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神の摂理 338

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338 (3)直接の慈悲からの瞬間の救いは、ありえない
先行するものの中で、人間の救いのための神的摂理の働きは、彼の出生から始まり、彼の生涯の終わりまで、またその後、永遠に続くこと、なおまた、その働きは純粋な慈悲から手段によって絶えず生ずることが示されています。
これらから、瞬間の救いは、直接の慈悲も存在しないことがいえます。
しかし、教会または宗教の事柄について何らかのものを理解力から考えない多くの者は、直接の慈悲から救われ、ここから救いが瞬間のものであると信じ、それでもこのことは真理に反し、加えて有害な信仰であるので、次の順序の中で考慮されることが重要です。

(1)直接の慈悲からの瞬間の救いについての信仰は人間の自然的な状態から把握された。
(2)この信仰は、自然的な状態から完全に異なっている霊的な状態の無知からである。
(3)キリスト教世界の中のすべての教会の内部で見られる教えは、直接の慈悲からの瞬間の救いに反している、しかし、それでも、教会の外なる人はそれらを確かなものにしている。
[2]第一――直接の慈悲からの瞬間の救いについての信仰は人間の自然的な状態から把握された
自然的な人間は自分の状態から、天界の楽しさは世の楽しさのようであり、そして同じように流入し、受けいれられるとしか知りません。例として、貧しい者が富んだ者になったようなもの、このように貧困の惨めな状態から裕福な幸福の状態の中にやって来るようなもの、あるいは、卑しい者が称賛される者になり、このように軽蔑から名声の中にやって来るようなもの、または、嘆きの家から婚礼の楽しみの家にやって来るようなものです。
これらの状態は一日の内に変えられることができ、死後の人間の状態について他に概念がないので、直接の慈悲から瞬間の救いが信じられることがどこからであるか明らかです。
[3]世でもまた多くの者が、市民の一つの交わりの中に、一つの社会の中にいて一緒に喜び、それでもなお、すべての者は心で異なることができます。このことは〔人間の〕自然的な状態の中で生じます。
その理由は、ある人間がその外なるものを他の者の外なるものと、どれほど内なるものが似ていなくても、合わせられることです。
さらにまたこの自然的な状態から、救いは単に天界の中の天使のところに入るのを許され、入るのを許されるのは直接の慈悲からであることが結論されます――それゆえまた、悪い者も善い者と等しく天界を、世の中と同様の仲間づきあいが、それらが楽しさに満ちているという相違とともに与えられることができる、と信じられています。
[4]第二――しかし、この信仰は、自然的な状態から完全に異なっている霊的な状態の無知からである
霊的な状態について、それは人間の死後の状態であり、前に多くの箇所の中で扱われています。それぞれの者が自分の愛であること、だれも、似た愛の中にいる者とでないなら、他の者と生きることができないこと、他の者のところにやって来るなら自分のいのちを呼吸することができないことが示されています。
ここから、それぞれの者が、死後、似た愛の中にいる者の自分の社会の中にやって来て、彼らを親類のように、友のように認めます。驚くべきことですが、彼らに会い、見るとき、彼らを幼児期から知っていたようです。このことは霊的な親族関係と友情から生じます。
それどころかさらに、ある者は社会の中で自分のもの以外の他の家の中に住むことができず、それぞれの者に社会の中の自分の家があり、社会に入ると直ぐに、自分自身に準備されたその家を見つけます。
交わりの中で、自分の家の外で他の者といることができます、しかし、それでも、自分のところ以外の他のところに留まることはできません。
もっとさらに、ある者は他の者の部屋の中で、自分の場所でしか座ることができません。もし、他の場所に座るなら、自分の心がないように、口がきけないようになります。不思議なことに、部屋に入る時、だれもが自分の場所を知っています。神殿(教会、礼拝所)の中でも、そしてまた集会に集まる時も、同様です。
[5]これらから、霊的な状態が自然的な状態から完全に異なっていること、そしてある者は、彼の愛が支配しているところ以外の他のところにいることができないようなものであることが明らかです。
というのは、そこに彼のいのち(生活)の楽しさがあり、またそれぞれの者が自分のいのち(生活)の楽しさの中にいることを欲し、それが彼のいのち(生活)を、それどころか呼吸そのものを、そのようにまた心臓の鼓動をつくるので、人間の霊は他のところにいることができません。
自然界では異なります――この外的なものの中に、人間は幼児期から、彼の内部にあるもの以外の他の快さを、顔つき・話し方・身振りで偽り装うことを教えられています。それゆえ、自然界での人間の状態から、彼の死後の状態について結論されることはできません。なぜなら、それぞれの者の死後の状態は霊的であり、自然界での生活によって自分自身に得た自分の愛の快さ以外の他のところにいることができないからです。
[6]これらから、だれも天界の快さ、普通の言葉で天界の楽しさと呼ばれるものの中に、地獄の快さの中にいる者が入れられることができないこと、すなわち、同じことですが、悪の快さの中にいる者が善の快さの中に入れられることができないことを、はっきりと明らかにすることができます――だれにも天界の中に上ること、彼に道が示され、機会が与えられ、入れられることが否定されないことをさらに明瞭に結論できます。しかし、天界の中にやって来て、呼吸してその快さを引き寄せる時、胸に痛みを感じ、心臓を苦しめられ始めます。そして気絶しそうに感じ、その中で、火に近づけられたヘビのように自分自身をねじり、そのとき顔を天界から背け、地獄へ向け、真っ逆さまに逃げ去り、自分の愛の社会の中へ〔戻る〕以外に休みもしません。
ここから、天界の中にやって来ることは直接の慈悲からではないことを明らかにすることができます。それゆえ、世の中の多くの者が憶測するように、単に入るのを許されることではありません。なおまた、瞬間の救いもありません、なぜなら、これは直接の慈悲を前提とするからです。
[7]直接の慈悲からの瞬間の救いを信じた者がいました。彼らは霊となった時、自分の地獄の快さまたは悪の快さが、神的な全能からまた同時に神的な慈悲から、天界の快さまたは善の快さに変えられるように欲しました、このように熱望したので、さらにまた、天使により行なわれるように許され、彼らの地獄の快さを取り除きました――しかし、その時、その快さは彼らのいのちの愛の快さであり、それゆえ彼らのいのちあったので、すべての感覚とすべての動きがなく、死んだように横たわりました。自分のもの以外の他のいのちを吹き入れることも不可能でした。彼らの心の、また身体のすべてのものは、後ろ向きに変えられており、反対のものに曲げ返すことができなかったからです――それゆえ、彼らのいのちの愛の快さを送り込むことによって生き返させられました。
その後、彼らは、その状態の中である種の恐ろしいものと身震いするものを内的に感じたと言い、それを公けにすることを欲しませんでした。
それゆえ、天界では、何らかの地獄霊を天界の天使に変えるよりも、ミミズクをキジバトに、ヘビを子羊に変えることのほうが容易である、と言われています。
[8]第三――キリスト教世界の中のすべての教会の内部で見られる教えは、直接の慈悲からの瞬間の救いに反している、しかしそれでも、教会の外なる人はそれらを確かなものにしている
教会の内部で見られるすべての教えは、生活を教えています。
どの教会の教えが、人間が自分自身を調べ、自分の罪を見て、認めなければならないこと、それらを告発し、悔い改めを行ない、その後、新しい生活を生きなければならないことを教えないでしょうか?
だれが、この警告と戒めなしに、聖餐に与ることを許されますか?
調べなさい、するとあなたは確信するでしょう。
どの教会の教えが十戒の戒めに基づきませんか?
そして、十戒の戒めは生活の戒めです。
善く生きる者が救われ、悪く生きる者が断罪されることを聞くとき、教会の何らかのものを持っている教会の人間なら、だれがそのことを認めませんか?
それゆえ、アタナシウス信条の信仰の中に、それもまた全キリスト教世界の中に受け入れられた教えであり、次のことが言われています――

