすべてのものがある、ともいえます。
天使の天界の太陽は、その唯一の実体と形であり、なおまた、どのようにその本質・実体・形が、創造の中で変えられるか、前述の著作の中で示されています。
[5]第二――唯一のその本質・実体・形は、神的な愛と神的な知恵であり、それらからすべてのものがあり、それらは人間のもとの愛と知恵に関係する
このこともまた著作『神の愛と知恵』の中に、十分に示されています。
人間のもとで生きていることが見られるどんなものでも、彼のもとの意志と理解力に関係し、これら二つのものが彼のいのちをつくることは、だれもが理性から知覚し、認めます。
「これを私は意志する」、または「これを私は理解する」、すなわち、「これを私は愛する」、または「これを私は考える」こと以外に、何か他のものがありますか?
人間は愛するものを意志し、また理解するものを考えるので、それゆえ、意志のすべてのものは愛に、理解力のすべてのものは知恵に関係します――これら二つのものは、「愛そのもの」と「知恵そのもの」である方からでないなら、だれかのもとにそれ自体から存在することはできないので、永遠の主、すなわち、エホバからそれらは存在するといえます。ここからでないなら、人間は愛そのものと知恵そのもの、したがって永遠からの神になり、そのことに人間の理性そのものが恐怖を感じます。
それ自体よりも前のものからでない何かが存在することができますか?さらにそれ自体よりも前のものからでない前のものは存在することができますか?このように最終的に「最初のもの」からでないなら、それは本質的に存在しますか?
[6]第三――同様に、善そのものと真理そのものがあり、それらにすべてのものが関係する
理性をもつすべての者により、神は善そのものと真理そのものであること、さらにすべての善とすべての真理はその方からであること、それゆえまた、すべての善とすべての真理は、善と真理そのものから以外の他のところからやって来ることができないことが受け入れられ、認められています。これらは聞かれるとすぐに理性的なすべての人間に認められます。
その後、そのとき、主から導かれる人間のもとの意志と理解力のすべてのものは、または愛と知恵のすべてのものは、または情愛と思考のすべてのものは善と真理に関係し、人間が意志し、理解する、または、愛し、味わい、すなわち、それによって働きかけられ、またそれを考えるすべてのものは、主からである、といえます。
ここから、人間からのすべての善とすべての真理は本質的に善と真理ではなく、しかし、主からのものだけがそうであることは、教会の中のだれもが知っていることです。
このことは真理であるので、このような人間が意志し、考えるものすべてのものは、主からであることがいえます。
すべての悪い人間もまた、他の起源から意志し、考えることができないことは、続きの中で見られます。
[7]第四――それらはいのちであり、それらからすべてのいのちといのちに属するすべてのものがある
このことは、著作『神の愛と知恵』の中で多く示されています。
人間の理性もまた、人間のすべてのいのちは彼の意志と理解力に属する、と聞くと直ぐに受け入れ、認めます。なぜなら、意志と理解力が取り去られるなら、生きないからです。すなわち、同じことですが、人間のすべてのいのちは彼の愛と思考に属します、なぜなら、愛と思考が取り去られるなら、生きないからです。
そこで、人間のもとの意志と理解力のすべてのものは、または、愛と思考のすべてのものは主からであるので、前に言われたように、今や、すべてのいのちはその方からであることがいえます。
[8]第五――この唯一そのものは、遍在・全知・全能である
このこともまたキリスト教徒のだれもがその教えから、異教徒のだれもが自分の宗教から認めます。
さらにまたここから、神がいると考える者はだれも、どこにいても、そこに現在される神に祈ります。だれもがそのように考え、そのように祈るとき、神がどこにもいる、そのように遍在される、としか考えることができない、といえます――全知と全能も同様です。それゆえ、自分の心から神に祈るすべての者は、その方ができるので、自分たちを導いてくださるよう、嘆願します――したがって、だれもがその時、神的な遍在・全知・全能を認めます――その時、顔を主へ向けるので、またその時、その方からその真理が流入するので、認めます。
[9]第六――この唯一そのものは、永遠からの主、すなわち、エホバである
『新しいエルサレムの教え 主について』の中に、神は、本質と位格において一つであること、その神は主であること、父エホバと呼ばれる神性そのものは永遠からの主であり、神的人間性は永遠からその神性からみごもりまた世で生まれた子であること、発出する神性は聖霊であることが示されています。
唯一そのものと言われるのは、前にも言われたからであり、永遠からの主、すなわち、エホバは、いのちそのものであり、愛そのものと知恵そのもの、すなわち、善そのものと真理そのものであるので、それらからすべてのものがあります。
主は自分自身そのものからすべてのものを創造され、無からは〔創造され〕ないことは、著作『神の愛と知恵』の中に見られます(282-284番349-357番)。
これらから、人間は主だけから導かれ、教えられるという真理が、理性によって確信されます。