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神の摂理 308

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(11)神的な摂理は、だれにも悪を、善も、自分のものとさせない、しかし、プロプリウムの思慮分別が両方のものを自分のものとする

308 ほとんどだれにも、「人間は自分自身から考え、意志している。ここから自分自身から話し、行動している」と信じられています。
自分自身からである時、だれが他のことを信じることができますか?外観が自分自身から実際に考え、意志し、話し、行動するのと何も違わないほどにも強いとき、それでもそのことはありえません。
『神の愛と知恵』の中に、唯一のいのちが存在し、人間はいのちを受容するものであること、なおまた、人間の意志が愛の容器であり、そして人間の理解力が知恵の容器であること、それら二つが唯一のそのいのちであることが示されています。
さらにまた、創造から、神的な摂理から、絶えずそのいのちが人間の中に、彼のものであるように、このような似ているものの中に、それゆえ、プロプリウムのように見られるように存在すること、しかし、このことは人間が〔その〕容器であることができる目的のための外観であることが示されています。
人間はだれも自分自身から考えないで、他の者から、また、他の者も自分自身からでなく、しかしすべての者は主から、このように悪い者も善い者も考えることもまた、前に示されています(288-294番)――なおまた、このことはキリスト教世界の中に、特に、「すべての善と真理は、すべての知恵もまた、このように信仰と仁愛は主からであり、そしてまた、すべての悪と虚偽は悪魔から、すなわち、地獄からである」と言うだけでなく、信じる者のもとでもまたよく知られています。
[2]これらすべてのことから、人間が考え、意志するすべてのものは流入するという結論に従うことしかできません。すべての話は、結果がその原因からのように、思考から、同様に、すべての行動が意志から流れるので、さらにまた、たとえ派生的または間接的にであっても、人間が話し、行動するすべてのものは流入します。
人間が見、聞き、嗅ぎ、味わい、感じるすべてのものが流入することは否定されることができません。人間が考え、意志するもので流入しないものがありますか?
外なるまたは身体の感覚器官の中に自然界の中にあるようなものが流入し、内なるまたは心の感覚の有機的な実体の中に霊界の中にあるようなものが流入すること以外に何か違いが存在することができますか?それゆえ、外なるまたは身体の感覚器官が自然的な対象の容器であるように、内なるまたは心の感覚の有機的な実体は霊的な対象の容器です。
このような状態が人間にあるとき、何がその時、彼のプロプリウムですか?このプロプリウムは受け入れに関して彼がどんなものであるかによるのであって、彼のプロプリウムはこれやあれやの容器ではありません、いのちのあるプロプリウムでもありません。というのは、プロプリウムによって、だれかからのものでなく、自分自身から生きるもの、ここから自分自身から考え、意志するものしか意味されないからです――しかし、このプロプリウムは人間のもとにありません、それどころかだれのもとにも存在することができません、このことは前述のことから結果として生じます。