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神の摂理 88

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88 だれでも、内なる理解力から何らかの思考がある者には、意志することの潜在能力(可能性)と理解することの潜在能力があることを見ることができます、しかし、その潜在能力は人間からではなく、その者に「潜在能力」そのものがある、すなわち、「潜在能力」がその本質の中にある方からです。
潜在能力(可能性)がどこからであるかだけを考えてみなさい。
その能力そのものがその方の中に、またこのようにその方からであるからではありませんか?
それゆえ、本質的に潜在能力は神的なものです。
すべての者に与えられなければならない潜在能力は、それ自体の内なるものまたは高いものからの決定〔される行為〕のようにその機会があります。
目はそれ自体から見ること、耳もそれ自体から聞くこと、口はそれ自体から話すことが、または手はそれ自体から行なうことができません。機会とそこからの決定〔される行為〕は心からでなければなりません。
これやそれやを心は自分自身から、心をそれへ決定する何らかの内なるものまたは高いものがないなら、考えることと意志することもできません。
理解することの潜在能力と意志することの潜在能力も同様です。これらは本質的に意志することができ、理解することができるその方以外の他の者から存在することができません。
[2]それらから、推理力と自主性と呼ばれるそれらの二つの能力は、主からであり、人間からでないことが明らかです。また、主からであるので、人間はどんなものでも自分自身からは何も意志せず、何も理解せず、自分自身から〔している〕ように〔見える〕だけである、といえます。
このようであることは、すべての善の意志、そしてすべての真理の理解力は主からであり、人間からでないことを知り、信じる者なら、だれでも自分自身で確信することができます。「ヨハネ福音書」のみことばで教えられています、

人間は何も自分自身から得ることができない、また何も自分自身からすることができない(3・27、15・5)。