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神の摂理 151

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151 しかし、どのように内なる人が改心し、内なる人によって外なる人が改心するか、何らかのものを述べます。
内なる人は、知り、理解し、賢明であることだけによってでは、したがって、考えることだけによってでは改心しません。しかし、知識・知性・知恵が教えることを欲することによってです。
人間が、天界と地獄があり、すべての悪は地獄から、すべての善は天界からであることを、知り、理解し、賢明である時、もしその時、地獄からのものであるからと悪を欲しないで、天界からのものであるからと善を欲する時、改心の第一の段階に、地獄から天界への入り口にいます。
人間がもっと先へ進み、悪をやめることを欲するとき、改心の第二の段階の中にいます。その時、地獄の外にいますが、しかし、まだ天界の中にいないで、これを自分の上方に見ます。
人間が改心するために、この内なる人がいなくてはなりません。しかし、内なる人と同じく外なる人が改心しないなら、人間は改心しません。
外なる人が悪をやめ、それを内なる人が地獄のものであるからと欲せず、さらに、それゆえ、それを避け、それらに対して闘争するとき、外なる人は内なる人によって改心します。
このように、内なる人は意志するものであり、外なる人は行なうものです。なぜなら、だれかが欲することを行なわないなら、内部に欲しないものがあり、最後に欲しないことが生ずるからです。
[2]これらのわずかなものから、どのように外なる人が内なる人によって改心するか見ることができます。
このこともまた、ペトロへの主の言葉によって意味されることです、

イエスは……言われた、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと関係がありません」。ペテロはその方に言った、「主よ。私の足だけでなく、手と頭もまた」。主は彼に言われた、「洗った者は、足に関して洗われること以外に必要ありません、全部が清いのです」 (ヨハネ13:8-10)。

「洗うこと」によって、霊的に洗うことが意味され、それは悪から清めることです。「頭と手を洗うこと」によって、内なる人を清めることが意味され、また「足を洗うこと」によって、外なる人を清めることが意味されます。
内なる人が清められたとき、外なる人が清められなければならないことが、「 洗った者は、足に関して洗われること以外に必要ありません」によって、意味されます。
悪からの清めることのすべては主によることが、「 もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと関係がありません」によって意味されます。
ユダヤ人のもとで、洗うことは悪から清めることを表象したこと、このことがみことばの中の「洗うこと」によって意味され、「足を洗うこと」によって、自然的な人を、すなわち、外なる人を清めることが意味されることが、『天界の秘義』の中に多く示されています。