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神の摂理 89

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89 さて、意志することはすべて愛からであり、理解することはすべて知恵からであるので、意志できることは神的な愛からであり、理解できることは神的な知恵からであることがいえます。したがって、二つとも神的な愛そのものと神的な知恵そのものであられる主からです。
ここから、他からでなく自由から理性にしたがって行動することになります。
自由は愛のように意志することから分離されることができないので、だれもが理性にしたがって行動します。
しかし、人間のもとには内的な意志と外的な意志が存在します。外的な意志にしたがって、同時に、内的な意志にしたがわないで、偽善者とおべっか使いのように、行動することができます。それでも外的な意志は自由から行動します。これと異なって見られるようにする愛から、あるいは内的な意志の愛からのある種の悪の愛から〔そのことを〕求めるからです。
しかし、前に言われているように、悪い者は自由から自分の理性にしたがって悪しか行なうことができません。さらに、自由から理性にしたがって善を行なうことができません――確かに、これを行なうことができますが、彼のプロプリウムの自由である内的な自由からではなく、善ではないものから外的な自由を得てそうしています。