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神の摂理 150

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150 (6)外なる人は内なる人によって改心され、逆ではない
人間の内なるものと外なるものによって、思考の内なるものと外なるものと同じものが意味され、それについて、しばしば前に示しました。
外なるものが内なるものによって改心することは、内なるものは外なるものの中に流入しないこと、また逆でないことです。
霊的なものが自然的なものの中に流入し、逆でないことは学界の中でよく知られています――内なる人が最初に、またこのように外なる人が清められ、新しくされなければならないことは教会の中でよく知られています。よく知られているのは、主が教えられ、また理性が命ずるからです。
主はこのことを次の言葉で教えられています――

あなたがたにわざわい〔あれ〕……偽善者たち、あなたがたは杯や皿の外側を清める、しかし、内側は強奪と不摂生でいっぱいである。盲目のパリサイ人よ、最初に杯と皿の内なるものを清めよ、外側もまたきれいになるように(マタイ23:25)

[2]理性が命ずることは、著作『神の愛と知恵』の中の多くのものによって示されています。
主は〔ご自分が〕教えることを、理性で知覚することもまた人間に与えられるからであり、このことは二つの方法によります。一つは、本質的に見ることであり、それは聞くと直ぐにそのようであると見ることです。もう一つは、理性によってそれを理解することです。
本質的に見ることはその内なる人の中にあり、そして理性によって理解することは外なる人の中にあります。
内なる人が最初に清められ、それによって外なる人が清められなければならない、と聞くとき、だれが本質的に見ませんか?
しかし、このことについて天界からの流入から全般的な観念を受けていない者は、自分の思考の外なるものに諮るとき、欺かれるかもしれません。内なるものなしに、これ〔外なるもの〕だけからでは、仁愛と敬虔のものである外なる働きが救うこと以外に、だれも何らかのものを見ません。
視覚と聴覚が思考の中に、においと味が知覚の中へ流入することのように、他の事柄でも同様です。そのように、外なるものが内なるものの中に流入します、そのときそれでも逆です。
見られ、聞かれるものが思考の中に流入するように見えることは欺きです、なぜなら、理解力が目の中に見、耳の中で聞き、その逆ではないからです――他のものでも同様です。