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神の摂理 123

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123 (7)人間をご自分に、ご自分を彼に結合させ、彼に永遠のいのちの幸福を与えることができるように、絶え間のない主の神的な摂理があり、このことは、悪がそれらの欲望とともに遠ざけられていないかぎり、行なわれることができない
人間を主に、また人間がその方に結合することは、絶え間ない主の神的な摂理であり、その結合は改心と再生と呼ばれ、ここから人間に救いがあることは、前に示されています(27-45番)。
主との結合が永遠のいのちと救いであることをだれが見ませんか?
人間は創造から神の映像と似たものであること信じるすべての者はこのことを見ます(「創世記」1:26, 27)。
[2]健全な理性のある者が、自分の推理力から考え、自分の自主性から考えることを欲する時、等しい本質であり、神的なエッセ(存在)または神的な本質が分割されることができる三人の神がいることを、だれが信じることができますか?
ひとりの神の中に三一性があることは、天使そして人間の中に霊魂と身体が、そしてそれらから発出するいのちが把握されるように、このことは考え、把握されることができます。
また、一つのものの中のこの三一性は主の中だけに存在するので、結合はその方とでなくてはならないことがいえます。
あなたの推理力、そして同時に考える自主性を用いなさい、するとあなたはこの真理を自分の光の中に見るはずです。しかし、前もって、神が存在し、天界があり、また永遠のいのちがあることを心に入れておきなさい。
[3]さて、神はひとりであられ、そして人間は創造からその方の映像と似姿に造られたので、また地獄の愛そしてその欲望とその快さによって、すべての悪の愛の中にやって来ていて、ここから神の映像と似姿を自分自身のもとに破壊したので、絶え間ない主の神的な摂理があり、それは人間をご自分に、ご自分を人間に結合させ、このようにその方の映像であるようにします。
このことは、主が人間に永遠のいのちの幸福を与えることをできるようにする目的のためであることもまたいえます、なぜなら、神的な愛はこのようなものであるからです。
[4]けれども、人間が自分自身からのように人間の外的なものの中で罪を遠ざけないなら、それらは与えられることも彼をご自分の映像につくることもできません。なぜなら、主は神的な愛であるだけでなく、神的な知恵でもあり、神的な愛はご自分の神的な知恵からでないなら、またそれにしたがってでないなら何も行なわないからです。
人間は、彼に理性にしたがって自由から行動することが許されないなら(というのはそのことによって人間は人間であるから)、その方に結合され、したがって改心し、再生され、救われることができないことは、その方の神的な知恵にしたがっています。どんなものでも主の神的な知恵にしたがっているものは、これもまたその方の神的な摂理のものです。