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神の摂理 310

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310 (1)何がプロプリウムの思慮分別か、何がプロプリウムでない思慮分別か
外観を自分自身のもとに確信し、またそれらを〝真理〟とする者はプロプリウムの思慮分別の中にいます。特に、プロプリウムの思慮分別がすべてであり、神的な摂理は、何らからの普遍的なものでないなら何ものでもないとする外観です、それでもなお、前に示されているように、それらからの個々のものがなくては存在できません。
彼らは欺きの中にもまたいます、なぜなら、〝真理〟として確信されたすべての外観は欺きとなるからです。欺きからのものを自分自身に確信すればするほど、それだけ自然主義者となります。それだけ何らかの身体の感覚で同時に知覚することができるもの以外に何も信じません、特に視覚で〔知覚するものです〕、これはとりわけ思考と一つとして働くからです。これらの者はついに感覚的なものになります。
また、神に反して自然を自分自身に確信するなら、自分の心の内的なものを閉ざし、そしてヴェールのようなものを間に置き、そしてその後、ヴェールの下で考え、その上にあるものを何も考えません。
これらの感覚的な者は古代人により「知識の木のヘビ」と言われてきました。
彼らについて霊界の中で、〔感覚的なものを〕自分自身に確信するほど、「自分の心の内的なものを閉ざし、ついに鼻までも閉ざす」と言われています、というのは、鼻は真理の知覚を意味し、またその〔鼻をふさぐ〕ことは、何も知覚しないことを意味するからです。
彼らがどんなものであるか、今、述べます。
[2]彼らは他の者にまさってずるく、狡猾であり、才気のある理屈屋です。そして「ずるさと欺くこと」を「知性と知恵」と呼び、それ以外のことを知りません。
このようでない者を、特に神の礼拝者や神的な摂理の信者を単純な者や愚かな者のように眺めます。
彼らの心の内的な原理に関しては、それらについてその者自身もほとんど知りませんが、彼らは自分自身を眺めたとき、殺人・姦淫・盗み・偽りの証言を無意味なものとするマキアヴェリの追随者と呼ばれる者のようです、それらに反して推論するなら、そのような者として見られないための思慮分別だけからです。
[3]世の人間のいのちについては、獣のいのちと似ているとしか考えません。死後の人間のいのちについては、生命のある蒸発気のようであること、それは死体または墓から発生し、戻り、このように死ぬと考えています。
ここから、永遠のいのちを信じるようにされている者に、「霊と天使たちは空気であり、人間の霊魂も同様である。このように見も、聞きも、話しもしないこと、それゆえ盲目で、つんぼで、おしである。ただ自分のわずかな空気の中で考えているだけである」という狂気があります。
彼らは、「どのようにして、霊魂は何らかのものであることができるのか?外なる感覚は身体と一緒に死ぬのではないか?霊魂が身体に再結合されるより前に、それらの感覚を受けることはできない」と言います。また霊的にでなく、感覚的にしか理解することができなかったので、霊魂の死後の状態を、〔そのようなものであると〕確定させました。そうでなければ、永遠のいのちについての信仰は滅びていたでしょう。
特に、彼らは自己愛を、いのちの火と呼び、役立ちの分野の中でいろいろなものへの刺激と呼んで、自分自身のもとで確信します。
彼らはこのような者であるので、自分自身が偶像でもあり、彼らの思考は、欺きのものまた欺きからのものであるので、虚偽の像です。欲望の快さに好感を持つので、彼らはサタンと悪魔です。悪の欲望を自分自身のもとで確信した者は「サタン」と呼ばれ、その欲望に生きる者は「悪魔」と呼ばれます。
[4]最も狡猾な感覚的な人間がどんなものであるかもまた知ることが与えられました。
彼らの地獄は深くて、後ろにあり、彼らは目に見えないことを欲しています。それゆえ、そこで幽霊のように飛び回って見え、それは彼らの幻想であり、悪鬼と呼ばれます。
かつて、その地獄からある者が送り出されました。〔彼らが〕どんなものか私が知るためです。
彼らは直ちに私の後頭部の下の首に寄り添い、ここから私の情愛の中に入りました。思考の中に入ろうとしないで、それを巧みに避けました。私の情愛を、気づかれずに、悪の欲望である正反対のものに曲げようとするつもりで、あるものから他のものへと変えました。私の思考には何も影響を及ぼさず、私が知らないうちに、主が向きを変えさせなかったなら、それらを曲げ、逆さにしてしまったでしょう。
[5]世で何らかの神的な摂理が存在することを信じない者、また他の者のもとに、彼らを導き、彼らを支配するような、彼らの欲望や願望以外に何らかのものを見つけ出さない者は、このような者になります。
そのことは他の者が知らないように、ひそかに、狡猾に行なわれ、死後、自分自身がそれに似た者になるので、それゆえ、霊界にやって来た時、直ちに、その地獄の中に投げ込まれます。
天界の光の中で見られるとき、彼らには鼻がありません。驚くべきことに、たとえこのように狡猾であるにしても、それでも他の者よりも感覚的です。
古代人は感覚的な人間を「ヘビ」と呼び、またこのような人間は、他の者にまさってずるくて狡猾で、才気走った理屈屋であるので、それゆえ、

すべての野の獣にまさってヘビは狡猾であった(創世記3:1)。

と言われています。主は言われています、

あなたがたはヘビのように賢明であり、ハトのように素直でありなさい(マタイ10:16)。

そしてまた、古いヘビ、悪魔やサタンと呼ばれる竜は、

七の頭と十の角を、また頭の上に七つの王冠を持っている(黙示録12:3, 9)

と述べられています。「 七つの頭」によって狡猾が意味され、「 十の角」によって欺きによる説得力が意味され、「 七つの王冠」によってみことばと教会の聖なるものの冒涜が意味されます。