主は生きている者と死んでいる者を裁くために来られ、その時、善を行なった者は永遠のいのちに、悪を行なった者は永遠の火の中に入る。

[9]それらから、教会の内部で見られるすべての教えは、生活を教えているがこと明らかです。生活を教えているので、救いは生活にしたがっていることを教えています。そして、人間の生活(いのち)は瞬間に吹き込まれません、しかし、継続的に形成され、人間が悪を罪として避けるほど改心します。それゆえ、何が罪か気づくほど、そしてそれを知り、認め、それを欲しないほど、それゆえ、それから離れます。
神の知識に関係する手段に気づくほど、これやそれによって人間の生活は形作られ、改心させられ、それはある瞬間に注ぎ込まれることができません。というのは、本質的に地獄のものである遺伝悪が遠ざけられ、それに代わって本質的に天界のものとなる善が植え付けられなくてはならないからです。
人間は自分の遺伝悪から、理解力に関してミミズクに、意志に関してヘビにたとえることができます。改心した後の人間は、理解力に関してキジバトに、意志に関して小羊にたとえることができます――それゆえ、瞬間の改心とここからの救いは、比較によって、ミミズクをキジバトに、そしてヘビを小羊に瞬間的に変化させるようなものになったでしょう。
ミミズクやヘビの性質が取り除かれ、キジバトや子羊の性質が植え付けられないなら、このことが存在しないことを、人間の生活について何らかのことを知っている者ならだれが見ませんか?
[10]さらにまた、知性のあるすべての者はさらに知的に、賢明であるすべての者はさらに賢明になることができること、また知性と知恵は人間のもとで成長することができ、ある者のもとで、幼児期からその生涯の終わりまで成長し、人間はこのように絶えず完全にされることがよく知られています。
霊的な知性と知恵は、どのようにもっと〔完全にされませんか〕?
これは自然的な知性と知恵の上の二つの段階によって上昇し、上昇するとき言語に絶する天使のものになります。
これが天使のもとで永遠に成長することは、前に言われています。
永遠に完全にされるものが瞬く間に完全になることは不可能であることを、もし欲するなら、だれが理解することができませんか?